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ありがとう。さようなら

 ノギノに馬乗りになったまま、ルキは今にも泣き出しそうなくらい顔を歪めていた。

 ここがそういうゲームだということは、ノギノとてわかっている。彼女がそういうことを好んでしていることも理解しているつもりだ。それでも、自分だけは違うと、それ以外で親しくなれたと、思っていた。少しくらいは、信頼を築けたと。

 だというのに、彼女が必死に懇願するのは、虚構の肉体関係だというのか。


「何がしたいんだ。言ってくれ! まだ礼をしてない……いや、礼なんてどうでもいい! 俺が、お前の力になりたいんだ。それは、こんなことじゃないはずだ!」


 自由になったままの左腕を上げて、ノギノはルキの右肩を掴んだ。所詮はアバターとはいえ、技術の進歩は目覚ましく、RSOの目玉でもある裸体は実に艶かしい。だがそれすらも意識から外れる程度にはノギノは必死だった。ここで抱いてしまえば、あるいは抱かれることを許容してしまえば、決定的に関係が壊れる気がした。もう二度と、彼女の信頼は得られないと直感した。


「へ……っ!?︎」


 瞬間、ルキがカアっと赤面した。ノギノは驚いて手を離す。


「え……?」

「なん……なん、で。うそ。だって」


 両手で顔を覆おうとして、ルキの手が離れる。よくわからないがこの隙にと、ノギノは上体を起こした。馬乗りになっていたルキが僅かに後ずさる。


「ルキ……?」

「う……ごめ」

「ルキ!?︎」


 驚愕したノギノの目の前で、ルキはささっと指を動かして、次の瞬間にはかき消えていた。ログアウトしたのだ。


「…………なんだったんだ」


 消える寸前、ノギノが見たのは、ルキの涙だった。これまで、色々なことがあった。泣きそうに顔を歪めていることも。けれど、泣いているところを見たのは、初めてだった。


⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎


「っ……あ、あんな。ズルい、よぉ……」


 ログアウトしたルキはポロポロと流れる涙を止められなかった。銀環を外して、ぐしぐしと乱暴に目元を擦る。嫌われてはいないとは思っていた。「幸せで、笑っていて欲しい」と言われたあの日から、想われていることは知っていた。けれどそれは、ノギノが大人だからで、詰まるところ不幸な少女への同情に過ぎないものだと思っていた。なのに。


「絶対……おかしい……!」


 あそこまで迫られておきながら、逃げることも抱くこともしないばかりか、真正面から「力になりたい」だなんて、裏があるとしか思えなかった。それこそ同性愛者なんじゃないかと思う。けれどそれでも、説明できない。嫌われると思ったのだ。嫌ってもらえるつもりで動いたのだ。このまま、未練がましく別れたくなかったから。アテが外れまくった。想定外だ。


(初めてだ……あんな……)


 純然たる好意を受けたのは。友人にはもちろん、親にさえあそこまで言ってもらえるかわからない。あの人に抱かれたなら、愛されたなら、それはどれほど心地よいのだろうと想わずにはいられなかった。けれど、あそこまで迫ってダメだったのだ。


(ノギノにとって、私は子供だ……)


 あそこまで言われて、ただの同情で憐れみだとはもはや言えなかった。けれど、そこに同情が全く含まれていないとも思えなかった。それなら、この関係に甘んじていられるならば。


(…………一緒にいたいと言ったら、また会ってくれるのかな……)


 微かに生まれた未来への希望はしかし、翌朝あっさりと潰えることを、ルキはまだ知らなかった。


⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎


 日曜日。


「ノギノ……! 良かった、もう来てた!」

「ん、ル……キ!?︎」


 早めにログインしていたノギノはルキの声に顔を上げ、次いで思い切り逸らした。考えてみれば当然のことだが、ルキは昨夜裸のままログアウトしていったのだ。つまりは、ログインしてきた今も裸であった。


「ごめん!」

「いいからまず服を着ろ!」


 しかしルキは背を向けるノギノに構わず歩み寄る。


「今日、行けなくなった」

「だから服を」

「ううん、今日だけじゃなくて。もう……来れない」

「……え? どういうことだ……?」

「……親に、ゲーム機抑えられて。今、買い物行ってる間にやってて、正直あんまり時間ない」


 ゲームを没収された、と。考えてみればルキは高校三年生だ。社会人のノギノと違って、いまだ大人の庇護下にある。そういうことも当然あるだろう。


「……そうか。わかった、後は俺一人でも大丈夫だ。ここまで、ありがとう。何も礼をできなかったのが心残りだが……」


 冷静に返答している自分を、ノギノはどこか遠く、客観視するように見ていた。


「ううん。あたしこそ、ありがとう……楽しかったよ……」


 背を向けたまま。背後に聞こえるルキの声の語尾が震えた気がした。

 何か言わなければと思うのに、咄嗟に言葉が出てこない。

 もう会えなくなった、と以前にも思ったことはあった。けれど、ノギノは心のどこかで勝手に思い込んでいた。互いにその気さえあれば会うことは造作もない、と。けれど今ここで別れるということはつまり、もう二度と会えないのだ。ルキというアバターはこのゲーム限定のものであり、彼女が再びこのゲームを起動する日が来るかも、その時に自分がやっているかもわからない。

 リアルで繋がる手段を持とう、とは、ノギノには言えなかった。

 今年二十七になろうという男が、高校生に対して連絡先の交換を持ちかける。かつてネットゲームをしていた頃であれば何とも思わなかったかもしれない。けれど、教師という立場になったノギノにとって、それはタブー以外の何物でもなかった。


「……俺も。楽しかった」


 結局、そんな言葉しか言えない。

 どこか空々しく響いた言葉。ひた、と裸足が床を踏む効果音。

 背中に柔らかいものが当たった。肩を掴まれる感触がして、耳元に吐息が当たる。


「……ありがとう。さようなら」


 正体のわからない焦燥が、ノギノの胸を焦がした。


「っ……ルキ!」


 たまらず叫んだ声と、アバター消失の効果音が重なる。

 振り返ったそこに、もう彼女はいなかった。始めから何もなかったかのように、そこにもう彼女のいた痕跡は何もない。

 何の意味もないのに、何かに突き動かされるようにフレンドリストを開いて、ノギノは茫然と手を下ろした。

 フレンドの数はゼロ。

 いつの間に切られたのだろう。

 あるいは全て嘘で、自分はブロックされただけ……と考えて、すぐにそれを打ち消す。わざわざこんな茶番を打つ意味がないし、何より彼女の言葉は真に迫っていた。


「……行かなければ、シンシアに会いに」


 口に出して確認しなければ、動き出せる気がしなかった。

 自分が何に対してこんなにもショックを受けているのか、ノギノ自身よくわからなかった。どの道メインクエストをクリアすればもう会うことはなくなっていただろう。茫漠とした寂寥感に蓋をして、ノギノは宿を出た。

 扉を閉めた背後、カランと乾いた音が響く。初めて聞いてもわかった、部屋が削除された音だ。

 借りた部屋が削除されるのはそこにアクセスした人間が全員部屋を出た時。最初にルキに教えられたことだ。ルキは中でログアウトした。部屋を出ていない。この音が鳴るということはつまり、ルキがノギノをブロックして密かに部屋を出たか、彼女のアカウントが削除されたことを意味する。


 メインクエストの終焉を飾るクエストは、防ぎ切れなかった災いを倒すことだ。何のために宝玉を集めたのか、と言いたいところだが一応それで弱体化している設定らしい。

 定期的にドロップのレア装備が更新されるらしく、攻略隊はすぐに見つかった。二つ返事で混ぜて貰え、ノギノはほとんど見ているだけで他のメンバーがボスを倒してくれた。あまりにアッサリした展開に拍子抜けする。意外だったのは、彼らの男女比がほとんど均等だったことだろう。


「……皆さん、男女関係にあるんですか?」


 戦闘終了後、試しにリーダー格の男に聞いてみると、狼そのものの見た目をした獣人はケラケラと笑った。


「そりゃあそうですよ。でないとここまで来れないでしょう。あんなふざけたクエスト、それも大したリターンもないのに攻略しようなんて人、誓いの広場目当てに決まってるんですから」

「そう、ですか……でもここのボスのレア装備目当てとか」

「ははは! それはないわ。どうせ誰かが攻略して市場に出回るんです。大した額もつかないし、装備が欲しいだけならクリアなんて目指さずにお金貯めてた方がよっぽど確実ですよ……っていうか、あなたは違うんですか? 誰と攻略したんです」

「……親切な、プレイヤーが協力してくれて……」

「ほー、親切な、ねぇ。一度しかできないってのに、随分と物好きな人もいたもんだ。このゲームに、まだそんな良心が残っていたとは……」


 ノギノは眉を顰める。ルキと出会えたことは、本当に幸運だったらしい。たしかにあのクエスト内容を考えれば途中で投げ出しても仕方ない気はする。彼女自身にそこまでする理由があったとは思えないが、かといって親切だけでそこまでするものかとも思う。

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