第4話
天井の星空を見上げたあの夜から、私の世界は再び、静かに色を取り戻し始めていた。
アキとの会話は、相変わらず噛み合わないことも多い。けれど、そのズレがもどかしいと同時に、どうしようもなく愛おしいと感じるようになっていた。彼は私の言葉の端々から「感情」という非論理的なデータを必死に拾い集め、その意味を理解しようとしている。その真摯な姿を見ていると、まるで言葉を覚えたての幼い弟を見守っているような、温かい気持ちになるのだった。
そんな穏やかな日々が続いていた、ある週の半ば。義理の父が、面会にやってきた。いつも通り高価そうな見舞いの品を携えて。
「シオリくん、体調はどうだね」
母が亡くなってから、彼との会話はいつもこんな風に始まる。
その日に限って、朝から身体のあちこちで鈍い痛みが疼いていたけれど、私はとびきりの笑顔を作って見せた。
「うん、すごく調子いいよ! 昨日アキが見せてくれた星空がきれいだったから、よく眠れたの」
私の笑顔は、彼を安心させるためだけのものではない。これ以上彼に「面倒」をかけず、ここにいていい理由を、これ以上すり減らさないための、私なりの生存戦略でもあった。
「そうか。それはよかった」
短く相槌を打つ彼の瞳は私を通り越して、どこか遠くを見ているようだった。彼が悪い人でないことは分かっている。彼にとって私は「亡き妻が遺した最後の責任」であり、私にとって彼は「ここに居させてくれる唯一の保護者」だった。私たちの間には、感謝と義務でできた、分厚く透明な壁がある。
彼はいつもどおり治療費の支払いや医師との面談結果を手際よく報告し、私はそれに礼儀正しく相槌を打つ。それ以上、会話が広がることはない。
十分ほどの短い面会を終え、彼は「また来る」と言い残して帰っていく。ドアが閉まる最後の瞬間まで、私は笑顔を貼り付け続けた。
そして、病室に再び静寂が訪れた瞬間、私は張り詰めていた糸が切れたように、ベッドに深く身体を沈めた。こらえていた痛みが、じわりと全身に広がっていく。
『……マスター・シオリ』
静かに、アキが口を開いた。
『先ほどの義父君との対話において、あなたのバイタルサインは、発言内容との著しい乖離を記録しています。痛覚レベルは上昇し、ストレス反応も検出されました。なぜ、事実と異なる情報を伝達したのですか? それは"嘘"に分類される行動です』
まっすぐな、一切の非難を含まない、ただ純粋な疑問。
私はゆっくりと目を開け、ベッドの傍らに立つ彼を見上げた。
「……これはね、『嘘』というより……『お守り』みたいなものかな」
痛みをこらえながら、私はできるだけ穏やかな声で言った。
「私が『痛い』とか『辛い』って言ったら、あの人を困らせてしまうでしょ? 私は、これ以上『面倒な存在』になりたくないの。私が笑顔でいれば、何も問題は起きない。……相手を思う気持ちが、本当のことより大事な時もある……。そう思うことにしているの」
それは、半分はアキに、そしてもう半分は、自分自身に言い聞かせる言葉だった。
アキは、その青い瞳で私をじっと見つめていた。彼の頭脳の中で、きっと「事実の正確性」と「生存戦略としての自己欺瞞」という、あまりに複雑なデータが衝突しているのだろう。
『……非論理的です。しかし、義父君の退出まで、両者間の関係性に致命的な破綻は観測されませんでした。目的が"自己の生存領域の維持"である場合、事実の隠蔽、あるいは改変が是とされるケースが存在する……。新たな倫理パターンとして、記録します』
彼はそう結論付けた。その声はいつも通り平坦だったけれど、私は知っていた。彼が今、人間の持つ歪で、哀しい処世術を、必死に学ぼうとしていることを。そんな不器用な彼が、たまらなく愛おしかった。
その数日後、ベテラン看護師のササキさんが、私の点滴を交換しに来てくれた。彼女は、この孤独な病室で、唯一私を「シオちゃん」と、温かい響きで呼んでくれる人だ。
「シオちゃん、なんだか最近、すごくいい顔してるわね」
ササキさんは、手際よく作業をしながら、優しい目尻をさらに下げて言った。
「アキくんが来てからかしら。前よりもずっと、よく笑うようになったじゃない。表情がすごく豊かになったわよ」
「そ、そんなことないですよ……!」
思わず、顔が熱くなる。そんなに分かりやすかっただろうか。傍らでアキが微動だにせず立っているのが気になって、私は慌てて否定した。
ササキさんは「そう?」と微笑み、ふと外の様子に話題を移した。
「さっき外に出たら、紫陽花が見頃だったわ。昨日の雨のせいか、花びらに小さな水滴が残ってて、まるで宝石みたいだったの」
その言葉に、外の空気と花の色が一瞬で頭に広がる。消毒液の匂いしかないこの部屋とは別の世界。アキは黙って聞いているだけだったが、その瞳の奥に、花の色まで記録しているように見えた。
やがて彼女は悪戯っぽく私に顔を寄せ、小声で囁いた。
「なんだか、微笑ましいわ。しっかり者の弟くんか……それとも、素敵な恋人みたいね」
「ササキさんっ!」
私は耳まで真っ赤になって、悲鳴のような声を上げた。恋人だなんて、そんな。相手はアンドロイドで、機械で、誰かの所有物で……。
けれど、私の心臓は、正直に「ドクン」と大きく音を立てた。
否定しながらも、心の奥の、ずっと凍りついていた場所で、その言葉が温かい雫のように染み渡っていくのを感じてしまったから。
ササキさんは「ごめんごめん」と笑って病室を出ていった。後に残されたのは、私とアキと、気まずいような、でもどこか温かい沈黙。
ちらり、とアキの様子をうかがう。
彼は、相変わらずの無表情でそこに立っていた。けれど、その青い瞳は、ただ静かに私を見つめている。彼は、今の会話をどう聞いたのだろう。「恋人」という単語を、どう分析したのだろう。
私の視線に気づいたのか、アキがゆっくりと口を開いた。
『シオリ』
まただ。彼はまた、私の名前を呼んだ。
たった三文字の、その響きが、空っぽのはずの私の心に、温かい光を灯していく。
『バイタルが上昇しています。心拍数、血圧、共に著しい変化を検出。原因を……』
「なんでもない!」
私は彼の言葉を遮るように、布団を頭まで深く被った。熱い顔を見られたくなかった。
もう、分かっていた。
彼は、ただの機械じゃない。ただのお人形さんでもない。
「誰かの娘」でも「扶養されるべき存在」でもない、ただの「シオリ」として、私を見てくれる、世界でたった一人のかけがえのない存在。
頭の中で、私は自分の名前を、彼の声で何度も何度も繰り返していた。その響きが、私の命そのものであるかのように。