生身の人の目は、時に伝えたくないことまでも相手に伝える
「彩香さん。佐野さんが、嘘をついていると言いたいの?」
「……まぁ、はい」
斉藤先生の言い回しに、秀一は不安を覚えた。けれど、斉藤先生の方がいくらか先輩である。口を挟むのを躊躇っていると、続けて斎藤先生の放った言葉に絶句した。
「誰にそう言えって言われたの?」
「…………え」
「彩香さん、部活にも入っていないでしょう。なのにさっさと帰って、どこへ行っているの?」
「い、家に……帰って……」
「夜にね、あなたを駅で見かけたという子がいるのよ」
「そう、ですか」
彩香は目に見えて狼狽していた。斎藤先生の言い方はハナから佐野の言い分を信じているものだ。あるいは、担任だからこそなのか。秀一は佐野のことも彩香のこともよく知らない。けれど斎藤先生からすれば、彩香こそ問題児なのかもしれなかった。
「夜遅くにどうして駅にいたの?」
「……知りません。行ってないので」
「……そう。言いたくないのね。でも、他人を貶めろと唆すような人との付き合いは考えた方がいいと思うわ。何かあってからでは遅いのよ。何かあるなら、いつでも相談に乗るから」
「…………はい」
秀一は判断つけかねていた。担任がここまで確信に満ちた言動を取るのなら、彩香は案外本当に不良生徒なのかもわからない。項垂れる彩香の様子は、落胆しているようにも反省しているようにも見えた。何より。
(どうして急に、話す気に……?)
「……斎藤先生。どうして東雲が嘘をついていると……?」
そう尋ねたのは彩香を返してからだった。生徒の前で教員が言い争いなどできないから、あの場で尋ねるのは憚られたのだ。
「佐野さんが嘘をついているようには見えませんでしたから」
「……そうですか」
それだけですか、とは言えなかった。それを言うのならば秀一とて彩香が嘘をついているようには見えない。結局のところはどちらも主観でしかないのだ。あの場で彩香が言っていれば何か違ったかもしれないが、結果として彼女が意見を翻したかのように映ったことは否めない。
同席の礼を言う斎藤先生の相手もそこそこに、秀一は職員室を出た。
焦燥に駆られるように足早に廊下を歩く。向かう先は、彩香たち三組の教室だ。彩香の言い分の方が正しかった場合、アレでは次に何かあっても言い出さないだろう。そうなれば、最悪の展開と言える。
大半の生徒が部活動に行ってしまった教室棟はガランとして人気がない。五月も半ばを過ぎ、長くなった日が無人の教室を照らし出している。
その中の一室で、彩香は席に座って項垂れていた。机の上に鞄が置いてあるのを見るに、もう帰るところではあるようだが、動く気力がないのか項垂れたまま動く様子はない。
秀一が入った扉は彩香からだと死角になる。まだ秀一に気づいていない様子の彩香の背後に歩み寄って、声をかけた。
「東雲」
ビクゥッと跳ねるように振り返った彩香の手元には、携帯端末。どうやら項垂れていたわけではなく、これを弄っていたらしい。慌てて画面を隠すが遅い。
「……今日だけだぞ」
見逃すのは、という意味で言う。持ち込みは問題ないが、一応校舎内での使用は原則禁止だ。とはいえ、それは授業中等を考えての規則であり、放課後や休み時間にはこそこそいじる生徒が後を立たないし、教師もまた暗黙的に気づかないふりをしている。
「すみません」
曖昧に笑う。それを痛々しく感じてしまうのは、秀一が彩香の方が正しいと思っているからだろうか。しかし、間違いないと断言できるほどの確信もまた持てない。そこに自分の主観や思い込みが一切入っていないとは言えない。一応の決着を見たこの件について斎藤先生にさらに訴えることは憚られた。
事実かどうかの問答をしたところで意味がない。曖昧さと迷いを孕んだ言葉では困惑させるだけだ。大人とは、特に教師というものは、いかにも間違えませんという顔で堂々していなければならない。例え、未だ間違いも失敗もするただの人であったとしても。
何を、どうして、伝えればいいのか。迷った末に、秀一は視線を合わせるように屈んだ。彩香と視線が交錯する。目には、思っている以上に情報が宿るものだ。アバターのガラス細工のような綺麗な瞳ではわからない。生身の人の目は、時に伝えたくないことまでも相手に伝える。
「……また、何かあれば、俺に言ってくれるか?」
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突然教室まで来た和泉先生の言葉に、彩香を目を丸くした。「担任の先生に言いなさい」ならわかる。けれど、和泉先生はこう言ったのだ。『俺に』言ってくれ、と。
クラス担任ではおろか、教科担任ですらない。生活指導のような特別な役職にあるわけでもない。ただの数学教師が。「俺でもいい」でもなく、「俺に」と。それは、つまり。
「…………わかりました」
彩香は見ていられずに目を逸らして答えた。何を尋ねる気もなかった。
おそらく、和泉先生もそれを見越していたのだと思われた。
彩香がすぐに逸らしてしまったから、ほんの一瞬だけ合った瞳は、どこか困ったような、途方に暮れたような、哀しげな目をしていた。
(和泉先生でも、あんな目……するんだ)
「ありがとう」
和泉先生はそう言って立ち上がると、「気をつけて帰れよ」と言い添えてさっさと教室を出て行った。
いつも自信に満ちていて、堂々としていて、女子生徒にはモテモテで、同じ教職員からの評価も高い。爽やかでイケメンな、絵に描いたような教師である和泉先生が、彩香は正直言って苦手だった。見ているだけで、自分が責められているような気分になるのだ。あの堂々とした視線に見られると、叱られているわけでもないのに体が萎縮する。出来損ないの自分が惨めに思えてくる。
けれど、一瞬見えたあの瞳に、いつもの堂々とした自信なんてなかった。
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教室を出た秀一は最寄りの階段へ向かった。階段を上った先は屋上だ。とはいえ、鍵がかかっているから入れない。だがそれ故に、滅多に人が来ない場所でもある。適当なところまで上ったところで、壁に背を預けて自分の携帯端末を取り出した。
手早く操作してSNSを開く。アカウントこそ作ったものの今のところシンシアの投稿をたまに確認することにしか使っていない。
一瞬だけ見えた彩香の端末。映っていたのはこのSNSのホーム画面だった。一瞬では投稿内容など見られるはずもなかったが、アイコンとヘッダが見えたのだ。
検索窓に『ルキ』と打ち込んで、出てきたユーザーをスクロールする。目当てのユーザーはすぐに見つかった。
(どうして……東雲がルキのアカウントを……?)
おそらくは裸で、胸元から上を映したアイコンは、見慣れたルキのアバターだ。フォロワー数は百人と少し。元々SNSで探すことを提案したのはルキだ。彼女のアカウントが存在することは考えてみれば当然のことだった。
(……知り合い……。いや、たまたま……か?)
だが、偶然以外考えられない。
直近の投稿は今しがた。
『最悪』
(何かあったのか……)
無性に気が急いて、秀一は端末をしまうと足早にその場を後にした。
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帰宅した彩香は早々にシャワーを浴びて、ベッドに体を投げ出した。埃が立つのも構わず、ぼすんと枕に顔を埋める。
「…………馬鹿みたい」
恐れる必要など最初からなかったのだ。いじめられている可能性を考えられない程度には、斎藤先生は彩香に無頓着だった。いじめられているようには見えていないということだとしたらそれは喜ばしいことで、しかし同時に、少しも気がつかれていないことが寂しくもあった。
隠していた事実を誰も知らない。そんな当たり前の事実に、ショックを受けている自分が腹立たしい。根も葉もない噂を鵜呑みにして、味方のような顔をして切り捨てられたことがもどかしい。何より、ノギノの気持ちが、和泉先生の目が、彩香の心をざわつかせるのだ。
(……行きたくない)
いつもの明るく元気なルキになれる気がしない。
ルキをレベリングに誘ってきたノギノの意図は、なんとなくわかっていた。わかっていて乗ったのは、今しばらくこの関係を続けていたいと思ったからだ。ノギノが一緒にいてくれるのならば、別にヤれなくても構わないと思ったのもある。
とはいえそれは、何もなければの話。
(やっぱ、ヤりたい)
ストレスが、溜まっていた。