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お兄ちゃん

 誓いの広場への行き方だけ聞いて男と別れたノギノは、一度ログアウトした。

 会うにしても待ち合わせをしなければならないからだ。

 時刻は十六時を少しまわったところだった。部屋を出てすぐ隣、詩織の部屋の扉をノックするも当然のように返事はない。だが、もう間もなく夕飯の時間だ。ノギノの分も含めて母親が準備してくれているはずだった。ノギノが休みのたびにこれだけゲームができるのも実家暮らし故である。

 一度部屋に戻って、詩織に託されたメモを裏返した。少し迷って、今夜二十一時、とだけ記す。これで伝われば、あの場所に来るだろう。

 十七時半。メモを持って階下に降りると、母親が立ち働いていた。とはいえ支度自体はほとんどできているらしい。グツグツと煮たつ鍋を横目に携帯端末をいじっている。


「母さん。詩織の夕飯、俺が持って行くよ」

「え? そう、もうすぐできるからそしたらお願いね」

「……父さんは?」

「またゴルフで外で食べてくるって。これで浮気でもしててくれればまだ見直すんだけどねぇ」

「いや、浮気はだめだろ……」

「そう? 家族放って一人でゴルフやってるくらいなら、まだどこかで別の誰かと会ってる方が健全だと思うけど」


 母親の言葉に僅かに棘が混じる。


「そういう……ものかな」


 家族はバラバラだ。部屋から出て来ない妹。休みの日も遅くまで帰らない父。妹を襲った加害は、彼女だけでなく家族までをも壊した。四人掛けのテーブルに三人以上が座っているところを、秀一は実家に戻ってから一度も見ていない。

 どうしたらこの傷が修復されるのか、秀一にもわからなかった。ただ、ひとつひとつを解決したところで、もう二度と以前の形は戻らないのだろう。たった数年のうちに両親は老け込み、秀一も詩織も成人した。この先どうなろうと、この欠落した数年は戻らない。


「ところで秀一。そろそろ彼女とか連れてきてくれてもいいのよ?」


 笑みを含んだ声色に秀一は苦笑した。


「……ちょっと今そういうのは、考えられない……」


 孫の顔でも見せてやるべきなのかとは考える。秀一も今年で二十七だ。もう数年もすればたちまち三十代である。結婚を考えるのであれば、それこそマッチングアプリでもやるべきなのかもしれない。けれど、詩織の状況を知ってから、恋愛する気などすっかり失せてしまった。


「職場にいい人とかいないの?」


 斉藤先生の顔が脳裏をよぎり、秀一は首を横に振った。


「同業者は無理」

「でもほら、生徒さんとか」


 揶揄うように言われて、秀一はムッとした。


「冗談でもやめて」


 脳裏によぎりそうになったルキの顔を慌てて追い出す。


「まぁ、結婚しようがしまいが、私はどっちでもいいんだけどね……。詩織のことを、気にしてるなら……」

「違うよ。そういうんじゃない」


 口ではそう答えるが、何も違わないことはわかっていた。妹すら守れない兄が、赤の他人の女性とどうこうなんて、どうにも違和感が先走ってしまう。二人でいるだけで、楽しんでいるだけで、罪悪感にも似た感情が湧き上がる。仕事に忙殺されているうちに、大学で付き合っていた彼女とも自然消滅してしまった。

 つくづく、不器用な自分が嫌になる。

 中途半端に途切れた会話。今更沈黙が気まずいということはないが、なんとなく手持ち無沙汰にしていると、炊飯器がご飯の炊き上がりを知らせた。


「……じゃあ、ご飯にしましょうか」


 メモを忍ばせた夕飯が乗った盆を詩織の部屋の前に置いて、自分もまた食事と入浴まで済ませてから自室へ戻る頃には盆は消えていた。滅多に姿を見ないが、彼女もまったく部屋を出ないわけではない。数日に一度は人の出払った昼間にシャワーを浴びているらしいし、食器は皆が寝静まった頃に自分で洗っているらしい。


 夜八時。

 早めにログインしたノギノは誓いの広場へ向かっていた。閑散とした道にプレイヤーの姿はほとんどない。それもそのはずで、ここの街並みは景観だけで特にショップなどもないのだ。宿くらいはあるらしいが、それも敢えてこちらの街で使う人間は限られている。

 ファンタジー感漂う石畳の道をひたすら歩いた突き当たりに、そのエリアは存在した。緑色の蔓草が覆うアーチには、揺蕩うように表面が揺らめく膜が張っている。そこを超えた先がいよいよリアルエリアだ。誓いの広場はあの中にある。



「誓いの広場の何が特別か、ノギノは知ってる?」


 ルキが不意にそんな話を始めたのは、二人でレベリングに勤しんでいる合間の休憩時間だった。


「いや……? 特別なのか?」


 これまであまり気にしていなかった部分で、何気なく尋ね返した。


「うん……特別。誓いの広場ではね、アバターが溶けるの。リアルの容姿がそのまま反映されるんだよ」

「そんなことができるのか?」


 写真をもとにアバターを生成する機能はあるが、それも写真は自分で選択する以上自己申告である。


「あのハード、カメラついてるんだよ。その場で撮ってアバター作れるように。自分じゃ見れないんだけど、折り畳まれてるアームが伸びてさ。だからうつ伏せでやってたりすると上手くいかないんだけどね」

「……だから、特別か」

「うん、そう。あとね、ノギノには関係ないだろうけど、もう一つ。あそこの鐘を鳴らすと赤い糸の契約が結べるの」

「ふぅん。よくある結婚システムみたいなものか?」

「あはは、似てるけど、ちょっと違う。その契約を結ぶと、結んだ相手以外とできなくなるの」

「できなくなる……?」


 ルキは意味深に笑った。


「だからー、アレをね? システム的にダメになる。まあ、契約破棄もできるんだけどね」


 ノギノは苦笑で応える。つまりは、このゲーム最大の売りである性行為のことだろう。


「なるほど」


 あたしには一生縁のないところだな、とルキが朗らかに笑うのを聞きながら、ノギノはぼんやりと考えた。プレイヤーにとって特別な意味を与えるその場所が、シンシアにとっても特別であったのなら、このゲームを選んだ意図は単に嫌がらせだけではないのかもしれない、と。



 アーチに足を踏み入れて、アバターが解除される旨の警告を了承する。リアルの容姿をスキャンする間待たされてから、ようやくアーチをくぐった。体格についてはハードの初期化の時に入力する必要があるからそこから流用しているのだろう。

 ノギノは身長も実際の値を入力していたから体感的にはあまり変わらないが、既にその容姿は和泉秀一のものになっている。他のプレイヤーの姿は一人もない。ファンタジー感溢れた街並みはいつしか途切れ、道の両脇には木々が生い茂った。石畳はアスファルトに変わっている。まるで現実世界に戻るように、ポリゴン感の残る景色は写実的になっていく。おそらくはこの舗装路からの見た目に注力して調整したのだろう。

 やがて現れた十字路の突き当たり、直進したその場所にそこはあった。画像で見たあの場所が、しかし画像で見るよりも現実感を伴って。

 町中にある公園のように、出入り口には数本のポールが立っている。円形の広場。中央の噴水。奥には白のアーチと小ぶりの鐘。そして、空を切り裂く赤い糸。その端は薄れるように途切れて見えない。

 自然と歩み寄ろうとして、見えない壁にぶつかった。このゲームをしていると時折ある。侵入禁止エリアにぶつかった時のふわりと弾かれるような独特の感触。中へ入らなければいけないのに、と焦っていると背後から声をかけられた。


「そこ、一人じゃ入れないんだよ……お兄ちゃん」

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