9.底辺配信者④
その問いに、電話の向こうからあどけなくも、少し謎めいた声が返ってきた。
「そう、私はSOARAだよ?」
あおいは息を飲んだ。「SOARA」──彼がDMで話していたリスナーの名前だ。しかし、声の主が誰なのか、その正体が頭の中で結びついてしまう。言葉の端々に聞こえる微妙なトーン、耳に残る響き、それは確かにあの伝説の配信者、SO∀RAに他ならない。
「いや、じゃなくて!あなたはSO∀RAさんですよね?10年前に引退した、あの配信者のSO∀RAさん…」
少し沈黙が続き、あおいは自分の言葉に確信を込めてもう一度問いかけた。電話の向こうから聞こえたのは、小さくくつろぐような笑い声だった。
「さぁ?知らないなぁ。でも、もし僕が本当にそのSO∀RAだったとしたら、君はどうする?」
その質問に、あおいは返す言葉が見つからなかった。何年も憧れ続けた存在が、今目の前にいるかもしれない──その考えに、手が震えた。そしてようやく、彼は思いを口にした。
「どうするって…僕はずっと、あなたみたいな配信者になりたいと思って…」
言葉が詰まり、うまく言葉が続かない。長年憧れた配信者を、初めは見下すような感覚さえ持って話しかけていたことが、今さらながらに恥ずかしくなって、頬が熱くなるのを感じた。そんなあおいの様子を見透かすように、SOARAは再び話し出した。
「そっか。君は私のことをそんな風に見てたんだね」
スマホ越しに響くSOARAの声に、あおいは思わず聞き入っていた。つい先ほどまで、「上から目線で指示ばかりしてくるリスナー」という印象しかなかったが、その声は予想に反してとても優しく、心の奥にじんわりと染み込んでくるものがあった。
「SOR∀君、君は本当に頑張っていると思うよ。配信を続けること自体がどれだけ大変なことか、僕はよくわかるから。毎日少ない視聴者の前で声を張って、内容を考えて…簡単なことじゃないよ」
その言葉に、あおいの胸の奥が熱くなった。何度も心が折れかけ、辞めようとすら思ったこともあった。誰にも理解されない孤独の中で、一人で必死に自分の声を届けようと努力を続けてきた。そのことを誰かが認めてくれるだけで、心の中の苦しさがふっと軽くなった気がした。
「君はね、声がすごくいいんだよ。その深さと響きは、画面越しでも十分に伝わってくるし、何より、人を包み込むような温かさがある。これは、他の配信者にはない強みだと思う」
あおいは驚いた。これまで、自分の声が「いい」と言われることがあまりなかったからだ。それが、まさか自分の「強み」だとまで言われるとは思ってもいなかった。日々、SO∀RAのような配信者を目指してボイストレーニングを続けてきたものの、いつも自分の声に自信を持てなかったあおいにとって、その言葉は特別な響きを持っていた。
「声ってね、ただ大きければいいわけじゃないんだ。君の声には、響きに重みがあるから、それだけで人の心を動かせると思う」
あおいはその言葉に、知らず知らずのうちに息を止めていた。SOARAの言葉はただのリップサービスや慰めではなく、本当に自分のことを見てくれているという実感が湧き上がってきた。自分の声に自信を持っていいのかもしれないと思うと、胸の奥がほんの少し温かくなるのを感じた。
「SOR∀君は、言葉の選び方もすごく丁寧で素敵だと思うよ。きっと、君の配信を聞いている人たちは、その気持ちに気づいてくれてるんじゃないかな」
「気づいてくれてるんじゃないかな」というその言葉が、あおいの心に深く染み込んだ。視聴者が少ないことで、ずっと自分の努力が誰にも届いていないように感じていたが、もしかしたら、自分の気持ちをちゃんと受け取ってくれる人がいるのかもしれないという思いが湧いてきた。
「あと、君の表現力はね、もっともっと伸びると思う。毎日続けることで、声にどんどん個性が出てくるものだから。だから、君のやり方でいいから、これからも配信を続けてほしいな」
SOARAの言葉は、不思議なほど落ち着いていて、あおいの中の不安や迷いを包み込んでくれるようだった。今まで自分のやってきたことが無駄じゃないのかと何度も疑ったが、こうして誰かが自分の努力を見てくれていると感じられるだけで、少しだけ未来に光が差し込むように感じた。
「声を活かさないのは本当にもったいないよ」
その一言に、あおいは胸がじんと熱くなった。「もったいない」という言葉は、今までも彼女のDMで何度も目にしてきたが、こうして直接言われると、言葉の重みがまるで違った。そこには心からの共感と、自分を応援してくれる気持ちが込められているようで、あおいはただ無言で耳を傾け続けた。
思えば、SOARAが自分に向けてくれる言葉は、いつも気になることが多かった。上から目線だと感じることもあったし、毎回のようにアドバイスをしてくるのが鬱陶しいと思うこともあった。でも、今こうして声を通してその言葉を聞くと、それらがすべて「応援」や「励まし」の気持ちから来ていることが伝わってきた。むしろ彼女は、自分のことを心から支えたいと思ってくれていたのかもしれない。
あおいは、しばらくの間言葉もなく電話の向こうの声に耳を傾けていた。先ほどまで感じていた苛立ちや違和感は、すっかり消えていた。それどころか、SOARAの言葉を聞いているうちに、自分でも気づかなかった魅力や可能性に目を向けられるような気がしてきた。
「そういう君の配信スタイル、私はすごく好きだよ。これからも応援してる」
SOARAの最後の一言が、あおいの心をふっと温かくした。声が、あおいにとってどれだけ力を持っているのか、どれだけの可能性を秘めているのかを教えてくれた彼女の言葉が、彼の中に自信を宿し始めた。
「あの…SOARAさん、こんなに褒めてもらったの初めてで、ちょっと照れますね…」
そうつぶやいたあおいの声は、どこかしら嬉しそうで、今までにない安堵の色がにじんでいた。
「ねぇ、あおい君。君が本当に配信者として成長したいなら…このままつぶれていくくらいなら、私の言う通りに配信してみないか?」
ふいに、SOARAが声を潜めるようにして言った。その響きにあおいは思わず息をのんだ。先ほどまでの穏やかな言葉とは違う、どこか挑発的で確信に満ちた声。頭の中で響き渡るその一言が、静かな部屋の空気を一変させた。
「君が憧れたSO∀RAに少しでも近づきたいと思うなら、きっと私のアドバイスが役に立つはずだよ」
あおいの心臓が激しく脈打ち、反論しようとしたが言葉が出てこなかった。確かに、ここまで独りで必死に配信を続けてきたが、成果はまるで出ず、むしろ自分の無力さに押しつぶされそうになっていた。そんな自分の状況を考えれば、もしかしたらSOARAの言うことに従ってみる価値があるかもしれない──そんな思いが湧いてきた。
SOARAは、まるで誘い込むように、優雅な口調で続ける。
「ようはラジコンってやつさ。君はただ私の言うとおりに動けばいい。それで君がどこまで行けるか、試してみようよ」
「…ラジコン、ですか」
その言葉に、あおいは戸惑いを隠せなかったが、同時に妙な期待も感じていた。誰かの指示通りに動く「ラジコン」という提案には不安があったが、それと同時に、もし目の前のSOARAが本当にあの憧れのSO∀RAだとしたら…その指示を無視することはできない。彼が言うとおりに進めば、ずっと壁に阻まれていた自分の状況を打破できるかもしれない──そんな期待が胸の奥で小さく芽生えた。
SOARAの声が再び、あおいの思いを引き込むように続ける。
「もちろん、自分の道を進むことも大切だよ。でも、一度誰かの指導に従うのも悪くないかもしれない。君が心から憧れているんだろう?」
その問いかけがあおいの胸に響く。心から望んでいたもの、それはSO∀RAのような存在になり、視聴者を魅了し、人々に感動を届けることだった。しかし、どれだけ努力しても彼のように振る舞えず、ただもがき続けるばかりの自分。そんな自分に嫌気が差しながらも、諦めきれなかった夢。その夢に、SOARAの言葉が新たな光を当ててくれるように感じた。
電話の向こうで、SOARAはふっと笑う。その笑い声は冷静でいて、どこか満足げでもあり、あおいの胸に強く残った。胸の内で迷っていた気持ちが、彼の一言一言で少しずつ形を変えていくのを感じた。もしSOARAのアドバイスを信じてみれば、今の自分を変えられるかもしれない。SOARAの力を借りて進むことで、新しい道が見えてくるかもしれない。
「…わかりました。僕、あなたの…ラジコンになります」
あおいの言葉が静かに部屋に響き、決意が固まった瞬間だった。
電話の向こうで、SOARAが満足そうに低く笑う声が聞こえた。それはあおいの心を捉え、ますます彼の期待と緊張を煽るような響きがあった。その声には、何かしらの力と自信が満ちていて、自然とあおいの不安や迷いをかき消していくかのようだった。
「それでいい。じゃあ、まずは次の配信で…」