ルキの存在証明
教室中の視線がチラチラと彩香に注がれた。誰も、何も言わない。突き刺さる視線に顔を俯けると、髪を引っ張られた。ずるっと引き上げられた眼前には、構えられた携帯端末。光っているのは、カメラモードだ。
「私さ、写真好きなんだよね」
「マジ上手いからさ。だから、彩香ちゃんの写真撮ってあげようって話になったんだ」
「彩香ちゃん細いから、絶対いい被写体になると思うんだよね」
ニヤニヤと笑う彼らの目的が、ただ写真を撮るだけであるはずがなかった。彩香はぞくりと背筋が凍る。サッと目を走らせると、いつの間にか教室の扉は閉まっていた。扉に寄りかかるように立っている生徒。誰かが席を立つカタンという音。
「マジ? 佐野そこまでする? 脱がしちゃうわけ?」
ノリノリで聞こえたのは、男子の声だった。
「やだ、欲情してんじゃん」
「あんた、彩香ちゃんでいいの? 趣味悪くね」
「散々ヤってるらしいじゃん。テクニシャンだったりして」
嘲弄半分の黄色い悲鳴。
明らかに度が過ぎている。
最初は、たまに突き飛ばされる程度だった。それが、いつの間にこうなったのか、彩香自身わからなかった。わかっていれば、とっくに逃げ出していた。逃げられると、思っていた。
(逃げ、ないと……)
増長させれば、と言っていたノギノの言葉を思い出した。
(……自業自得だ)
心配してくれていたのに。伸ばされた手を振り払ったりするからこうなる。
心のどこかで信じていた。期待していた。ここまでの事態にはそうそうならない、と。なる前に逃げればいい、と。自分はそのぎりぎりがわかると……思い上がっていた。
「彩香、服脱げ」
周囲を十分に煽って楽しんだところで、佐野がそう宣告した。
「っえ…………」
「服脱げって言ってんの」
「……や、やだ」
どうしようどうしようどうしよう、と焦る自分と、もうだめだ終わりだと嘆く自分が混在していた。縋るように向けた視線には、誰もが無情に目を逸らす。彩香を囲む敵対的な視線は少なくとも五対。昼休みは残り、三十分。
「え? 何? 聞こえなかったんだけど」
「嬉しいってさー」
「ははは、マジかよ。ビッチじゃん!」
「っ…………」
必死で首を振ったところで意味はなく、無情な掌が彩香の制服に伸ばされた。
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秀一は頭を悩ませて廊下を歩いていた。本当なら朝のうちに東雲に会いに行くつもりだったのだ。ところが、事情が変わってしまった。
今朝方、職員用の玄関で靴を履き替えた時、見慣れない便箋が入っていたのだ。下駄箱にある手紙といえばラブレターと相場が決まっている。とはいえ、今時古風であることに変わりはない。念のためにお手洗いの個室で開封したところ、それは紛れもない恋文だった。それも、よりにもよって。
(どうして……東雲なんだ)
秀一といえど生徒からの恋文など初めてである。
もちろん彩香を装って恋文を忍ばせたのは佐野なのだが、そのことに秀一は思い至らない。筆跡など知る由もなく、もっともらしい文章に不自然と言えるほどの点はない。何より、ことの真偽を疑えるほど秀一は彩香のことをよく知らなかった。
結局どうしたものかと悩んでいるうちに昼休みも終わり間際だ。午後の授業のため次のクラスに向かいながら、もう放課後に行くしかないと結論する。こうしている間にもルキの身が心配だった。
東雲に会えば、恋文の話に言及せざるを得ないだろう。手紙には、返事を待っている旨が書かれていた。言うまでもなく、生徒とどうこうなどあり得ない。だが、迂闊に二人きりで接触してしまえば、あることないこと吹聴される可能性もある。果たして、どう話せば穏便にことが運ぶのか、秀一には見当もつかなかった。
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昼休みが終わったお手洗いで、彩香はびしょびしょに濡れた下着を持って呆然としていた。
永遠のようにも感じられた昼休みも、終わり間近になって彩香はようやく制服を着ることを許された。だが途中で下着を奪われていて、それを取りにお手洗いまで来たのだ。空気が直接粘膜を撫ぜるのが冷たくて気持ち悪い。かといって、便器に突っ込まれた下着を身につけるのも気持ちが悪い。
(もう、ノーパンのまま教室戻ろうかな……)
そう、自然に考えていた自分に戦慄した。されたことを忘れたわけではない。だというのに、自分はまだあの場に戻ろうとしている。これである程度満足したから、これより酷いことにはならないはず、なんて曖昧な期待がその根底にあることを自覚して、ぎゅっと下着を握りしめた。
「だめ……」
本音を言うなら、たしかに戻りたかった。可哀想と言われるのが恐かった。理不尽に耐えている悲劇のヒロインである方がよほどマシに思えた。性行為を強要されただとか、犯罪行為を強要されただとかのいじめの手口はうんざりするほどネットで目にする。
まだ、そこまでは行っていない。ならばまだ耐えられる。半ば本気で、彩香はそう考えていた。
けれど、それを選ぶことは、あの世界への裏切りな気がした。ここで諦めて、同じ失敗を繰り返して、停滞を選ぶことは、救いをくれたあの世界への裏切りだ。例え二度と会うことはなくとも、それだけが唯一、ルキがノギノに報えることに思えた。
制服のポケット。紐が切れてから入れっぱなしの猫のストラップを握りしめる。水色の猫は、ルキの象徴だ。
(あたしが、彩香を救う)
決意の言葉は、ルキの声だった気がした。
彩香は放課後まですべての授業をサボった。高校ともなれば、出席日数さえ足りていれば余程派手な行動をしない限りは放任される。授業中にいなくとも、担任ならまだしも教科担任くらいならばまず気に留めない。せいぜいが休みなのかな、と思う程度だろう。
見咎められることがなく、ほぼ確実に和泉先生が捕まる時刻。すなわち、終礼の時間になるまで待ってから、彩香は職員室へ向かった。どのクラスも終礼の時間は変わらない。廊下には生徒も教師もほとんどおらず、たまにすれ違う人も彩香のことなど気にも留めない。
引き返せない。引き返すわけにはいかない。そんな決意とは裏腹に、職員室の入り口で口に出した言葉は、ぼそぼそとした小さな声だった。
「失礼します」
職員室の中に、人は少ない。クラス担任は出払っていて、生徒の姿もない。時計が時を刻む音がいやに大きく聞こえた。その中に、目当ての和泉先生の姿を見とめて安堵する。
四方から向けられる怪訝そうな視線を無視して、真っ直ぐに和泉先生のもとを目指した。何を言うかなど、何も考えていなかった。ただ、会って話さなければいけないとそれだけを、半ば以上義務的に考えて。しかし、その前まで行って彩香が何かを言うよりも早く和泉先生が口を開いた。
「何か用か。終礼はどうした」
どこか突き放すような態度だった。教室で声をかけられた時のような、何かを窺う素振りもない。怯みながらも、彩香はカラカラに渇いた喉から、なんとか声を絞り出そうとした。
「っ…………そ、その……」
彩香はここに来てようやく、話すことを考えていなかったことに思い至った。何があったのかを話さねばならない。いや、その前に、言うべき言葉があったはずだ。そもそも、どこから話せばいいのだろうか。
「…………」
上手く言葉が出せない彩香に、和泉先生は興味なさげに目を逸らしてしまう。けれど、その冷たい態度は、期せずして彩香に勇気を与えた。追い討ちをかけるような拒絶は、最後に残った彼女の甘えを奪っていった。
(ノギノ……これで、いいんだよね……)
喉が細くなってしまったみたいに、言葉が上手く出ない。ようやく発した言葉は、彩香自身驚くくらいに、か細く掠れて、泣きそうな声だった。
「……った、助けて、ください」
和泉先生がハッとしたように顔を上げたけれど、彩香にはもうそんなもの見えていなかった。
「東雲」
名前を呼ぶ和泉先生の言葉さえ、もう聞こえていなかった。
自分の言葉を声に乗せることに必死だった。あれほど嫌悪した言葉を、けれど言わなければ始まらない。これこそが自分の決意の証で、ルキの存在証明なのだから。私が言わないといけない。あたししか、言ってあげられない。
「わ、私は……っ、いじめられています!」
まるでそんな気はなかったのに、そうと意識する間もなく、涙がこぼれ落ちていた。今や、職員室中の視線が彩香に注がれていた。ピリッとした空気が満ちる。誰かが立ち上がって足早ににどこかへ行く音がした。和泉先生の緊張感を孕んだ声が聞こえた。
「奥に行こう。来なさい」




