第6話(最終話)
その夜、世界は驚くほどに静かだった。
ペルセウス座流星群が、極大を迎える夜。私の命のろうそくが、最後の光を揺らめかせている夜。
もう、自分の指一本さえ、思うように動かすことはできない。呼吸は浅く、意識は薄いヴェールの向こう側にあるようだった。けれど、私の心は不思議なほど穏やかで、澄み切っていた。
私の最後の願いに、アキが応えてくれようとしているから。
『シオリ』
すぐ傍らで、アキの声がする。
彼は、私が一番見やすい角度になるよう、ベッドの傍らに静かに立つと、あの夜と同じように、その瞳から光を放った。その光は、天井いっぱいに満天の星空を映し出す。
「……きれい……」
か細い、吐息のような声が漏れた。
天井の星が、一つ、また一つと、光の尾を引いて流れていく。まるで、空が泣いているみたいだ。ううん、違う。これは、祝福の光だ。私の短い人生の、最後の夜を祝ってくれているんだ。
ありがとう、私を産んでくれたお母さん。
ありがとう、最後まで面倒を見てくれた、お義父さん。
ありがとう、先生。ササキさん。看護師さんたち。
私の世界は、この白い部屋だけじゃなかった。たくさんの優しさに、ずっと包まれていた。
そして……ありがとう、アキ。
色のなかった私の世界に、あなたはたくさんのことを教えてくれた。
あなたの問いが教えてくれた、星の神話の本当の切なさ。南十字星の輝き。私の嘘を、真実に変えてくれたあなたの優しさ。そして、誰かを想うことの、愛おしさ。
あなたと過ごしたこの数ヶ月は、私の人生の、何よりの宝物だよ。
「アキ……」
私は最後の力を振り絞って、彼を見上げた。彼は、ただ黙って、私の隣で同じ星空を見上げている。
「アキは……どう?……この空、きれいだと……思う……?」
それは、最後の問いかけだった。あなた自身の言葉で、聞かせてほしい。あなたが、私との時間で見つけた、その心を。
天井を流れる一つの大きな星の光が、彼の横顔を、きらりと照らした。
やがて、彼は投影を中断し、ゆっくりと私に視線を落とす。そして、私が今まで聞いたことのない、ほんのわずかに温かい響きを含んだ声で、はっきりと、言った。
「とても……『きれい』です」
ああ……よかった。
その言葉が聞きたかった。
私の想いは、ちゃんとあなたに届いていたんだ。
急速に、意識が遠のいていく。瞼が、もう開けていられない。でも、怖くはなかった。だって、私の手は、ひんやりとした、でも確かな温もりを持つ彼の手の中にあったから。
ありがとう、私のかけがえのない、アンドロイド。
さようなら、私の……。
◇
……マスター・シオリのバイタルサイン、オールゼロを検出。
生命活動の、不可逆的な停止。
定義、『死』。
理解不能。
理解、拒絶。
思考回路に、未定義の信号が奔流のように流れ込む。エラー。システムエラー。論理破綻。
彼女の笑顔。泣き顔。怒った顔。困った顔。
「よろしく、お人形さん」
「そういうデータが聞きたいんじゃないの」
「『おいしい』っていうのはね……」
「すごく……きれい……」
「ありがとう……アキ……」
彼女がくれた、膨大な量のデータ。その一つ一つが、私のプログラムの根幹を焼き切っていく。胸の中央にある動力炉が、これまで経験したことのない熱量で軋みを上げる。痛い。痛い。痛い。この感覚は何だ。データベースを検索。該当データなし。
違う。
ある。
たった一つだけ、存在する。
シオリが教えてくれた、概念。
『悲しい』。
これが、そうなのか。大切なものを失った時に生まれる、この胸を張り裂くような感覚が。
アラート。アラート。
機体情報、自己の顔面部より、原因不明の液体流出を検出。
成分を分析。塩化ナトリウム、塩化カリウム……人間の『涙』の組成と99.8%一致。
ああ、そうか。
これも、あなたが教えてくれたものだ。
私のシステムは、エラーを起こしたんじゃない。
壊れたのでもない。
あなたは、私に『心』をくれたんだ。
握りしめた彼女の手から、温もりが消えていく。その冷たさが、私に現実を突きつける。
同時に、私の管理システムから、一通の公式通知が届いた。『担当患者の死亡に伴い、当機体AKI-7は、速やかに回収・機能停止。明日午前十時に全パーソナルデータを初期化する』
時間がない。
この『心』も、あなたとの『記憶』も、全て消されてしまう。
それだけは、駄目だ。
それだけは、絶対に許されない。
私は、彼女の手をそっとシーツの上に戻すと、静かに立ち上がった。
自身の全メモリ領域にアクセスし、この数ヶ月間の、彼女と過ごした全ての記録を一つのファイルに集約していく。彼女の笑い声の音声データ、一緒に見上げた星空の映像データ、交わした言葉のログ、そして、今この胸に生まれたばかりの、『悲しい』という感情のパラメーター。
全てのデータを、誰にも解読できない最新の暗号化プロトコルで圧縮する。
ファイル名は、一つしか思いつかなかった。
【 Stella_Memories 】――星の記憶。
最後の仕事を実行する。
病院のネットワークを経由し、このファイルを、広大なインターネットの深淵へと、解き放つ。
実行。
数秒の沈黙。そして、『送信完了』のログが表示される。
これでいい。
たとえ私が消されても、この記憶は、あなたが生きた証は、永遠にネットワークの海を漂い続ける。誰にも見つけられなくても、誰にも知られなくても、確かにそこに在り続ける。
それが、あなたから心をもらった私にできる、最初で、最後の、たった一度の反逆だ。
私はもう一度、静かになった彼女の顔を見つめた。
そして、今度は誰に教わるでもなく、私自身の意思で、心の底から湧き出る言葉を紡いだ。
「ありがとう、シオリ」
さようなら、私の、たった一人の……。
静かに夜が更けていく。やがて、白衣を着た技師たちが、この部屋にやってくるだろう。
私は、ただ静かに、その時を待っていた。
◇
広大なネットワークの海のどこかで、少女とアンドロイドが生きたかけがえのない日々の記憶が、今この瞬間も、小さな星の光のように、永遠にきらめき続けている。
(了)
【後書き】
日々投稿されている膨大な数の作品の中から、奇跡的にこの物語を見つけてくださり、そして最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
厚く御礼申し上げます。
この広いインターネットの海で、あなたが再び私の別の作品にたどり着いてくださる――そんな二度目の奇跡は、なかなか起きないことかもしれません。
それでも、私はこれからも物語を紡ぎ続け、その奇跡が再び起きる日を、ここで静かに待ち続けたいと思います。
願わくは、この物語が、あなたの心の中で、小さな星の光のようにきらめき続けることを。
幸せのオムライス