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第1話

全6話を予定しています。完結まで6日連続投稿の予定です。

 私の世界のすべては、この窓ガラス一枚で仕切られている。


 窓の内側には、私。ホシノ・シオリ、十七歳。治療法のない病に冒され、余命宣告という名の卒業証書を、少しだけ早く受け取った。清潔なシーツの白、点滴の落ちる音、そして消毒液の匂い。それが私の世界の構成要素だ。


 長く続く闘病生活で色素の抜けた髪は、日の光を忘れたように頼りなく、鏡に映る自分はまるで幽霊みたいだと思う時がある。


 そして、窓の外側には、それ以外のすべて。


 空の青も、雲の流れも、季節の匂いも、すべては厚いガラスの向こう側にある。私には手の届かない、遠い世界の出来事。それでも、夜になれば世界は少しだけ私に優しくなる。夜空だけが、この四角い窓の向こうで、私に無限の広がりを見せてくれる唯一のものだからだ。


「シオリちゃん、今日の調子はどう?」


 回診に来た看護師さんが、いつものように微笑む。私は慣れた仕草で口角を上げてみせた。


「うん、大丈夫だよ」


 大丈夫。それは、私がこの数年で一番上達した言葉かもしれない。


 二週間に一度、義理の父が面会に来る。母が亡くなった後、たった一人の家族になった人。遠方から時間をかけてやってくる彼は、できる限りのことはしてくれている。それは痛いほど分かっていた。けれど、彼の瞳が私を映す時、そこにいるのは「シオリ」ではなく、「亡くなった妻が遺した、責任を負うべき存在」なのだと感じてしまう。私たちは、ガラス一枚を隔てた窓の内と外のように、決して交わらないのかもしれない。


 だから、それが現れた時も、きっと義父が手配した、高価な医療器具の一つなのだろうと、ぼんやり思った。


 音もなく、滑るように病室のドアが開いた。そこに立っていたのは、私の知るどの人間とも違う、あまりにも完璧な造形をした「少年」だった。


 陽の光を吸い込んで内側から輝くような、きめ細かい銀色の髪。少し伏せられた睫毛の下からのぞく、空の色をそのまま溶かし込んだような澄み切った青い瞳。寸分の狂いもなく配置された目鼻立ち。それは生きている人間の持つ、わずかな歪みや非対称性を一切含まない、神様が気まぐれに作り上げた最高傑作の彫刻のようだった。


 思わず、息を呑んだ。


 けれど、その彫刻はゆっくりと顔を上げ、私を真正面から捉えると、感情の乗らない平坦な声で言った。


『本日より、あなたのケアを担当するアンドロイド、"AKI-7"です。呼称は"アキ"とインプットされています』


 アンドロイド。その言葉で、魔法が解けた。そうだ、これは作り物だ。心がなく、ただプログラム通りに動くだけの機械。ガラス玉のように光を反射するだけのその瞳に、私の姿はただの物体として映っているのだろう。急に込み上げてきた、ちくりとした意地悪な気持ちを隠すように、私はわざと皮肉っぽい笑みを浮かべた。


「よろしく、お人形さん」


『了解しました。"よろしく"—挨拶の返礼として登録。なお、私は人形ではありません。医療補助を主目的とした—』


 私は「冗談よ」と手をひらひらさせる。アキは言葉を切り、まばたきの間隔を調整するみたいに静止した。見つめ返すと、瞳の青はきれいだった。ただ、きれい過ぎて、温かさがなかった。


 アキは、プログラムされた通りに私のベッドサイドに立ち、点滴の残量やモニターの数値を正確無比な動きで確認し始めた。その日から、私の色のない世界に、この美しい機械が同居することになった。


 アキとの日々は、想像通り静かで、無機質だった。


『午前八時です。検温を開始します』


『バイタルに異常は検出されません。本日の投薬メニューです』


 彼はただ、事実だけを報告する。私が窓の外を見て何を思っても、本を読んで涙を流しても、彼の青い瞳は何も映さず、ただ私をデータとして観測しているだけだった。私が冗談を言っても、彼は『それはユーモアですね』と言葉の分類を報告するだけだった。


 私は、彼の存在が嫌いではなかった。嫌いじゃないけれど、好きとも言えなかった。手の届かない位置に置かれた、高価な花瓶みたい。傷つかないし、傷つけられない。


 それでいい、と自分に言い聞かせた。誰にも期待せず、誰からも期待されない関係は、いっそ楽だ。私は私で、これまで通り夜空を眺める。それが唯一の慰めだった。


 幼い頃、まだ生きていた母が教えてくれた星々の物語。病室のベッドの上で、私は星図を広げ、指で星座をなぞる。何光年も離れた場所で輝き続ける、悠久の存在。それに比べて、私の命はなんてちっぽけで、儚いのだろう。そんな感傷を、この美しい機械に理解されるはずもない。


 その夜も、空はよく晴れていた。


 冬の夜空の主役であるオリオン座が、ひときわ強く、凛とした光を放っている。中央に並んだ三つ星も、その肩で赤く輝くベテルギウスも、すべてが息を呑むほどに美しい。


「オリオン座が、きれい……」


 ぽつりと、自分でも気づかないうちに声が漏れた。それは、誰かに聞かせるためでもない、ただの独り言。感傷に浸る私を、アキが静かに見つめていることに気づきもしなかった。


 やがて、私の隣から、静かで平坦な声が響いた。


『ベテルギウスの推定直径は太陽の約1000倍。表面温度は約3500ケルビン。赤色超巨星であり、近い将来、II型超新星爆発を起こすと予測されています。その際、地球からは数週間にわたり、満月と同等の明るさで見える可能性があります』


 シン、と病室が静まり返る。


 アキの紡いだ言葉は、すべてが正確なデータだった。何の感情も、何の感慨も含まれていない、ただの事実の羅列。


 分かっていた。分かっていたはずだ。彼に、私がこの星空に見た神話の悲しみや、永遠への憧れを理解できるはずがないことなんて。


 それなのに。


 どうしようもなく胸に広がった、冷たい失望は何だろう。


 私はゆっくりと夜空から視線を外し、膝を抱えた。


「ありがとう……でも、そういうデータが聞きたいんじゃないの。私も自分の端末で調べられるし」


 小さく、けれどはっきりと拒絶を口にする。アキは『命令を受信しました。以後、天体に関するデータ開示は最適化します』と、またしても的の外れた返答をした。


 私はそれ以上何も言わず、深くため息をついた。窓の外では、何も知らない星々が、ただ静かに輝き続けていた。

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