記憶の番人
いるもの、いらないもの。
分別という名の過去との決別。積み上げられた背の高い段ボールの山、口元をゴムで固められてはち切れんばかりに膨らんだゴミ袋。部屋の家具は全て搬出され、空き巣に入られたかのようにガラッと殺風景に片付いた部屋を、スマホから流れる新社会人応援ソングのメロディーが虚勢を張るように満たしていた。
今日の引越し作業はかれこれ数時間に及んでいる。明日やろうと先延ばしにしていたその皺寄せだ。本来、昨日から始める予定だったが、作業中に古い本棚の奥から、小学生の頃に夢中になった少女漫画を見つけてしまった。背表紙の色褪せ具合に、思わず手を伸ばす。一ページ、もう一ページ──。気づけば時間は跡形もなく溶けていた。春のやわらかな陽光が窓枠を滑り落ち、部屋の片付けは大幅に遅延した。
橙色の西日が、もうすぐ家主を失う部屋の床を長く引き伸ばす。その光の中で、永遠かのように思えたアリスの引越し作業はようやく大詰めを迎えていた。独り立ちの不安を拭い去るような、希望に満ちた応援ソングに合わせ、アリスは力強く鼻歌を歌った。
あとは、この隅に放置された古いおもちゃ箱だけ。中身はきっと、もういらないもの。そう思いながらも、埃を被ったその蓋を開けた瞬間、幼い頃の記憶の匂いが頬を撫でた。その底に、彼は静かに眠っていた。片目がないテディベア、ボブが。
アリスは悲鳴を上げるのを堪え、二、三歩後ずさった。
ボブは、埃まみれの茶色い毛皮を纏い、片側の黒い瞳だけが西日の光を反射していた。しかし、アリスが後ずさった理由は、その古びた姿ではなかった。失われたはずの片目の跡には、縫い直された形跡すらない。ただ、抉られたように空いた穴から、血の涙のように赤い糸が一本、だらしなく垂れ下がっていたのだ。
「ボ、ボブ……」
それは、死体を見つけたような、あるいはミイラを発掘したような、悍ましい衝撃だった。手のひらに汗が滲む。テディベアの形をした、得体の知れない物体。長年、おもちゃ箱の暗闇の中で、本当に"眠って"いたのだろうか。
その時、ボブが動いた。
否、動いたように見えた。西日に照らされた片目の瞳が、カッとアリスを射抜く。そして、埃っぽい古びた綿の匂いの隙間から、ひどくかすれた声が響いた。まるで、何年も使われていなかったオルゴールが、無理やり音を鳴らしたような、軋むような声だった。
「あぁ、アリス、アリス。怯えないでおくれ」
ボブの口元──かつてアリスが嬉しそうに刺繍した、にっこり笑う口元が、わずかに歪む。
「また会えたね。私はずっと、この記憶の箱庭で、君の迎えを待っていたんだ」
アリスは反射的に両手で口を覆い、その場に釘付けになった。脳が警報を鳴らす。テディベアが話している? そんな馬鹿な。疲れと西日の幻覚だ。そう信じ込もうとするが、ボブの言葉一つ一つが、心臓を直接叩いてくる。
「君は、私をここに閉じ込めたね。他の、いらないものと一緒に」
しかし、その言葉には責めるような響きはなく、ただ深い寂しさが滲んでいた。失われたはずの片目の跡から垂れる血のような赤い糸が、アリスの視線を絡め取る。
「君が私を嫌いになったのは、いつからだったかな? そうだ、『あの日』からだ」
アリスの体が一瞬で冷え切った。「あの日」という言葉が、頭蓋骨の奥を鈍器のように叩いた。
「違う……」
アリスは掠れた声で呟いた。
ボブは優しく、諭すように続けた。
「君は、弟のレオは病気で遠くの診療所に送られたと聞いているね」
アリスは大きく頷きかけたが、喉が張り付いたように動かない。それが、彼女の唯一の真実だった。
「でも、それは少し違うんだ、アリス」
ボブは、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで問いかけた。
「レオは、君の宝物が羨ましかった。私という、君の唯一の秘密が。だから、彼は私の目を奪おうとした。ただ、君と私を分断したかっただけなんだ」
ボブの言葉に合わせて、目の前の景色が歪んだ。西日の橙色が、鮮血の色に変わる。アリスの視界に、古い、酷い記憶がフラッシュバックする。
六歳の自分が、三歳のレオの小さな手にしがみついている。
「返して! ボブの目!」
彼はボブの目を掴み、まるで美味しい飴玉でも舐めるかのように、口に入れようとしていた。アリスはパニックになり、力を振り絞ってレオの手を強く捻った。
カラン、と何かが床を転がる音。それはボブの黒いボタンの目だった。
そして、その直後──目を失ったボブを取り戻すことに夢中になったアリスは、レオの小さな体がバランスを失い、棚の角に強く頭を打ちつけたのを見た。
床に広がる、鮮やかな赤。
「君は、私を掴み直すのに必死で、レオのことを見ていなかった」
ボブは囁いた。その声は、アリスの耳には優しく聞こえながらも、赦しがたい事実を突きつける。
「君の両親は、君を守るために『病気で療養所へ行った』という物語を創った。君にとって、私を愛しすぎた罪だけが残るように」
ボブの体から、微かにカビと埃ではない、鉄のような匂いがした。それは、六歳のあの日、部屋に充満していた血の匂い。
アリスは、全てを理解し、そして叫ぶことさえできず、ただ涙を流した。彼女の独り立ちへの希望に満ちた鼻歌は、今、過去の悲劇の鎮魂歌に変わっていた。
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