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独りに、なっちゃうよ

「……詩織」


 振り返ったその場所に、詩織がいた。風に靡く黒髪を耳にかけて、何とも言えない曖昧な表情で立っていた。現実世界とまったく同じ姿なのに、声だけが記憶と違うのが妙な気分だ。


「もう、ここではシンシア、だよ」


 ふふっと、ぎこちなく笑う顔が酷く懐かしかった。思えば、最後に笑った顔を見たのはいつのことだろうか。

 歩み寄った詩織が、ノギノ……秀一の手を取って進むと、見えない壁に阻まれることはなくスルリと奥へ抜ける。


「しお……シンシア、すまない。ずっと、謝りたかったんだ」

「もう……何度も聞いたよ」

「返事がなかったから……許してくれていないのだと」

「……それは、私がごめん。謝られるのが、顔見るのが、耐えられなくて」


 そう語る通り、詩織は秀一の一歩前を歩いたまま振り返らない。噴水をまわって、アーチへ向かう。


「…………悪かった。俺のせいで」

「だから違うって。怒ってないし、恨んでもないから!」


 アーチの前で、足を止める。自然と秀一も一歩後ろで足を止めた。


「けど」

「もうやめて!」

「…………わかった。もう言わない」

「…………」

「…………」


 謝罪以外に何を言えばいいのか、何も考えていなくて口籠る。しばし静寂が流れて、やがて詩織が口を開いた。吐息が震えて、声も震える。


「…………怖かったの。お兄ちゃんにまで、可哀想みたいな目で、見られたくなかった。私が、間違ってるって、言われるのが……ううん、認めるのが。怖かった。それで、避けてた…………ごめん」

「……それは、避けて正解だ」


 そういう目を向けない、とは言えなかった。自分ならば向けた気がする。ともすれば今も……。ルキの言っていたプライドの意味が、ようやくわかった気がした。周囲に露見すれば、そのことを憐れまれれば、惨めな自分という存在を突きつけられることになる。それも、純粋な善意から。


「っ……認め、ちゃうんだ……」

「……申し訳ないが、やはり俺には、哀れに見える。理不尽の被害者に」


 今更取り繕っても仕方がない。幻滅されるかもしれない、と覚悟の上でこぼした言葉に、しかし詩織は静かに頷いた。


「うん……わかってる。みんな、そうだよ。私だって……いじめられてる子見たらそう思う」

「……どうして、急に会ってくれる気になったんだ?」


 秀一の問いに、答える声は酷く明瞭で明快だった。


「なってないよ」


 くるりと体ごと向き直った詩織は、自嘲するように笑っていた。


「……え?」

「どうせ来れないと思ってたし。八割くらい、嫌がらせだった。あんまりしつこいんだもん」


 嫌がらせではない可能性を考えたばかりだというのに、こんな風に言われては秀一も苦笑するしかない。けれども、言われてみればその通りだ。


「…………まぁ、そうだな。我ながらよくここまで来れたものだと思うよ」

「思ったより早くSNSも割られてるし、メインクエだって簡単じゃないのに。ゲームがわかったって来れるわけないって思ってた。おかげで……賭けは彼氏の一人勝ちだよ」

「賭け? いや待て。彼氏? いるのか?」

「うん……それよりお兄ちゃん、どうやってここまで来たの? RSOやってるような友達いたの? SNSをあっさり見つけちゃった名探偵もその人?」


 露骨な話題転換ではあるが、秀一も話したいと思っていた話題だから素直に流されておく。


「友達……じゃない。RSOがゲームだということは、調べたらすぐにわかった。ならシンシアはプレイヤーネームだろうとも察しがついた。だが、ゲームを買ってログインしたものの、どうしていいかわからなくてな。たまたま会った親切なプレイヤーが助けてくれた」

「親切なプレイヤー……って、メインクエストに付き合ってくれるような? そんな人いたの? 男の人?」

「いや、女性のはずだ」


 そういえば敢えて性別を尋ねたこともなかった、と今更思う。つくづくルキのことを何も知らない。


「RSOやってるのに、メインクエストクリアしてない、親切な女の人……って、よく会えたね……。騙されてない? 大丈夫?」


 酷い言い様に秀一は何度目かの苦笑いを返す。


「本当だな。最初こそちょっとした幸運程度にしか考えていなかったが、今ではよく付き合ってくれたものだと思うよ」


 前半こそ攻略を楽しんでいる様子ではあったが、後半はなかなかキツそうだった。それに加えて、レベリングにまで付き合ってくれたのだ。どれだけ礼をしても足りないと思った矢先、突然に別れが訪れた。そのことを思い出して、思わず顔が曇る。


「……私も、会ってみたいな」

「そうだな……俺も、会わせられればと、思っていた」


 同じ境遇であれば、話も合うかもしれない、と。今となっては叶うことはない。けれど、詩織とこうして言葉を交わして、やはり二人に話して欲しかったと思う。詩織にとっても、ルキにとっても、きっと悪くない出会いになっただろうに。

 もう会えない、とでも言うような口ぶりだったからか、詩織は首を傾げた。


「会えないの?」

「ああ。その子は高校生でな、メインクエストのラスボス手前までは一緒だったんだが……親の方針でゲームを取り上げられたらしい」

「高校生……!?︎ まさか、お兄ちゃん手出してないよね……?」

「出すわけないだろう」

「ええっ!?︎」

「…………なぜ驚く」

「だって、所詮ゲーム……じゃん?」


 どうしてか探るように言う。


「ゲームだとしても、触れ合っているのは人だろう」


 当然のことを答えただけなのに、なぜか詩織は今日一番の笑顔を見せた。


「うん……。そう、そうだよね!」


 なぜか嬉しげな妹に秀一は首を傾げる。


「……どうかしたのか?」

「ううん! なんでもない! それより、一人でRSOやってる女子高生、って……まあ、いなくはないのかもしれないけど……」


 なんでもなくは見えなかったが、その点には特に突っ込まずに秀一は答えた。


「ストレス解消だと言っていた。どうやら、いじめに、遭っているらしい……。周囲に頼れ、と言ったんだが……」


 あの様子では彼女はまだ抱え込み続けるであろう気がした。『いじめ』というワードを出すのに、秀一とて多少の躊躇いはあった。それはかつてのトラウマを呼び覚ますかもしれない、と思ったからだ。けれど詩織が自ら口にしていたから大丈夫だと判断しての言葉だった。

 だから、その瞬間、詩織の顔から表情が消え失せたことに焦った。だが、秀一が取り繕うより詩織が口を開く方が早かった。


「それ、大丈夫……なの?」

「え……それ、は……」


 秀一は苦々しく顔を歪める。大丈夫かといえば、大丈夫なはずがない。だが、だからといって秀一にできることなど限られている。

 けれど、秀一の想像に反して、シンシアの懸念は『いじめられていること』に対してではなかった。


「この……RSOで、ストレス発散してたんだよね? お兄ちゃんと、遊んでたんだよね? それを、取り上げられたら……」


 その先を秀一が思うのと、詩織が言葉にしたのは同時だった。


(ルキは、この先……)

「独りに、なっちゃうよ」

「っ……だとしても、どうしようも」


 既にアカウントは削除されたのだ。それでなくともフレンドを切られている。仮に連絡を取る術があったとして、家の方針ではどうにもならない。


「私は……RSOじゃなかったけど、この世界に、救われてきた。ここに、私を認めてくれる人たちがいなかったら、きっと、死んでた……気がする。現実は辛くて、ご飯も食べずに何日も潜ってた」

「そうだったのか……」


 それは、秀一も初めて聞く話だった。詩織が引きこもるようになった頃、秀一は教員として働き始めたばかりで忙しく、一人暮らしをしていたこともあり、詳しいことは聞いていなかったのだ。


⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎


 RSOはその性質上、遠距離やオンラインゲームで知り合った恋人同士、実家暮らしの学生カップルが一緒に始めることも少なくない。シンシアもそのクチで始めた。その場合、目的地は肉体関係だけではなく、このリアルエリアで会うことも含まれる。つまり、メインクエストをクリアする相手がいなかったという時点で、シンシアにもある程度の察しはついた。


(……救われてたんだろうな)


 ただ道中を共にするのとはわけが違う。このゲームのメインクエストは一度しかできない。複数アカウントを持つにはハードごと変えなければできない仕様だ。つまりはそれくらい、人に、必要としてくれる誰かに、飢えていたということなのだろう。かつて孤独を味わった者として、シンシアにもまたその感情は手に取るようにわかる。


「…………そう、遠くない場所にいるのは間違いないのに。ねえ、連絡先とかわからないの? SNSとか……お兄ちゃん?」


 シンシアが顔を上げると、兄はいつの間にかウィンドウを開いていて、食い入るように画面を見つめていた。

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