いじめなんてものは、フィクションでなければいけない
教室にいたのは僅かに六人。うち二人は我関せずとばかりに、後ろの扉から出ていく。乱れた机の間、座り込んだ一人の女子生徒とそれを囲むように三人の女子生徒が立っていた。座り込んでいる子は彩香だ。立っている三人のうち一人は佐野だ。机の上には割れた花瓶、溢れ落ちた水が彩香の髪を濡らしていた。地味な眼鏡がずり落ちてしまっている。
水を打ったような静寂が教室を包んだ。居た堪れない様子で二人の女子生徒が視線を佐野へ向ける。
「お前らがやったのか?」
秀一の厳しい声音に、佐野が咄嗟に笑みを浮かべた。
「あ、違うんです先生。私が彩香ちゃんにぶつかっちゃって、それで」
「……机に、ぶつかっちゃったんだよね」
「そうそう。そこにたまたま花瓶があって」
他の二人も同調するように口を揃える。
「彩香ちゃん。大丈夫?」
佐野が彩香の前に屈んだ。彩香がコクコクと頷いて立ち上がる。振り向いた瞳は、恐れと警戒に満ちていた。割れた花瓶が掠ったのか頬が切れている。
「……なら、ガンガン響いてた音は何だったんだ」
「それは……すみません。なんか、三人で追いかけっこみたいになっちゃって……ね?」
他の二人がコクコクと頷く。
「うん……ごめんなさい」
「ちょっと、夢中になってて……」
「東雲、そうなのか?」
秀一としては否定されることを期待して聞いたのだが、自分に問われると思っていなかったのか、一瞬怯んでから彩香は居心地悪そうに頷く。意外の念を顔に出さないように気をつけて、ため息を吐いた。
「…………このことは斎藤先生に報告しておく。東雲、保健室行くぞ。お前らも、花瓶はいいからもう帰れ」
「はーい」
佐野がへらっと笑って答えて、鞄を取り上げる。他の二人も追随するのを確かめて踵を返しかけた秀一は、彩香が動こうとしないことに気がついて足を止めた。
「東雲? 行くぞ」
言ってる間にも佐野たちは教室を出て行き二人きりだ。
「どうして……保健室に行くんですか」
呟くように尋ねる声は硬く強張っていた。
「……頬、切ってるだろ。それに、髪も濡れてる。拭かないと風邪引くぞ。タオル持ってるのか?」
彩香は言われて初めて気がついたのか、パッと頬に手を当てて、傷口に指が当たったのか僅かに顔を顰めた。
「……大丈夫です。帰ります。家、近いので」
「東雲、本当に……走っててぶつかっただけなのか?」
「…………」
黙り込んだ彩香の顔色が悪い。
「違うならそう言え」
「……違ったら、どうなんですか」
真っ青になった唇を戦慄かせながら、なおも硬い口調で問う。
「どう、って」
その質問の意図が汲み切れず言い淀んだ。どうもこうもない。それがいじめならば介入しなければならない。佐野たちを諌め、二度とこんなことが起こらないように対策する必要がある。けれどそれを言葉にして説明する前に、彩香が言葉を継いだ。
「……もう、いいですよね。失礼します」
「……あ、おい。東雲!」
言うが早いか彩香は踵を返して鞄を掴むと、掴んだ鞄をほとんど引きずるようにして教室を出て行った。呼び止めた声は聞こえなかったわけではないだろうに、無視して。
残された秀一は一瞬後を追うか迷って、結局追わずに割れた花瓶の破片に歩み寄った。大きめの破片を拾い集める。
彩香の反応からして、何らかの悪意が働いていたことは間違いないように思えた。ストラップの紐を切ったのも彼らだとしたら、日常的に加害されているということだ。だが。
(だとしたら……なぜそう言わない?)
大人が信用できないのか。報復を恐れているのか。言い出せない、ということならわかる。けれど、あれではまるで庇っているようだ。被害者が加害者を庇う……などということがあり得るだろうか。
(これでは……介入のしようが……)
眉を寄せる。現行犯ならまだしも、状況的にはあの言い訳も成り立ってしまうのだ。彩香が否定している以上、単なる秀一の妄想の域を出ない。懸念を話したところで、悪戯に刺激することになりかねない。
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彩香はほとんど飛び降りるように階段を駆け降りて、昇降口で靴を履き替えると、早足で帰路についていた。
どうしよう。和泉先生はどうするだろうか。担任に話すだろうか。これでいじめから解放される、なんて考えは驚くべきことに一切湧いていなかった。ただひたすらに焦る。「お前らがやったのか」と和泉先生が言ったとき、背筋が凍りついた。お前は無様な被害者だと宣告された気がした。
(嫌だ。目立ちたくない。憐れまれたくない……!)
何をされても、隠し通さなければいけない。騒がれたくない。いじめなんてものは、フィクションでなければいけないのだ。どこか遠い世界の出来事であるはずなのだ。そんな非日常のど真ん中に彩香が……自分がいるだなんて、絶対にだめなのだ。
(違う……これは、いじめじゃない……!)
半ば自分に言い聞かせるような思考が、その実『いじめ』の事実を認めるものだと、彩香にはまだ認め難かった。
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翌日。
「ノギノ、お待たせ!」
約束した土曜の午後一時。今日もまた時間ぴったりにログインして来たルキが溌剌とした様子で挨拶する。猫耳が上機嫌にひょこひょこ動き、尻尾もピンと立ち上がっていた。
「ああ……。いや、俺も今きたところだ。もう行けるのか?」
「うん! 行こう」
言ってルキは目の前にぽっかりと穴を開ける暗い洞穴を見上げた。入り口こそ広いが、奥でいく筋にも分かれ、先細りに入り組んだダンジョンになる……というのが今度こそしっかりと攻略サイトで調べた情報だ。
「今日中に終わるといいけどな……」
ノギノが行く前からいささかうんざりした顔をしているのは、長丁場を予想してのことだけではない。
「あたしは多少長引いても構わないけどね……!」
ルキが目を爛々と輝かせてさながらハンターのようなのは、大量に手に入るであろうトレジャーと経験値を予想してのことだけではないだろう。
蠱惑の洞穴。ノギノが嫌な予感を覚えた通り、それは洞穴に足を踏み入れて間も無く脇道からワラワラと溢れてきた。
「……はぁ。任せた」
小さく嘆息したノギノがツイと視線を逸らす。
「よっし、任せて! てか、ノギノ本当に良いの? 勿体無いよ!?」
対照的にルキはやる気満々の様子で剣を振り上げて突撃していく。
現れたのは、魅惑の古城とは対照的に、裸の女性だ。だが今度はゾンビではない。下半身が蛇……いわゆるラミアーとかエキドナと呼ばれる類のモンスターである。蛇の尾のおかげで陰部こそ見えないが、胸元は丸見えだ。
早速一番近くにいた一体を袈裟斬りにしたのを皮切りに、ルキは返り血を浴びながら大立ち回りを繰り広げる。どうやら魅惑の古城でだいぶレベルが上がったらしい。またしても全ポイントを筋力値に入れたのか、と呆れ半分に眺めながらノギノも血の海と化した洞穴を歩いていく。
これだけでもなかなかにショッキングな光景だが、それ以上にルキの精神が心配だった。男の裸や女の裸のそれに、大興奮で剣を振り上げる女子高生。もちろんこれはゲームでしかない。とはいえ、だからと言ってこれだけ常軌を逸した様子を見てしまうと……。
「……最近の子は、こうなのか……?」
ノギノが一人首を傾げていることなどつゆ知らず、ルキは一通りを狩り尽くしてひと息入れて、振り返った。
「ふぅ……じゃ、どこから行こうか」
先程までの鬼気迫る様子こそ消えているものの、返り血に塗れて笑う姿はなかなかにシュールだ。