2話
転生してから、六年の月日が流れた。
この世界にもだいぶ慣れたつもりでいたが、振り返ってみれば初めてのことばかりだ。
中でも面白いのは、この世界には季節が六つあるという点だ。
花の節、風の節、火の節、岩の節、雪の節、氷の節。そう呼ばれている。
……まあ、それぞれがどんな季節なのか、正確に把握しているわけじゃない。
とりあえず今は花の節で、日本でいうところの初春あたりらしい。
六歳にもなれば、二足歩行は当たり前。薪割りくらいなら、それなりに戦力になる。
リーアとヴァロンは相変わらず仲睦まじいが、最近は俺の視線を少し気にするようになってきた。
さて、今日も俺は暖炉の前で本を読んでいる。
転生前は読書なんてほとんどしなかったが、スマホもゲームもない今、暇つぶしといえばこれしかない。
今読んでいるのは、小さなウサギが狼と友達になる物語だ。
意外と奥が深くて、けっこう面白い。
物語が終盤に差しかかろうとした、その時――家の戸が開く音がした。
「「ただいまー」」
両親だ。いつものように、狩りに行っていたのだろう。
「今日はなに採れたの?」
「おう、でかい鹿を仕留めてきたぞ。今日は鍋だな」
昔は獣臭いんだろうな、なんて思っていた。
だが人狼の子として生まれた俺の味覚は、すっかりジビエに順応している。
今や鹿も猪も、立派なご馳走だ。
「さて、夕飯まで時間があるな」
ヴァロンがそう言う。
時計に目をやれば、まだ十七時半。うちは十九時が夕食だ。
「……心配だわ」
リーアが、か細い声で呟く。
「心配って、なにが?」
ヴァロンは微笑みながら、リーアの背に手を添えた。
「大丈夫だ。俺も六歳くらいで習った……ウォルファ、お前、狩りに興味はあるか?」
「え? うん、あるよ」
正直、驚いた。
いつかはやるものだと思っていたが、まさか今とは。
「じゃあ、行こうか」
そう言って、ヴァロンは服を脱ぎ始める。
「ちょ、ちょっと待って! 俺、狼になる方法も知らないよ!」
「大丈夫だって。なんとなくでできるからさ」
絶対嘘だろ。
内心そう思いながらも、渋々俺も服を脱ぐ。
親に裸を見られるのは普通に恥ずかしい。
だが当の両親は、まったく気にしていない様子だった。
……なんでイチャつく時だけ恥ずかしそうなんだ。
家の外に出ると、ヴァロンは深く息を吸い、その身体を狼へと変える。
灰色の毛並みは艶やかで、風に揺れていた。
「ウォルファ。自分が狼になるイメージをしろ。目を閉じて、深呼吸だ」
狼の姿のまま、人語を話すヴァロン。
言われた通り、目を閉じて息を整える。
狼になるイメージ……正直、よく分からない。
だが、不意に昔の記憶が蘇った。
生後一週間ほどの頃、ヴァロンの背に乗って走った感覚。
顔を撫でる風が涼しくて、ただひたすら気持ちよかった。
その感覚を思い出した瞬間、身体の奥から熱が込み上げてくる。
神経を集中すると、全身の毛が逆立った。
背筋を中心に、腕も脚も、つま先までもが変化していく。
……なった。
水たまりに映る姿は、灰色の毛並みの狼。
ヴァロンと同じ色だ。
「すごいじゃないか。じゃあ、狩りに行こう」
走り出しても、不思議と違和感はなかった。
二足歩行に慣れているせいで苦労するかと思ったが、杞憂だったようだ。
四本の脚はもつれることなく、大地を力強く蹴っていく。
そうだ。この風だ。
ただ走るだけなのに、どうしようもなく心地いい。
しばらくして辿り着いたのは、紫色の花が群生する場所だった。
高い木々に囲まれた、天然の花畑。
「ここで鹿を待つ。狩りは“待ち”が基本だ」
ヴァロンの声は、いつになく真剣だった。
俺は小さく頷く。
それから、四十分ほどが過ぎた。
森は鳥や虫の声だけが響き、怖いほどに静かだ。
あまりの暇さに欠伸をした、その瞬間だ。近くで枝の折れる音がした。
ヴァロンが一瞬で飛び出す。
気づけば、大きな鹿が地に伏せていた。
だが、まだ生きている。脚が痙攣していた。
「ウォルファ。殺してみろ。首を切って、楽にしてやれ」
心臓の鼓動が、急に早くなる。
……俺、生き物を殺したこと、あったっけ。
虫ならある。でも、鹿は違う。
怯えた目で、鹿が俺を見ていた。
無理だ。
殺せない。
そう思った瞬間、俺はその場から逃げ出していた。
「ウォルファ!」
ヴァロンの声が背後から響く。
怒鳴っているのか、呼んでいるだけなのか、分からない。
冷たい汗が背中を伝う――狼は汗をかかないはずなのに。
気づけば、俺は家に戻っていた。
人の姿に戻り、ふらつく足で中へ入る。
「ウォルファ?」
リーアが駆け寄ってくる。
「お、お母さん……俺、できなかった……」
リーアは大きく腕を広げた。
その瞬間、昔の光景がフラッシュバックする。
あっちの世界の母。
殴られていた記憶。
思わず目を閉じた。
でも、リーアは違った。
優しく、抱きしめてくれた。
「私もね、狩りができるようになったのは十三歳の頃なの」
「お父さんはちょっと特別なのよ。でも……あなたを責める人じゃないわ」
その言葉通り、玄関の方から足音がした。
「ウォルファ!」
ヴァロンが人の姿に戻りながら、駆け寄ってくる。
一瞬、怖くなる。でも、その顔に怒りはなかった。
「悪かった。俺のせいだ」
そう言って、ヴァロンは俺を抱きしめた。
少し苦しい。でも、その力は安心できる。
「怖がらせるつもりはなかった。ゆっくり、少しずつ慣れていこう」
俺は、黙って頷いた。
この日もきっと、忘れられない記憶になる。
失敗しても殴られない。罵られない。
それは当たり前なのかもしれない。でも、心の底から、嬉しかった。




