ラッキーパーソン
鞄をひとまず椅子の上に置いて、雑巾を洗いにお手洗いへ戻るべく踵を返した。向かう途中で足を引っ掛けられて躓く。
「あっ、ごめ〜ん」
粘っこい謝罪はスルーして、今度こそ廊下へ。背後から「無視かよ」の声が聞こえてくる。
雑巾を洗って絞って戻ってくると、鞄が床に溢れた泥水の上に倒れていた。半ば予想していた光景に、クスリと笑った。
(まぁ……そうなるよね)
脳裏に過ぎる『いじめ』の三文字を打ち消して、彩香はその後もお手洗いと机を二回往復した。
ようやく綺麗になった席について、暇つぶしに手遊びをする。前は本を持ってきて読んでいたのだが、汚されるからいつからか読まなくなった。自分の手を見ているのは好きだった。この広い広い世界の中で、ちっぽけな自分の手のひらを見ていると、この手で掴めるものなどたかが知れていると思う。
「……何やってんの、あれ」
「さっき笑ってたよ。気持ち悪い」
「よくこの高校入れたよね」
「なんだっけ、ほら障害者が入る方行った方がいいんじゃない? 特殊なんとか学級」
(特殊支援学級)
心の中で突っ込みながら、黙々と手遊びを続ける。握って、開いて、指をわきわき。やっていると、意外と楽しいものだ。こうして何かを意識していなければ、自分が壊れてしまいそうで怖かった。
(大丈夫だ)
自分の思った通りに動く指先に安堵する。
(『私』はまだ、ここにいる)
授業が始まっても、彩香はぼんやりと話を聞き流していた。ノートだけは取っているが、話は右から左へ抜けていく。
(今日は……どうしようかな)
脳内を占めるのは、仮想世界のことだ。授業に集中できていないのだから成績が下がるのも当然なのだが、それでもそんな思考の寄り道をやめられない。どんなに気をつけていても、いつしか思考は電子の世界へ飛んでいく。
彩香を必要としてくれる、唯一の居場所。
今夜の相手は誰がいいだろうか。久しぶりに獣人というのもいいかもしれない。今日は強者に踏み躙られたい気分だ。凶悪な顔を浮かべた文字通り狼に襲われる様を想像するだけでゾクゾクとした官能が背筋を撫ぜる。いけないいけない。今は学校で、授業中だ。
「東雲さん。続きから読んで」
担任でもある国語教師の声に、ハッと我に返った。
(……また、やっちゃったか)
もはやお馴染みになりつつある、この展開。
「すみません。どこですか」
ルキである時の溌剌さなどカケラも窺わせない、鬱々と暗い声だった。素直に「聞いていなかった」と申告する彩香に、教師は嘆息する。教室をさざなみのように嗤い声が包んだ。
「……またなの? もういいわ」
呆れた声で彩香は飛ばされ、次の子が続きを読み始める。ああ、ここだったのか……と、最後に聞いた覚えのある文章の数行先に、彩香もまた目を落とした。
「彩香さん。最近集中力が切れ気味よ。しっかりして」
彩香は担任の斎藤先生に呼び出されて説教されていた。三十代前半、といったところに見える女教師は肩までの長さの黒髪を無造作に束ねて、神経質そうに片眉を上げる。
今は木曜の放課後だ。ここのところほとんど毎日呼び出されて、同じセリフで説教されていた。
「……すみません」
「あなたねぇ、反省する気あるの?」
「はい……」
何を言おうと淡々とした表情を崩さない彩香に教師も辟易した様子でため息をつく。単に表情に乏しいだけなのだが、それは教師にとっては太々しい態度に見えた。なにしろ、ここのところ毎日である。反省の色が一向に見えないのだ。
「どこか悪いんじゃないの? 病院にでも行って来たら? それか、スクールカウンセラーを予約しましょうか?」
太々しい生徒に対しても頭ごなしに叱らない程度には良識のある教師ではあった。だが、彩香は微かに表情を強張らせて首を振る。
「大丈夫、です。すみません、気をつけます」
「それはもう何度も聞いたわ」
そんなことを言われても、彩香としては本当に気をつけているのだ。気をつけていても、思考はいつしか現実から遠く離れた場所へ飛んでいく。しかし、スクールカウンセラーの世話になるなど絶対に嫌だった。
「………………」
「彩香さん。クラスに馴染めていないの? 佐野さんたちも心配していたわよ?」
彩香の肩がピクリと動く。佐野は、弄りの主犯格だ。はっきり言って彼女さえ教室にいなければ他の子たちも大したことはしない。皆が彩香を揶揄うのは佐野へのアピールという部分も大きい。
自然と出たのは、誤魔化すための笑みだった。
「そうですか。佐野さんが……」
本当は、その名前を口に出すだけでも恐ろしいのに。照れ臭そうに笑っている自分が滑稽でならない。
「斎藤先生」
唐突に割り込んだのは、若い男性の声だった。
「っ……和泉先生」
声をかけられた斎藤先生が僅かに喜色を滲ませて振り返る。
「今、少しよろしいですか?」
俯きがちなままで上目遣いに確認すると、そこにいたのは和泉先生だった。彩香と直接の接点はないが、それでも顔と名前を一致させている程度には有名な先生だ。なにしろ女生徒に大人気の学校一のイケメン教師である。なんでも数学の先生らしく、この先生が通りかかると佐野が彩香を放って駆けていく。彼本人に良い印象を抱いてはいなかったが、彩香にとってはラッキーパーソンだ。
「は、はい。彩香さん、もう帰っていいわよ。明日から気をつけてね」
「……はい。失礼します」
どうやらラッキーパーソンは斎藤先生にも有効打だったらしい。軽く会釈してそそくさと職員室を後にする。
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居心地悪そうに肩を縮めて、足早に退室していく女生徒を見送って、秀一は目の前の斎藤先生に視線を戻した。秀一より歳上のはずだが、童顔のせいか若く見える可愛らしい先生である。
「お話中でした?」
「ええ、でももう終わるところでしたから」
彩香さん、と。接点がないのに名前を覚える程度には、ここ最近叱られている生徒だった。長い前髪で表情がよく見えない、黒髪を一つに括った女生徒。今話しかけたのも、空気がきな臭くなってきたからだ。ここ数日を見るに、斎藤先生がどんどん感情的になっていき、最終的に人格否定とも受け取られかねない叱られ方をして彩香はすごすごと帰宅していく。
「部活の顧問されてましたよね。先程連絡がまわってきたので」
「あっ、ありがとうございます。わざわざ……。あ、あの……よろしければ今夜食事でも」
秀一はにっこりと笑う。
「すみません。今夜はちょっと……」
実際はそこまででもないと思うのだが、周囲からはイケメンと持て囃される。特に学校という組織の中では、若い男性というだけで女生徒からの人気は出がちだ。
慣れた様子でやんわりと誘いを断ってその場を立ち去ろうとした時、視界の端で何かが光った気がして足を止めた。見れば紐が切れたストラップが落ちている。
「和泉先生?」
突然立ち止まった秀一に斎藤先生が怪訝そうに声をかけた。秀一はストラップを拾い上げると、手のひらに置いて示して言った。
「……今の生徒の落とし物かもしれません。ちょっと行ってきます」
「えっ、それくらい私が」
「ついでですから」
足早に職員室を出て先程の女生徒の姿を探しながら、何気なく手元のストラップに視線を落とす。おすわりした猫のシルエットを水色で象ったストラップだ。切れた紐を見て、はたと足を止めた。劣化して千切れた、という風には見えなかったのだ。まるでハサミか何かで切られたようにスッパリと断ち切れている。意図的に切断でもしなければこうはならないだろう。