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もうあたしに関わらないで

 それからの一週間は、ひどく味気なかった。このひと月の間はRSOばかりやっていた。実際のところ平日にはそれほどでもなかったのだが、土日に遊ぶためにも授業の準備や課題の作成といった雑事を平日の間に片付けねばならず忙しく過ごしていた。特に先週は平日にもルキと遊んでいたからだろうか、まるで心に穴が空いたような心地でいた。

 彩香の姿は当然だが、校内でまったく見かけなくなった。話がどこまで進んでいるのか、もう転校手続きは終わったのかもわからない。斎藤先生からその話題を聞くこともないまま、あっという間に金曜日になった。


「失礼します」


 早口でぼそぼそとした声が聞こえたのは、その日の終礼が始まる頃の時刻だった。教職員たちが顔を上げて、意味深な目配せを交わす。ちょうど月曜日と同じ時間に現れた彩香は、あの日と同じように真っ直ぐに秀一の元へ来た。


「東雲? どうした。忘れ物か?」


 内心、再び会えたことを喜びながら、できる限り平静を装う。できれば二人で話したかった。しかし、これといった理由もなく男性教諭が女生徒と二人になろうとする、というのはリスキーだ。


「あ、いえ……その、ハンカチ。返してなかったから……」


 そう言って、きちんと折り畳まれてアイロンをかけられたハンカチを差し出した。あの日、泣いていた彩香に差し入れたものだ。


「ああ、良かったのに。ありがとな」


 ハンカチを受け取ると、彩香の手はすぐに離れる。


「それだけです。失礼します」


 おざなりに会釈して踵を返そうとした背中に、堪えきれずに声をかけた。


「ッ……東雲」

「……は、はい?」


 戸惑った様子で足を止めた彩香に、秀一は瞬間口ごもる。職員室で、人の耳があるところで、迂闊なことは言えない。けれどもう、きっとこれが本当に最後の機会だ。


「…………お前"も"、妹と仲良くな」


 彩香は一瞬何を言われたのか理解しかねたように目を瞬いて、それから、堪え切れないみたいにくしゃりと笑顔になった。隠すように顔を逸らすが、全然隠せていない。笑いを堪えているのがバレバレだ。ルキの笑顔は見飽きるくらいに見たけれど、思えば彩香の笑顔を見るのは初めてで、思わず秀一まで頬が緩む。


「ッ……はい……!」


 今度こそ、そそくさと職員室を出て行った彩香を見送って、秀一は手元のハンカチに目を落とす。いじめの件は、表向きには解決した。けれどその実、彼女の問題は何も解決していないことを秀一は知っている。

 せめて、未来で彼女が笑っていることを、祈らずにはいられなかった。


 今生の別れとさえ覚悟していた秀一だったが、再会の日は意外とすぐにやって来た。


 彩香にハンカチを返されてから二週間が経った土曜日。秀一は久しぶりにRSOにログインしていた。このゲームは、もう処分しようと思ったのだ。それもあって売る前に一度ログインしておくことにした。どの道、アカウントを削除するには内部にログインして操作する必要がある。

 あまり期待せずに、それでも一応と確認したフレンド欄で、ルキのオンライン表示が点灯していた。最近は一定期間内であればアカウントを復活させられるサービスも珍しくない。RSOも例に漏れずそうなのだろう。

 咄嗟にメッセージを送ろうとウィンドウを操作して、指を止めた。今更連絡して、何を言うというのか。気にはなったが、今になって連絡など寄越されても迷惑かもしれない。何より。


(俺は……教師だ)


 ここがゲームの世界であろうと、秀一とは別のノギノというアバターを纏ってはいても。教え子と知った上で、学外で接触することは、明確にルール違反だ。それでも、本当にこのまま縁を切ってしまっていいのだろうか……。

 そんなことを思案しながら、ノギノは忘れていた。

 ログインした場所は、いつもルキと使っていた宿屋のすぐ近く。邪魔にならないように、それなりに人通りのある表通りからは逸れた横道である。


 そしてここは、RSOだった。


「ッははあ……! もうこいつは、そういうことで、いいんだよなあ? かわいい顔した、おにーさん?」


 ねっとりとした声にノギノが振り返ると、通路を塞ぐほどの巨体をした、狼がいた。毛むくじゃらの体には当然のように服など着ておらず、鋭い歯が覗く大きな口からは涎が下垂れ落ちる。

 ノギノは顔を引き攣らせて、数歩後ずさる。


「な、何がだ」


 狼は口端を吊り上げるようにして笑う。


「いただきまあす」


 太い腕が迫ってきて、咄嗟に逃れようと体を捻るが間に合わない。次の瞬間には、ノギノはいとも容易く組み伏せられていた。生暖かい息が頬を撫でる。大きな舌でべろりと頬を舐められた。これが現実なら鳥肌が立っていたことだろう。


「ひッ……!?︎ おい、やめっ……!」


 ノギノは精一杯の筋力値でもって押し除けようとするが、まるで歯が立たない。緊急脱出コードだ、と思い至って。けれど、設定したのは一ヶ月も前で咄嗟にワードが出て来ない。加えて巨大な狼に押し倒されて、割とリアルに恐怖で頭が真っ白になっていた。人は本気で恐怖すると動けなくなるのだ。


「はぁはぁ、かわいいよお。おにーさ」

「ッやああああ!!︎」


 唐突に聞こえた気勢と共に、狼の声が中途半端に途切れた。転瞬、ノギノの体の上から圧力が消えた。一拍遅れて、狼が蹴り飛ばされたのだと気がつく。

 目の前では、水色の尻尾が揺れていた。


「ッ……なんだよ! 邪魔するんじゃねえ!」


 蹴り飛ばされてごろごろと転がっていった狼が起き上がって吠える。


「ごめんなさいっ! でもさあ、このおにーさん、あたしが目付けてたんだよね。ここは譲ってくれないかな。狼さん」


 水色の髪に猫耳と尻尾を生やした少女は、自分の倍はある背丈の狼に向かって気楽な調子で笑いかける。


「はあ? その兄さんが誘って来たんだよ!」

「誘ってない!!︎」


 全力で否を唱えると、狼は興醒めしたような顔になった。


「おいおい、あれで誘ってなかったって?」

「悪かったって。今度あたしのこと抱かせてあげるからさ?」

「ッチ、いらねえよ。かわいい男を押し倒すのが趣味なんでね」


 その趣味に付き合う男がいるのか、とノギノが戦慄している間にも、狼はつまらなそうに背を向けて行ってしまった。

 少女……ルキは、いつか会ったあの日と変わらぬ笑顔でにこりと笑って振り返った。


「だから言ったじゃん。襲われて犯されちゃうよって」

「…………悪い……助かった」

「どーいたしましてっ! あの人も気の毒だったよねー。押し倒されてんのがノギノじゃなかったら、あたしもそういうプレイしてると思ってたよ。煽る才能ありすぎでしょ」

「俺よりもアレが気の毒なのか……」

「なんで緊急脱出コード使わなかったの?」

「…………頭が、真っ白になって、声が出なかった」


 素直にそう言うと、ルキはちょっと呆れたみたいに笑う。


「しょうがないなあ。そういう時は、『緊急脱出コードが思い出せない!』とかって叫ぶんだよ。『お母さんが呼んでる!』とかでもいい。みんなロールプレイで楽しんでるからさ、そういうメタいこと言うとやめてくれるから」

「……はは、なるほどな」


 ルキは少し前傾すると、上目遣いにノギノを見上げる。


「それでさー、おにーさん? 助けてあげたお礼に、あたしとヤりません?」

「……お前は、相変わらずだな」


 こうして話していると、やはり彩香とは重ならない。


「やっぱだめかー……はー、それで、なんでここにいるの? もしかして、あたしに会いに来てくれた?」

「…………いや、ああ……そうだな。会いたいとは、思っていた」

「ほんと!?︎」


 ルキの耳が嬉しげにぴょんと立つ。


「……二人で、話せないか?」


 少し躊躇ってから、結局そう切り出した。この元気で危うい少女を一人置いていけるほどに、秀一は割り切れていなかった。


「じゃあ、いつもの部屋。行こっか」


 それから宿屋の部屋に入るまで、一切の会話はなかった。今まで自分たちは何を話していただろうと不思議に思う。なんと声をかけていいものかわからなくて、迷った末に出たのは当たり障りのない一言だった。


「……三週間ぶり、くらいか」


 ルキに続いて部屋に入って、後ろ手に扉を閉める。三週間にしては、至極久しぶりな感覚がした。


「そうだね。三週間ぶりくらいだよ」


 答えるルキの声はどことなく固い。


「ゲームは返して貰えたんだな」

「うん! どうせ今、やることもないし」

「……それで、やってるのがこのゲームなのか?」

「うん、そう!」

「…………お前は、十六歳だよな」

「十八だよ」

「……今更何を言って」

「十八だよ!」


 遮るようにルキは怒鳴った。


「…………そんなに、このゲームがやりたいのか」


 こんなものは麻薬にも等しい。脳に直接与えられる電気刺激による官能。そんなものに慣れてしまったら、あるいはもうこれでしか感じられなくなるんじゃないかと思う。


「……うん。やっぱりあたしには、ここしかないから」

「ゲームなら他にもいくらでもあるだろう」

「あはは、何言ってんの? 違うよノギノ。あたしは、ゲームがやりたいんじゃない。オトコとヤりたいの」

「ストレス解消のために、か」


 ルキは不満そうに頬を膨らませる。


「ノギノ、つまんないよ。なんでゲームやってるのに、そんな顔してんの? いいじゃん別に。あたしは誰に迷惑もかけてない! むしろ現役JKとヤれて嬉しい人のが多いんだよ! そんな顔しかできないなら、もうあたしに関わらないで」

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