無力な自分を忘れたいという打算
歩きにくいから勘弁してくれと、抱きつく箇所を腰から腕に妥協して、そのまぴたりとくっついて次の階へ行くと、幸いなことに腐乱臭こそ薄らいだもののそこも強烈な有様だった。
「まるで拷問博覧会だな」
と、ノギノが呟いた通り、血に塗れた拷問器具の数々と……おそらくはそれで死んだであろう死体の数々。
「あたし……もう無理かも」
砕けそうになる腰を、ノギノの腕に縋りついてルキは辛うじて踏みとどまっている。床を見下ろして、うわぁ、と声を上げた。足の踏み場もなく血溜まりと肉塊がまるで絨毯のように広がっているのだ。先ほどから、足の下で柔らかい何かを踏み潰す嫌な感触がしている。
「……さすがに、何かの間違いと思いたくなるな……」
これを詩織がクリアしたのかと思うと、我が妹ながら正気を疑いたくなる。多少のグロテスクな演出ではびくともしないルキがこの反応なのだ。ノギノもルキの手前強がってはいたが、少し……いや、だいぶ辛いものがある。夢に出てきそうだ。
その時、キィィッと何かが鳴いた。グロッキーに俯いていたルキが反射で剣を振り抜くと、見事真っ二つにされたコウモリがぼとりと落ちる。
「敵弱過ぎだし……レベル上げた意味……」
一週間のレベリングの甲斐あって二人のレベル差はもうほとんど埋まっている。つまりは敵のレベルはどちらにとっても適度な強さであるはずなのだが、適当に振っただけのダメージで倒れるほどに弱く設定されていた。
「……俺が一人で行きたいところだが……」
「ここは二人でないと解けない仕掛けがあるから無理だね……っていうかそっちこそ臭い辛いでしょ」
「……何か、フィルタ機能みたいなのないのかこのゲームには」
「あーね。あってもいいよね。でもあれば、あたしが設定してる」
ノギノは知る由もないことだが、前回の惨劇の館の時点でルキはかなり頑張って探していた。見つからなかったが。
「……ルキ。目瞑っててもいいぞ」
「えー、それはちょっと……さすがに申し訳ないというか……」
「……むしろ俺が付き合わせてる側なんだ。気にすることないだろう」
「…………うん。そうだよね。あと頼んだ!」
声のトーンが一瞬下がった気がするが、すぐに元の高さに戻る。ノギノはちらりとルキを見下ろすが、ぎゅっと目を瞑って腕に顔を押し付ける様子からは何も窺えない。この一週間の快活で明るい笑顔は、初めて会った頃から少しも変わらない。いじめの話題に触れた時の、冷たい空気が嘘のように。
冗談めかして「任せろ」と応じる。
なるほど笑顔とは、内心を押し隠すのに実に便利なものだ。笑っているうちに楽しくなるように、それは時に自分自身さえも騙してしまう。
(こうやって、騙し続けるのか……)
そんな頭をもたげた思考を振り払い、ノギノは次の階を目指した。
笑って、冗談を言って、いかにも楽しんでいるふりをした一週間。楽しいのは嘘ではなかった。たしかにそこにはかけがえのない時間が流れていた。けれど底にある本音は、無力な自分を忘れたいという打算なのだと、本当はわかっていた。
結局ノギノには、ルキも、彩香も、救えないのだから。
「やっっっと、着いたぁ」
ようやくグロテスク極まる床から解放されたルキがペタンと座り込む。塔の最上階である。目の前には宝玉が置かれているが、これを取るとたちまち脱出ゲームが始まるから少し休憩だ。
この崩壊の塔は宝玉まではさほど苦労せずに辿り着けるが、宝玉を入手した後、崩落する塔から急いで脱出することになる。前回に引き続いてボスもいない……ということもあって、二人とも多少なり油断をしていたわけだが。
「現実なら吐いていた……」
途中目を瞑っていたルキと違い、すべてを見てしまったノギノはそれはもうぐったりとしていた。脳に直接信号を送る仮想世界というものはどうやら吐き気すら抑えてくれるらしい。
「ノギノ大丈夫? 膝枕しよっか?」
「やめろ」
余裕のなさから普段よりも五割増で突き放したような態度に、ルキは曖昧に笑って言った。
「…………あのさ、あたし……頑張ったと思うんだよね」
「あ? 急にどうした」
「ここまでメインクエスト付き合ってきたわけだしさ。そもそもSNS見つけたのだってあたしのおかげだし?」
冗談でも言うように軽い口調だが、へらへらとした笑顔はいつもより控えめだ。
「……そうだな。感謝はしている。何か、礼を寄越せという話か? 何が欲しいんだ」
「ここから無事に脱出できたらさ……」
そこで、躊躇するように言葉を止める。
「…………なんだ。できることならする」
そう促したノギノに、ルキは本気とも冗談ともつかない曖昧な笑顔と軽い口調で言った。
「あたしを、抱いてくれないかなって」
予想外の一言に、ノギノはしばし言葉に詰まった。
「……ど、どういう意味だ……?」
「またまたー、わかってるでしょ。あたし、最初に会った時、なんて言った?」
悪戯っぽく笑っているのに、瞳に宿る光だけが妙に真剣に見えた。それには気がつかないふりで目を逸らす。
「ふざけるな。そういうことならできない」
「いいじゃん。あたし一週間えっちしてないんだよ? 最後のワガママと思ってさ。ね、お願い」
最後は、はっきりと。真剣な調子で。
「……ルキ、俺は」
ノギノが言いかけた時だった。突然地響きが塔を襲った。ガタガタと塔が揺れ、天井から小さな瓦礫のカケラが落ちてくる。どう考えても、崩壊の予兆だ。ルキが跳ねるように立ち上がった。。
「時間経過もトリガーだったんだ! ノギノ!」
「あぁ、急ごう!」
ノギノがすかさず手に取った宝玉が、手の中でシャランと取得音を残して消える。
遂に本格的に崩落を開始した最上階から階段を駆け下りる。時折大きな音を立てて壁が崩れるが、そのおかげか腐乱臭は霧散し匂いはほとんど気にならない。倒れていた死体がゾンビの如く立ち上がるのを先を走るルキが片端から斬って捨てる。
「ひっ、やっ! グロ過ぎ……っ!」
体が真っ二つになって立ち上がれずに床でのたうつゾンビを飛び越える。
「まずい、崩落が早すぎる……!」
今しがたノギノの足があった床が音を立てて崩れ落ちる。およそ五十階建ての塔である。万が一にも落ちればひとたまりもない。HPを全損した場合は、中間地点である最上階からやり直しだ。
「へっ……?」
不意に、ルキが間の抜けた声を上げた。足を踏み出した階段が、ちょうど音を立てて崩れ落ちたのだ。支えを失った体が途端に仮想の引力に引かれる。
「ルキ!」
これほどの高所から落下する恐怖、もとい絶望感自体は現実と大差ない。反射的に縋るものを求めて伸びたルキの指先が空を切る。ルキの顔色が恐怖に青ざめる様が、スローモーションのように見えた。
「っ……」
間一髪、ノギノがルキの手首を掴むことに成功した。
「今」
「っ危ない!」
引き上げる、と言う前にルキが鋭く叫んだ。だが、警告はあまりに遅すぎた。無防備になっていたノギノをゾンビが放っておくはずもなく、背後から殺到してその体を押し退ける。塔の崩落も力を貸し、抵抗虚しくノギノの体もまた宙に浮く。
「「あ」」
と、思わず呟いたのは同時。落下の恐怖の前に、反射的に二人が目の前の互いを縋ったのは当然の帰結であった。
「っは……はぁ……これは……来るな……」
精神的に。
「本当に死ぬかと思った。走馬灯流れた」
もといた塔の最上階である。地面に激突する直前で視界が暗転。抱き合った状態のままリスポーンした二人は、慌てて腕を解いて離れる。
「……悪い。油断した」
「ううん。あたしこそ……っていうかもう最後なんだからほっといて逃げて良かったのに」
「さすがにそこまで酷い人間じゃない……だいたい。宝玉を集めた後もまだ続くだろう」
「まぁまだラストのボス戦があるけど……宝玉集めと違って何度でもできるやつだから、手伝ってくれる人くらいいるよ」
これ以上話しても意味がないと見て、ノギノは話題を変える。
「……ところで、時間もないだろうから先に話しておくが、あのゾンビどもの相手を真面目にしていたら厳しいと思う」
「いや、あの量は倒さなきゃやられるでしょ」
「最後に襲われてわかったが、ダメージは大したことない。おそらく見た目に反して弱いはずだ。俺の方が防御は高い。先行して蹴散らそう」
「…………ん。わかった」
妙な間にノギノが怪訝そうな顔をする。
「どうかしたか?」
「ううん。なんでもない。さ、行こ。先頭は任せたからね」
かくして、ノギノがゾンビに体当たりをかまして、空いた隙間にルキがすかさず体を捩じ込むようにして挑んだ二回目。それでも突然床が抜けたり壁が崩れたりといった初見殺しはあり、思ったよりもギリギリではあったが、二人は辛くも脱出に成功した。
「……っはぁ。終わった……ルキ」
背後に塔が崩落する音を聞きながら、ノギノが振り返る。
「終わったね……。なに?」
同じように脱出に成功したルキが見返す。
「いや。いるか確認しただけだ」
「あはは、ありがと」
「…………」
「…………」
微妙な間ができた。
「…………ルキ、どうかしたのか?」
「え……? どうして?」
「さっきから様子が妙だぞ」
「そうかな。欲求不満かも! ノギノが抱いてくれたら、調子戻るかもね」
おどけるルキにノギノは鼻を鳴らして答える。
「おちょくるな。まぁ、何でもないならいい。今日は割と早く終わったな」
「ノギノの作戦が刺さったからね」
「…………クエスト報告だけして、大ボスは明日にするか」
「うん。そだね」




