善意により突きつけられる惨めさ
「それは、どういう……」
秀一が聞き返そうとした時だった。扉がノックされる音が響き、ほとんど間を置かずに扉が開いた。
「和泉先生、少しよろしいですか?」
斉藤先生だ。もう少しだったのに、と内心歯噛みしつつも秀一は立ち上がる。
「今行きます」
促されるまま部屋を出たところで斎藤先生が向き直った。
「今しがた、佐野さんに話を聞いていたのですが……なんでも、彩香さんが自分から言い出したと言っていて」
「な……!?︎ そんなわけ……!」
斎藤先生も頷く。
「私もさすがに信じられませんが……一応、彼女が言うには、彩香さんは和泉先生に……所謂ラブレターを送っていて、それに今度は自分の写真を同封したいから撮りたいと言ったらしくて。心当たり、ありませんか?」
「…………たしかに、それらしい手紙なら、今朝靴箱に入っていましたが」
彩香に話を聞いた感覚では、とてもあの手紙の贈り主とは思えなかった。だが、斎藤先生が佐野の話を鵜呑みにして彩香を疑ってかかっていたように、秀一とて彩香の話を鵜呑みにしていないとも限らない。人の主観は、時として判断を鈍らせる。自分は、必要以上に彩香に入れ込んでしまっていないだろうか。
「そうなると、そこについても彩香さんに聞かないといけませんね」
斎藤先生の言葉に、秀一は自問を切り上げた。
「俺から、聞いてもいいでしょうか?」
そう進言すると、斎藤先生は少し迷った様子だったが、結局頷いてくれた。
「…………お願いします」
一度デスクに戻って、手紙を取り出す。猫のイラストが入った可愛らしい便箋だ。そういえば、猫のストラップも持っていた。猫が好きなのだろうか。たしか、水色の……。その瞬間、まるで電流が流れるように頭の中ですべてが繋がった。
「……まさか」
視線は恋文を見つめたままで、頭を整理する。そもそもどうして彩香がルキである可能性を考えなかったのか。それは、ルキは十八歳のはずだからだ。だが考えてみれば、それも自称に過ぎない。十八禁のゲームでサバを読んでいた可能性は充分にある。加えて、先程の態度。いじめられているという境遇の一致。SNSも、自分のホーム画面を見ていたとしたら辻褄は合う。
「……和泉先生?」
立ち尽くしていた秀一に、怪訝そうに斎藤先生が話しかける。
「……この手紙は、東雲が書いたものじゃない……?」
「えっ、どうしてわかるんですか?」
なぜ、と言われても上手く答えられなかった。ただ、彩香がルキであるならこんな手紙を書くはずがないのだ。こんな純粋な好意を綴った手紙を、ルキが教師に対して書けるはずがない。それだけは断言できた。
「…………斎藤先生、何か、筆跡がわかるものはありませんか」
「っ……、持ってきます!」
斎藤先生はすぐに小テストの答案用紙を持ってきた。ついでに佐野を始めとした他の子の筆跡とも比較する。筆跡を真似るくらいの知恵は働かせているかとも思ったが、明らかに字の大きさが違った。遠慮するように枠に対して小さめな彩香の文字に対して、筆跡こそ似せられているが手紙の文字は行の高さに対してどちらかというと大きめだ。
「……本人に聞いてきます。少し待っていてください」
「わかりました。それが、確実ですもんね……」
どこか複雑そうなのは、彼女自身にまだ佐野を信じたい気持ちがあったからなのかもしれない。
個室に戻ると、彩香はぼんやりと待っていた。どこか虚な光を宿した目が秀一を見る。吸い込まれそうな不安を覚えた。
「……東雲。これに、見覚えはあるか?」
持っていた手紙をパサリと机に滑らせる。彩香は不思議そうに首を捻った。突然何を言っているのかわからないといった風だ。ややあって答える。
「……ありません、けど……」
「中身、見てもいいぞ」
既に封の開いている、見るからに個人的な手紙を恐る恐る彩香は取り出す。おそらくは封筒とセットであろう可愛らしい便箋に躍る字を読んで…………彩香の手がわなわなと震え出した。便箋を持つ手に力がこもり、紙がぐしゃりとよれる。今にも紙が破れそうなくらいに握りしめると、唐突に便箋を机に叩きつけた。静かな個室に瞬間、ダン!!︎ と大きな音がこだまする。
「ち、ちちち、違います!!︎ わ、私、こんな……あり得ません!!︎」
「わ、わかった。違うならいいんだ」
秀一は驚いて宥めるように手を上げる。ここまでほとんど感情の動きを見せなかった彩香が、目に見えて激怒していた。十も歳上の好きでもない男に対して名前を騙って恋文など贈られればそれは怒って当然……なのだが、これまでに受けてきたであろう数々の狼藉への怒りすら上回るのか……。
「…………」
彩香は憮然として、乗り出していた身を引くと元のように椅子に縮こまる。
その時、コンコンと遠慮がちにノックの音が響いた。
「どうぞ」
と秀一が返事をすると斎藤先生が扉を開く、その後ろには見慣れない女性がいた。長めの髪を綺麗に結い上げて、仕事帰りなのかオフィスカジュアルといった服装。なるほど、彩香は母親似なのだなと秀一は思う。二重の目元と整った顔立ちがよく似ている。
「和泉先生、後は私が」
「あぁ、はい。こちらも確認できました」
机から手紙を取り上げ、素早く便箋を封筒にしまって秀一は部屋を出た。事態の説明はある程度終わっているはずだが、今後のことも含めて話すのだろう。それはあるいは、彩香……ルキにとっては何よりも耐え難いことなのかもしれない。
閉じた空間。
向けられるのは憐憫と同情。
善意により突きつけられる惨めさ。
何がしてあげられるだろう、と考えるが、一教師の立場では特に何もできないことはわかりきっていた。
今頃、別室では加害者とその保護者がそわそわしていることだろう。
学校としては穏便に済ませたい。
加害者たちも穏便に済ませて欲しい。
しかしながら、結局のところ被害者にとっては警察沙汰にしようが穏便に済ませようが大した違いはない。いつだって、割を食うのは被害者だ。家族を壊され、居場所をなくした彼らに、もう二度とそれは戻らない。部活動であれば退部の選択があるが、教室が現場である以上彼女は転校するのだろう。
逃げることを強いられるのはいつだって被害者なのだ。加害者はこれからも、何食わぬ顔で日常へ戻るというのに。
その後、秀一の仕事は特になく、かといってここで帰るのも気が引けて、ぽつぽつといなくなる教職員を見送りながら過ごすことおよそ三十分。ようやく話がまとまったのか、まず加害者たちが帰された。そろそろ運動部も帰宅する時間で、校内から人の気配が消えていく。
さらに数十分後、母親に連れられて出てきた彩香は目を赤く泣き腫らして酷く顔色が悪かった。教員の立場を未だかつてこれほどもどかしく思ったことがあっただろうか。激しい焦燥感に駆られた。何かしたい、声をかけたい。きっと向こうも秀一がノギノだと気が付いただろう。けれど、今は出る幕ではない。
教室から回収してきていた鞄を持って、頭を下げて彼らは帰路につく。彩香はついに、秀一の方を見ることはなく帰って行った。
(もう……これで終わりなのか……)
終わってみれば、あっけなく、散々言葉を尽くした割に秀一にできたことなど何もなかった。まるで彼女を救えた気がしない。あるいはもう二度と、会うこともないのかもしれない。詩織とも和解して、これからはリアルで話せる。RSOをやることはもうないだろう。せめてその報告をしたかったなと今更思う。
外にはすっかり闇の帷が下りていた。




