赤い糸の契約
ログアウトした秀一は、銀環を外すとベッドの上に大の字になるようにグッと伸びをする。
心の荷が下りたような軽やかな気分だった。思いがけずルキと再会できたのが嬉しくもあったし、詩織に紹介してやれそうなのが楽しみでもあった。実際のところ、ルキの問題は解決したとは言い難い。けれど根拠もなく、未来は明るく思えた。詩織とルキは仲良くなってくれるだろうか。彩香はこれから楽しい高校生活を送れるだろうか。そんな取り止めのない期待に胸が膨らんだ。
翌日の昼どき、昼食を食べようと階下のリビングへ赴くと、両親の姿はなく詩織が一人で食パンを齧っていた。トーストですらない、ただの食パンを咥えて、片手には牛乳の入ったコップを持っている。服装は、よれたTシャツに短パンという部屋着感満載の格好だ。
「……せめて焼いたらどうだ。何か作るか?」
「もう食べ終わるからいい」
「そうか。そういや、母さんたちは?」
「私が知るわけないじゃん」
「だよな。俺も聞いてから思った」
部屋に引きこもっている詩織が知るわけがない。秀一とは話してくれるようになったが、相変わらず両親とは気まずいままだ。こちらもこちらで、問題がすべて解決したわけではない。
冷蔵庫を開けると、残り物の白米があった。炒飯でも作るかと取り出して振り返ると、詩織が目の前まで来ていた。ぎょっとして立ち止まると、詩織が意を決したように口を開いた。
「あの、お願いが、あって」
「なんだ?」
思わず食い気味に答えてしまって、ごほんと咳払いする。詩織が『お願い』だなんて、最後にされたのは、それこそ秀一が高校生のとき以来かもしれない。その後、たっぷりの沈黙を挟んでから出た詩織の言葉は、予想を遥かに超えたものだった。
「……………………会いたい人がいるの。リアルで。そ、それで……一緒に、行ってくれないかな…………」
会いたい人。高校以来、かれこれ四年家から出ていない詩織が。だから思わずこんな質問が出てしまったのも仕方がない。
「家の外でか?」
「そりゃそうでしょ」
呆れたように返される。
「まあ……そうだよな。あっ……彼氏…………か?」
「……う、うん」
微かに頬が朱に染まる。
「そ、そうか……もちろん。付き合う」
「えっ、いいの?」
「え? あぁ、もちろん」
否やがあるはずがない。だが、詩織は意外そうに目を見開いていた。
「は、反対とか……しない?」
「どうして」
「だって……オフ会、だし」
「まぁ、心配じゃないと言えば嘘になるが……俺はその人のことを知らないしな……知りもしないで反対はおかしいだろう」
それに何より、その男は少なくとも秀一にはできなかったことをしたのだ。家に引きこもっていた詩織が、外に出てでも会いたいと思うだけの人。どんな人なのか、単純に気になったというのもある。
「そっか……なんか、恥ずかしいな。お兄ちゃんに紹介するの」
「ああ、そうだ。紹介といえば、ルキのこと」
「あ、お兄ちゃんの彼女!」
「彼女じゃない。昨日、久しぶりにログインしたら会えたんだ」
「えっ!」
「ゲーム機を返して貰って、アカウントを復活させたらしい。それで……別のゲームで遊ぼうと話をつけた。お前にも、会って欲しい。それで……お前がやってるゲームで会いたいんだ。タイトルを教えてくれるか? あと、俺がSNSやってないから、連絡も頼みたい……って、詩織?」
詩織はキラキラと瞳を輝かせていた。嬉しげに身を乗り出すと緩いTシャツの首元が垂れて胸元が見えそうになる。
「ほ、本当? 同じのやってくれるの? すっごく面白いんだよ! あ、待って。今公式サイトのURLを……あっ、携帯部屋だ! じゃあ、また日付決まったら、よろしくね!」
溌剌とした笑顔で踵を返して、バタバタと階段を駆け上って行く足音を聞きながら秀一は自然と笑顔になる。随分と楽しげな様子だった。どうしてもっと早く、こんな風に話せなかったのだろう、と思う。同じゲームをやっていれば、あるいは違ったのかもしれない。ただ、一つ確実に言えることがある。
「ルキに、借りが増えたな」
彼女がいなければ、また会いたいと言われなければ、同じゲームをやることもなかったかもしれない。彼女はたしかに、途切れかけた秀一と詩織の縁を繋ぎ直してくれたのだ。
夜、二十時にログインして待ち合わせ場所に向かうと、ルキは既に来ていた。パーティメンバーは以前ノギノが攻略する際にも混ぜてくれた面々だ。これが例の物好きな女かと合流したパーティメンバーに冷やかされはしたが……前回同様見ているだけでボスは倒れた。というより、ルキが多大な活躍を見せたために前回以上に早く倒せた。
ボスを倒したその足で、相変わらず閑散とした通りを抜けて、リアルエリアに向かう。前回同様、スキャンに多少の待ち時間を挟んで一歩を踏み出して、振り返ると、彩香がいた。
詩織の時にも思ったが、大変な再現度だ。彩香の方も驚いた顔で秀一を見ている。
「あ、はは……ほんとに、先生だ……」
「……ああ…………ん、それより早く行こう。万一知り合いがいたら大変だ」
「たぶん、大丈夫ですよ。このエリア、定員二人だと思うので」
「そうなのか。なら、シンシアと会えたのは運が良かったんだな……。というか、ルキの声で敬語を使われると、妙な感じだ」
「へへ、私も、ノギノに敬語使うの変な感じ」
照れ臭そうに笑った彩香に、ほんの少し目を奪われた。思えば、こんな風に笑っている彩香を見るのは初めてなのだ。ルキが笑い転げる姿なら何度も見たというのに。笑えばこんな顔をする子だったのか、と初めて知る。
「……行くか」
「ん」
ここまで来ておいて、秀一は少しばかり後悔していた。アバター姿であれば気にならなかった。けれど、現実に生徒と共にいる実感が湧いてきて、背徳感を覚える。写実的になっていく景色に現実に引き戻される感覚を覚える。前回と同じ場所で見えない壁に弾かれると、後ろからそっと手を取られた。きゅっと握られた手が熱くなる。そのまま追い越した彩香に続いて、見えない壁を素通りして誓いの広場へ踏み入った。
あの日と同じ景色がそこにあった。醒めるような青空。噴水。数客のベンチ。アーチと、小さな鐘。そして唐突に視界をよぎり、空を切り裂く赤い糸。
考えるより先に、言葉は溢れていた。
「ルキ……俺は、楽しみなんだ。これから、君と妹が歩める未来が。きっとたくさんある、素敵な出会いが。だから……諦めるなよ。立ち止まっても、挫けても、俺にできる限りであれば、力になるから」
湧き上がるままに言葉にしたセリフは、我ながら随分とクサかった。
「……あたしも。今は、まだ少しだけだけど、でも……ちょっとだけ楽しみ、だよ」
「そうか……良かった」
ゆっくりと歩を進めて、鐘の前へ行く。
契約のやり方は特に調べていなかったが、彩香が鐘を鳴らすと求めていたウィンドウが現れた。おそらくは今、彩香の前にも同じウィンドウが出ているのだろう。
『 ルキ と赤い糸の契約を結びますか?』
というシンプルな問いに『承諾』の選択肢を押す。隣で彩香も同じようにボタンを押すのを見て、次いで目の前のウィンドウに視線を戻して、凍りついた。
『誓いのキスをしてください。それをもって契約が成立します』
その後に契約により制限される機能や追加される特権がツラツラと並んでいるが、目に入らなかった。
覚悟したような目で、彩香が秀一を上目遣いに見上げる。
秀一はわかりやすく、追い詰められていた。様子を見る限り彩香は知っていたのだろう。ここまで来て「知らなかった」では済まない。それに、この契約を結ばなければルキとの約束も水泡に帰す。しかし、かといって、生徒に対してキスをするなど背徳感も罪悪感も半端ではない。軽くパニックに陥って動けずにいると、彩香が察した。
「ノギノ……やっぱり、知らなかった?」
「………………すまない」
やっぱり、とは。知らないとは思われていたらしい。それで何も言わなかったのは、彼女にも相応の悪意があったのでは……。
「まぁいいや。やろ」
秀一の目の高さに彩香の頭の天辺が届く程度の身長差。彩香が軽く顔を上げる。
「いや! いや、無理だろうさすがに。お前だって俺とするのは」
「あたしはいーよって、言ったじゃん」
確かに言われた。あの「いーよ」は、どうやらキスのことまで含んでいたらしい。
「……しかし」
「それにさあ。キスは、もう一回したでしょ」
「それは……ッ、そう、かも、しれないが……」
あの時は半ば犯されるように、裸になったルキに……。思い出してしまったのを慌てて振り払う。知らなかったとはいえ、あのままなし崩し的にそうなっていたら大変だった。
「しない、ってことは、あたしまだこのゲーム続けていいんだ?」
「う゛っ」
「まあ、あたしはどっちでもいいよ」
秀一は葛藤していた。生徒とキスなど、どう考えてもアウトだ。だが、ここはゲームの中である。誰にバレる心配もないし、バレたところで所詮はゲームの話だ。青少年育成条例違反になるかも微妙なところである。むしろ、彼女がこのままゲームを続けるほうが余程問題なのではないだろうか。ここでキスをしないという選択は、彼女の健全な生活を見捨てて自衛に走ることになりはしないだろうか。
「くっ……」
「もう一回してるんだから、同じだって。キスの感触にアバター差なんてないし」
おそらくは数多のプレイヤーとしてきたであろう彩香が言うと説得力が違う。
「いや……いや、そういう問題じゃないだろ!」
「じゃあ、どういう問題なの? たまたまあたしが、ノギノがリアルで知ってる人に似てるからって、キスできないの?」
「たまたまってな……さすがに無理が」
「あたし、まだ名乗ってないし。ノギノにも本名教えて貰ってないし。わかんないなー」
「どんな屁理屈だ!」
「いいから、早く決めて。してもしなくても、どうせここで会ってる時点でノギノ的にはアウトなんじゃない?」
「っ〜〜〜〜」
秀一は文字通り頭を抱えた。ここで折れれば、彼女はもうこの不健全なストレス解消をやめてくれるのだ。たった一度のキスでいい。それにこのストレス解消は、おそらくは性的快感を求めたものだけではない。ここに至るまでの彼女の心境と葛藤を思えば、胸が痛かった。リアルで孤独だった彼女を、たしかにこの世界は救ったのだろう。けれどもそれは、あまりにも歪な形だった。
⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
頭を抱えて悩む和泉先生を、彩香はぼんやりと眺めていた。
(やっぱり、無理なのかなぁ……)
できないことが残念でありつつも、ほんの少し安堵もあった。また学校で顔を合わせる先生に口付けされるというのは……意識してしまいそうで怖くもあるし。それに……こうして悩んでくれるのは、嬉しくもある。同情されている気がするのは気に食わないが、それでもこの人は彩香のことを考えてくれているのだ。自衛のために危ない橋は渡らない、「もう会わない」と言うことも簡単だったはずなのに。なんとか最善の道を、と本気で考えてくれている。
「ノギノ……」
嘘だよ。契約なんてしなくても、ちゃんとやめるから。一緒に遊んでくれるならそれでいいから。と、そう言おうとした時だった。
「わかった……」
意を決した様子で和泉先生が振り返った。真剣な瞳で射抜かれてどきりと心臓が跳ねる。スッと手が伸びてきて、視界を塞がれた。もう片手で肩を支えられる。
「っ……」
「今日だけだぞ」
そう囁いた吐息が、唇に当たった。
完結です。
VRモノが書きたいなと思って書いたものの、正直VRモノ目当ての人が求めてる話じゃないよなあとは思っていました。
ずっとブックマークは1件のまま。
後書きではその一人に感謝を述べてやろうと思っていました。
最終盤で2件増えてしまいました。
見つけてくださった御三方、本当にありがとうございます!最後まで完読してくださっていたら嬉しいです!




