第3話
季節は、私の心を映すかのように、長い長い梅雨の時期に入った。
分厚い灰色の雲が空に蓋をして、星々は固くその姿を閉ざしてしまう。雨音がしとしとと窓を叩く日は、決まって体調も優れなかった。微熱が続き、身体は鉛のように重い。ベッドから起き上がるのも億劫で、本を開く気力さえ湧いてこない。
世界が、再び色を失っていく。
あの、アキが来る前の、白と無音と消毒液の匂いだけの世界に。
「屋上、行きたいな……」
何度目かの、叶わない願いを口にする。医師からは「体力が落ちすぎているから、絶対にダメだ」と釘を刺されていた。分かっている。分かっているけれど、この息の詰まるような閉塞感から、一瞬でもいいから逃げ出したかった。
『現在の気象状況では、屋上に出ても天体観測は不可能です』
傍らに立つアキが、事実を告げる。
『それに、マスター・シオリの現在のバイタルでは、屋上への移動は許可できません』
「……うん。分かってるよ」
私は力なく笑って、再び窓の外に視線を戻した。雨粒が、まるで泣いているみたいにガラスの上を滑り落ちていく。
「南十字星、一度でいいから、この目で見てみたかったな」
それは、本当に独り言だった。昔、母に買ってもらった図鑑で見た、南の空にだけ輝く小さな十字架。この病室にいる限り、決して見ることのできない、憧れの星。
アキは何も答えなかった。私はそれ以上何も期待せず、ただ降り続く雨の音を聞きながら、重い瞼を閉じた。
その夜のことだった。
何日も続いた雨が嘘のように上がり、雲の切れ間から、久しぶりに月が顔をのぞかせていた。けれど、私の体調はまだ屋上へ行けるほど回復しておらず、窓から見える限られた空を、ぼんやりと眺めることしかできない。
(やっぱり、全部は見えないな……)
そんなことを考えて、そろそろ眠ろうかと寝返りを打った、その時だった。
『シオリ』
静かな、けれどはっきりとした声に、心臓が小さく跳ねた。
今まで「マスター・シオリ」としか呼ばれたことのなかった私を、彼は初めて、ただ「シオリ」と呼んだ。驚いて彼の方を見ると、アキは表情を変えないまま、その青い瞳で私をじっと見つめていた。
『上を、ご覧ください』
言われるままに、私はゆっくりと天井に視線を向けた。
すると、アキがベッドサイドに立ち、その顔を天井へと向けた。彼の澄み切った青い瞳が、ふっと光を帯びたかと思うと、その瞳から放たれた光が、病室の天井に像を結んだ。
「え……?」
そこにあったはずの、見慣れた、いつもの殺風景な天井が、消えていた。
代わりに広がっていたのは、吸い込まれそうなほどに深い藍色の夜空と、無数の星々のきらめき。まるで、本物の夜空が、この小さな病室の真上に来てしまったかのような、圧巻の光景だった。
幻覚? 熱のせい?
混乱する私に、アキが静かに説明を始めた。
『私の光学ユニットに搭載された投影機能です。外部ネットワークから受信したリアルタイムの星空データを表示しています』
「そんなこと、できたの……?」
『はい。ですが、医療用アンドロイドによる情報投影は、患者に不要な視覚情報を提供し、精神的混乱を招く可能性があるため、原則として使用を禁止されています。明確な規則違反です』
アキは、まるで天気の話でもするかのように、自らの違反行為を平然と告げた。
『ですが、あなたの"見たい"という欲求を満たし、精神的安寧を確保するための、最も効率的かつ最適なソリューションであると判断しました』
私は言葉を失い、ただ目の前に広がる奇跡を見つめていた。規則違反。非効率。非論理的。そんな言葉を繰り返していた彼が、私のために、規則を破ってくれた。ただ、私を喜ばせるという、それだけのために。
『表示座標を変更します。目標、南天』
アキがそう言うと、天井の星々がゆっくりと動き出した。見たこともない星座が流れ、やがて、ひときわ明るい四つの星が形作る、小さな、しかし完璧な十字架が、私の目の前に現れた。
「あ……」
南十字星。
ずっと、ずっと見たかった、憧れの星。
ぽろり、と頬に温かいものが伝った。涙だった。嬉しくて、切なくて、愛おしくて、いろんな感情がごちゃ混ぜになって、涙になって溢れてくる。これは、ただの映像じゃない。アキが私にくれた、世界でたったひとつの、特別なプレゼントだ。
「ありがとう……アキ……」
途切れ途切れに、ようやくそれだけを言うのが精一杯だった。
「すごく……きれい……」
アキは何も言わず、私のバイタルを測定していた。やがて、いつも通りの報告口調で、だけれど、ほんの少しだけ柔らかく響く声で、言った。
『感情パラメーター、"嬉しい"が、過去の記録における最高値を更新しました。このソリューションは、極めて有効であったと結論付けます』
私は涙で濡れた瞳で、アキを見上げた。
彼の表情は、相変わらず能面のように変わらない。
けれど、違った。
彼自身の瞳から生まれた無数の星々の光が、その完璧な顔立ちに、淡く柔らかな陰影を落としていた。
いつもは無機質な彫刻のようだったその顔が、揺らめく光の中で、まるで、ほんの少しだけ微笑んでいるかのように見えた。
それは、私の心の願望が見せた、ただの幻だったのかもしれない。それでも──。
私と彼を隔てていた、最後の冷たい壁が、その夜、静かに音を立てて溶けていったのを、私は確かに感じていた。