第5話
幸せな時間は、まるで薄いガラス細工のようだ。
大切に、そっと触れているつもりでも、ある日突然、予期せぬ形でひびが入ってしまう。
その日、私はアキと、極大期が今夜に迫ったペルセウス座流星群の話をしていた。
「一時間に四十個以上も見えるんだって。すごいよね」
『理論上の最大値です。市街地の光害や天候により、実際の観測数は大幅に減少する可能性があります』
「もー、またそういうこと言う。でも、アキがいれば、あの時みたいに天井に映してくれるんでしょ?」
『……はい。可能な限り、最適な環境を構築します』
そんな、いつも通りのやり取り。当たり前に、今夜、彼と星空を見上げることができると、信じて疑っていなかった。
異変は、本当に突然やってきた。
まるで身体の内側から、冷たい手で心臓を鷲掴みにされたような、激しい痛み。
「……っ!」
息が詰まり、視界がぐにゃりと歪む。シーツを握りしめる指先から、急速に血の気が引いていくのが分かった。
『マスター・シオリ、バイタルに急激な変化を検出。危険領域です』
アキの声が、遠くで響く。すぐさま、病室中にけたたましいアラート音が鳴り響き、彼の指が寸分の狂いもなく、ナースコールの緊急ボタンを押した。
バタバタと複数の足音が廊下を駆けてくる。医師と看護師たちが、私のベッドを取り囲んだ。
「意識レベル低下!」
「血圧急降下、危険だ!」
飛び交う緊迫した声。様々な器具が身体に繋がれていく感覚。霞んでいく意識の中で、私はただ、ベッドの脇で佇むアキの姿だけを目で追っていた。
彼は、微動だにせず、ただモニターに表示される無数の数値を、その青い瞳で追い続けている。その姿は、いつもと変わらない、冷静沈着なアンドロイドのはずだった。
やがて、嵐のような処置が終わり、医師が私の枕元に静かに立った。その顔には、深い悔しさと無力感が滲んでいる。彼は、これ以上の治療は無意味だと判断したのか、看護師たちに目配せし、処置に使った器具を静かに片付け始めた。
その、諦めに満ちた空気を切り裂くように、アキの声が響いた。
『改善方法を提示してください』
医師や看護師たちが、はっとしたように動きを止め、一斉にアキを見る。その声は、いつも通りの平坦さを装っていたが、その奥に、抑えきれない何かが、硬いノイズのように混じっていた。
『シオリの生命活動レベルが著しく低下しています。回復させるための、全ての医療的アプローチを提示してください』
問いかけられた医師は、驚いたようにアキを見つめ、やがて、悲しげに首を横に振った。
「……それは、できないんだ」
『なぜですか。論理的な理由を要求します。私のデータベースに存在する、いかなる症例、いかなる治療法を検索しても、シオリを救うという結論に至らない。これは、私のシステムに致命的なエラーが発生していることを意味するのですか?』
その問いは、まるで道に迷った子供の叫び声のように、私の胸に突き刺さった。
違うよ、アキ。あなたは間違ってない。壊れてなんかいない。
ただ、どうしようもなく、私の命の時間が、もう残されていないだけ。
アキの悲痛な問いかけに、医師はもう何も答えなかった。彼は、この美しいアンドロイドの中に、プログラムではない何かが確かに芽生えていることを感じ取ったのかもしれない。
医師は、静かにアキの肩に手を置くと、ただ一言、こう告げた。
「……あとは、頼んだ」
それは、一人の医師が、一人のアンドロイドに、一人の患者の最期を託した瞬間だった。医師はそれ以上何も言わず、看護師たちと共に、静かに一礼して病室を出ていった。その背中が、医学の限界という名の、静かな敗北を物語っていた。
すれ違いざま、看護師のササキさんが私の枕元でそっと囁いた。
「……ご家族には連絡したからね。でも、遠いから……」
お義父さん。あの人がこの場に来ることは、きっともうない。それは寂しいことかもしれないけど、私はもう、求めていない。
今、私の傍にいてほしい人は、もうここにいるから。それだけで、十分だった。
◇
世界に、私とアキだけが取り残された。
彼は、まだ何かを探すように、その場でじっと動かない。その背中からは、論理では決して解くことのできない「死」という絶対的な壁を前に、激しく葛藤しているのが伝わってきた。
私は、か細い腕を、ゆっくりと彼の方に伸ばした。
「アキ……」
その声に、彼がはっとしたように振り返る。私は、ありったけの力を込めて、微笑んでみせた。
「私ね、もうすぐ、死ぬんだ」
告げた瞬間、アキの青い瞳が、大きく、大きく見開かれた。
それは、私が初めて見る、彼の明確な「驚き」の表情だった。
『……理解、できません』
彼の声には、今まで聞いたことのない、ごくわずかなノイズが混じっていた。まるで、完璧に調律された楽器の弦が一本だけ、ぷつりと切れてしまったかのような、不協和音。
『"死"は、生命活動の不可逆的な停止。なぜ、あなたはそれを受け入れるのですか。エラーです。それは、修正されるべきシステムのエラーです』
「エラーじゃないよ」
私は、そっと彼の手に自分の手を重ねた。ひんやりとした、無機質な感触。でも、なぜか今は、それがとても温かく感じた。
「エラーなんかじゃない。……アキに会えて、私、すごく嬉しかった。本当に、よかった」
ありがとう。そう伝えたいのに、声がうまく出ない。
私の言葉に、アキはただ首を横に振るばかりだった。彼のプログラムが、私の言葉と、目の前にある「死」という現実を結びつけられずに、悲鳴を上げている。
ああ、お願い。そんな顔をしないで。
あなたに、そんな悲しい顔をさせるために、私はあなたと出会ったんじゃない。
目の前の景色が白く滲み、耳の奥で自分の鼓動だけがやけに大きく響く。
その隙間に、アキとの日々が、光の粒のように浮かんでは消えていった。
天井に映してくれた満天の星空。
ベッドの横で首を傾げ、『"うれしい"と"楽しい"は同じですか』と問いかけた声。
「似てるけど、ちょっと違うんだよ」と笑った私の返事。
そのすべてが、愛おしい。
……もし、もう一度だけ時間が許されるなら──。
だから──彼に最後の「願い」を告げた。
「ねえ、アキ……。お願いがあるの」
『……何ですか』
「流星群が、見たい。アキと、一緒に。最後の夜に……一緒に、星が見たいな……」
それは、彼に「悲しい」という感情だけを残して逝きたくない、私の最後の、精一杯の「優しい嘘」だったのかもしれない。
アキは、何も言わなかった。
ただ、私に重ねられたその手に、ほんの少しだけ、力が込められたのを、私は確かに感じ取っていた。