仄かにいい匂いがする女の子に胸を押し付けられている
ルキの体が強張り、胸元をキュッと掴まれたことでふとノギノは体勢を意識してしまった。
辛うじて二人が入れる程度の狭い空間である。密着した体からは正確に再現された鼓動がトクトクと伝わり、これもまた仄かに再現された体臭もする。体の臭いなど再現しているVRゲームは世界広しといえどRSOくらいのものだろう。アバターと生身の体を比べてしまうと触れた時の違和感は拭えないが、服越しだとそれも薄い。
つまるところ、仄かにいい匂いがする女の子に胸を押し付けられているような状況であった。知らず、ノギノの鼓動も恐怖だけでなく早まる。
(……いや、落ち着け。相手は九歳も下の女子高生だぞ)
心頭滅却、とノギノは意識して思考を逸らす。ただのアバターだ。ただのアバター……なのだが。
怪物の足音がすぐ近くまで接近する。速度が遅いのは二人を見失ったことで追跡モードから巡回モードに切り替わったためだ。おそらくは今、扉のすぐ前を横切ろうとしている。時折足音が止まるのは背後を振り返っているからと思われた。
ルキが一層身を縮こまらせてノギノに密着する。そんなに怖いのか、と思いながらもそっと肩に手を添えたのはほとんど無意識でのことだった。ルキもまた、肩を抱く腕に身を預けるように寄り添ったのはまったくの無意識だった。
随分と長く感じる十数秒の後、怪物の足音が遠ざかり、ほーっと息をついたルキがノギノを振り返る。
「もう、行った……かな?」
「あ、ああ。そう、だな……」
肩を支えてしまった後で離すタイミングを逃した腕と、相変わらず密着している薄い胸と、ルキが身動きしたことで仄かに鼻腔をくすぐった香りに、ノギノは平静からは程遠い心境であらぬ方向に視線を逸らしていた。
それを見てようやく自分の体勢を意識したルキが、ポンッと音がしそうな勢いで真っ赤になった。
「っ……ひゃ、あ、あああああお、あの、ごめ……っ」
「あ、いや……」
慌てて扉を押し開けようとするが、扉はぴくりとも動かない。
「あ、あれ!?︎ 開かない!?︎」
「違う、内側に」
「あ、ああ! そっか!」
扉を引くために奥へ下がったルキが一層ノギノと密着する。
「っ……」
入る時にも同じ状況だったはずだが、肩を支えて、服に縋っている分……なんというか、抱きとめているような体勢になっていた。
「ご、ごめんっ!」
ようやくバコッと開いた扉の隙間から、転がるようにルキが外に出る。遅れてノギノも外へ出て、周囲を確認。ひとまずミノタウロスの姿がないことに安堵して、転がったままへたり込んでいたルキに片手を伸ばす。
「大丈夫か?」
「だ、だいじょぶ……」
あれだけ堂々と誘ってきていたルキが柄にもなく照れているのを見て、ノギノまで若干恥ずかしくなってくる。俯いて視界に入っていないのか、伸ばしたままの腕が行き場を失って宙を彷徨う。
「……ルキ」
「へっ、え、ああ、うん! ごめん、行こう!」
手は取らずに一人で立ち上がったルキは、必死で熱くなった顔を冷まそうとパタパタと顔を仰ぐ。無論VRの世界では手を振ったからといって風が発生するようなことはないのだが。
⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
(や、やば……恥ずかしい……どうしよう……)
今度はノギノが先頭で、道を歩きながらもルキは心ここに在らずだった。密着していた時に感じた、自分以外の鼓動の音だとか、仄かにしたいい匂いだとか、思い出して意識してしまうとどうにもそわそわと落ち着かないのだ。もちろんここでの経験は豊富なルキである。男性アバターの大きな手や胸板にも、言ってはなんだが慣れている。けれど。
「ん、まずいな」
その時、前方でノギノが突然立ち止まった。
「え、どうしたの?」
またあの怪物が出たのか、とルキは思わずノギノの背後にぴたりとくっつく。鮮血だとか、露出だとかには耐性があるルキだが、ホラーは苦手である。特に突然驚かせる系と追いかけられるのは怖い。見た目についても奇形だけは無理だ。目が多いとか、腕が多い、足が少ない、といったイラストは有名な妖怪のものでも見たくない。それをこのゲームはあろうことかグロさとリアルさ全開でモデリングしている。はっきり言って、あの怪物の姿は二度と拝みたくなかった。アレに襲われるとか考えただけで鳥肌が止まらない。
「今、そこを横切ったのが見えた。あそこにいるとなると……移動パターンが……」
「ど、どうなる? 大丈夫?」
「…………ルキ」
「えっ、なに?」
「……そんなに怖いか?」
「怖いよ! てか、怖くないの!?︎ いやそれより、早く。どうするの。怪物来ちゃうよ!」
「あぁ、けどここなら角から出てきたのに気付いてからでも逃げ切れるはず」
「もう出てきた時点でダメだよ!?︎」
「……わかった。本当はスルーするつもりだったが、一度戻ろう。そこの左に安全地帯があったはずだ」
来た道を戻るように歩き出したノギノの後をルキが恐々と追う。
幸いなことに道中で怪物に出くわすことのないまま、安全地帯に辿り着いた。救済措置のような場所で、ここには怪物は侵入できない。安心してログアウトするための場所と思われた。小部屋のように唐突に開けたここには、小さなベンチが一つあるだけで他には何もない。
「……っていうかノギノ、マップ覚えてるの?」
ここまで迷いなく道案内してくれたノギノにルキが尊敬の眼差しを向ける。
「ああ、だいたいは。俺も追いかけられるのは嫌いだからな。それよりルキ」
「ん?」
「今日はもう落ちてていいぞ」
「え……? なんで……?」
「ここにはボスもいないし、一人でも問題ない。宝玉を取った帰りに君を回収して出ればいい。おそらく宝玉の場所にたどり着くまでに半日かかるからな……出るのは明日にすれば」
「……で、でも、途中で襲われちゃったら……?」
「そしたらどの道二人とも最初からなんだ。君にリタイアしてもらって、また一緒に入ればいい」
「そ、そっか……」
ノギノの言っていることはもっともだった。ルキだって先に進むのは怖い。また隠れることになった時密着するのも気が引ける。けれども、なんとなくモヤモヤした。不安とか、寂しいとか、そういう類のモヤモヤとした感情はしかし、どうしてなのかルキ自身にもよくわからない。
「どうする? 早くしないとミノタウロスが来るぞ」
「えっ、で、でもここ安全エリアで」
「そうだが姿は見えるからな。それがどっちから来るかで次のルートを決める」
「………………ごめん。落ちる」
「そうか、じゃあ明日また同じ時間に」
「……うん」
⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
目の前でルキがログアウトするのを確認して、ノギノはふーっと息を吐く。実のところ、落ちてくれてホッとしていた。ルキは気にしていなかったが、ここは怪物だけでなくステージ自体も大分気色が悪い。道のあちこちによくわからないシミや鮮血の跡が飛び、時折腐乱死体のようなものも落ちていた。なのにそれらに怯える様子はなく、作り物じみた怪物にああもはっきりと恐怖するのはどうにも異常に見える。
何より、また隠れることになった時に密着してしまったらと思うと、ノギノとしてはその方が怖かった。別に理性が飛ぶだとかではないが、高校生を恋愛対象として見てしまいそうで怖いのだ。
「はぁ……吊り橋効果とは、よく言ったものだ」
隠し部屋を狭く作っているのは、密着を狙っているのだろう。怪物に追われるシチュエーションといい、なるほど男女ペアで遊ぶアトラクションとしては恋愛向きと言えるかとしれない。それにしては、少しばかりグロ描写が過ぎる気もするが。