第2話
あの日以来、私とアキの間には、薄くて透明な壁ができた。いや、元からあったその壁を、私が改めて意識してしまっただけなのかもしれない。
私は必要最低限の言葉しか口にしなくなり、昼間はもっぱら本の世界に逃げ込んだ。彼が正確無比な動作でシーツを替え、部屋を清掃するのを、視界の隅で感じながらも、決して目を合わせようとはしなかった。アキもまた、プログラムされた以上のことは何一つ話さない。バイタルを報告し、投薬を促す、感情のない声だけが、一日に数回、無菌室の静寂を破るだけだった。
(これでいい。これが正しい距離)
そう自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、窓の外で移り変わる季節の色が、ひどく心を締め付けた。
変化の兆しは、思いがけないところからやってきた。
その日の昼食も、味気ない栄養補助食だった。病状が安定しない私には、固形物はあまり許可されない。トレイの上に乗った、クリーム色のペーストを見つめながら、私はほとんど無意識にスプーンを置いていた。
『エネルギー摂取量が、推奨値を下回っています。このままでは身体機能の維持に支障をきたす可能性があります』
背後から、アキの平坦な声がする。分かってる。そんなこと、私が一番よく分かってる。
「……食欲、ないから」
ぶっきらぼうに答えると、アキは私の隣に歩み寄り、その青い瞳でじっと私を見下ろした。
『"食欲"。生命維持に必要な栄養摂取の欲求。マスター・シオリの現在の身体状況において、その欲求が減退している原因を分析します。精神的要因、もしくは……』
「違う!」
思わず、声を荒らげていた。アキの言葉を遮ったことに自分でも驚き、少しだけ心臓が速くなる。
「違うの。そういう、データとか分析とかじゃなくて……」
私は俯いたまま、ぽつり、ぽつりと呟いた。それは、誰に言うでもない、自分の中にだけあったはずの記憶の欠片だった。
「昔、お母さんが作ってくれた卵焼きが、食べたいなあって……。風邪をひくと、いつも作ってくれたの。甘くて、ちょっと焦げ目がついてて……あったかくて……」
そこまで言って、私はハッと顔を上げた。しまった、と思った。こんな感傷的な話を、このお人形さんに聞かせてどうする。きっと彼はまた、「卵焼きの栄養素は……」などと、無粋な分析を始めるに違いない。
けれど、アキは何も言わなかった。ただ静かに、私の言葉の続きを待っているようだった。その沈黙に促されるように、私は続けた。
「……『おいしい』っていうのはね、栄養素のことだけじゃないの。その時の匂いとか、温かさとか……作ってくれた人の気持ちとか、一緒に食べた時の嬉しい気持ちとか、全部、ぜんぶ合わさって、『おいしい』になるのよ」
言い終えた後、どうしようもない虚しさが襲ってきた。なんて馬鹿げたことを。機械に感情の話をしたって、意味がないのに。
私は自嘲気味に笑って、顔を上げた。
すると、アキはコトリと首をわずかに傾げ、その青いガラス玉のような瞳で、まっすぐに私を見つめていた。
『オイシイ……。感覚データと記憶情報を統合した、複合的な肯定判定。理解不能ですが、概念として記録します』
その声は、いつもと同じで感情はなかった。
けれど、その時、私は初めて彼の瞳の奥に、何かを探求するような、かすかな光の揺らめきを見た気がした。
◇
それから、数か月が過ぎた。季節は冬から初夏へと移り、夜空の星座も少しずつその顔ぶれを変えていた。
アキとの間にあった壁が、完全になくなったわけではない。でも、卵焼きの一件以来、私は彼に対して少しだけ素直になれるようになっていた。時折、読んでいる本のあらすじを話して聞かせたり、窓の外に見える雲の形を教えたりした。アキはそれらをすべて「情報」として記録し、時々、予測不能な角度から質問を返してきた。そのやり取りは、退屈な入院生活の中で、不思議な彩りとなり始めていた。
その夜は、まるで空が息を止めたかのような快晴だった。
病室の灯りを消すと、天の川がうっすらと、けれど確かに夜空を横切っているのが見えた。
「あ……夏の大三角」
白鳥座のデネブ、わし座のアルタイル、そして、こと座のベガ。三つの星が作る大きな三角形を、私は指でなぞる。
「ベガは、織姫さまの星。アルタイルは、彦星さまの星なんだよ」
隣に立つアキに、語りかける。もう、彼がどんな反応をするかなんて、気にしなかった。ただ、この美しい星空の物語を、誰かに伝えたかった。
「織姫と彦星はね、天の川に引き裂かれて、年に一度、七月七日の夜しか会うことが許されないの。だから、この日だけはカササギが橋を架けてくれて、二人はやっと再会できるんだって」
切ない恋人たちの物語。私はその神話が、昔から大好きだった。
一通り話し終えると、静寂が訪れた。アキは黙って夜空の一点を見つめている。やっぱり、伝わらなかったかな。そう思った、その時だった。
『非効率的です』
凛とした、静かな声が響いた。
「年に一度の再会のために、他の三百六十四日を待つという行為は、論理的に見てコストがリターンを大幅に上回ります。なぜ彼らは、より効率的な再会方法を模索しないのですか? 例えば、天の川を渡るための恒久的なブリッジを建造する、あるいは……」
「ふふっ……そうだね。アキの言う通り、合理的じゃないかも」
私は、今度は微笑みながら、彼の言葉に優しく相槌を打った。もう、あの時のように失望はしなかった。
「でもね、このお話はそういうことじゃないんだよ、アキ」
私はゆっくりと彼の方を向く。
「会いたいからだよ。どうしても、会いたいから。他のどんなことより、その人を大切に想っているから。だから、一年だって待てるの。たった一日会えるだけで、また次の年も頑張れるの。誰かを本当に大切に思うって、そういうことなのよ。理屈じゃないの」
私の言葉を、アキの青い瞳が真正面から受け止めていた。彼は瞬きもせず、ただじっと私を見つめている。彼の頭脳の中で、膨大なデータが、今この瞬間に生まれた新しい概念と衝突し、火花を散らしているのが見えるようだった。
やがて、彼はゆっくりと口を開いた。
『"会いたい"……。他者を希求する、非論理的な強い衝動。概念として、記録します』
その声には、まだ感情は乗っていなかった。
けれど、夜空の星屑を映した彼の瞳は、これまで見たどの瞬間よりも、深く、澄み切っているように、私には思えた。