17.見失う道④
あおいは、公園のベンチで隣に座る女性をぼんやりと見つめていた。目の前の彼女が、かつて画面越しに熱中して追いかけていた「SO∀RA」その人であることはもう疑う余地がなかった。配信の画面で見ていた白髪、独特の雰囲気、そして何よりもその声。あの頃の彼は決して手が届かないほど遠い存在だったのに、今こうして、酔って公園のベンチで一緒に座っているのが夢のようだった。
彼の視線を感じたのか、彼女のまつげがふるふると震え、ゆっくりとまぶたが開いていった。少しぼんやりとした目であおいを見つめ、まだ酔いが残っているのか何度か瞬きをしたあと、意識が戻ったように彼の顔をじっと見た。その瞳に光が戻り、そして次の瞬間、大きく目を見開いた。
「ん…?えっ?えっ…え~~~!?!?」
驚きの叫びとともに、彼女が勢いよく起き上がり、あおいも思わず身を引こうとしたが、タイミングが悪く彼女の頭があおいのアゴにぶつかった。
「痛っ!!」
思わずアゴを押さえて身をかがめるあおい。彼女も「あ、ご、ごめん…」と頭を押さえながら、少し気まずそうに彼を見つめている。彼女が自分に頭を下げる様子を見て、確信がさらに強まった。
「あの…SOARAさんですか?もしくは、SO∀RA…?」
そう尋ねるあおいの声には、確信に満ちた響きがあった。白髪の髪、顔立ち、高身長、そして何よりもその声──どれもが彼の記憶の中のSO∀RAそのものだった。しかし、彼女は少し顔をそらしながら、どこか慌てた様子で「べ、別人です」とつぶやいた。
「今更隠しても遅いですよ」とあおいが微笑みながら言うと、彼女は諦めたように大きくため息をつき、仕方なさそうにベンチに腰を下ろした。
「…あおい君であってるのかな?もしくは、SOR∀君」
その言葉に、あおいの胸は大きく波打った。「はい…」と返事をしたものの、頭の中では、自分が最後にSOARAと通話したときのことがよみがえっていた。SOARAの言葉に応えられず、画面を閉じて逃げ出した自分。無視したままの通話。あれから自分は配信をやめ、ただ無為に日々を過ごすようになっていたのだ。
静かな沈黙が続き、重苦しい空気が二人の間を包んだ。その沈黙を破るように、あおいは思わず大きな声で言葉を発した。
「ごめん!!」
同時に、SOARAも「ごめん!」と口にしていた。互いに謝罪の言葉が重なり、二人は一瞬「え?」と顔を見合わせて戸惑ったが、やがてあおいが先に言葉を続けた。
「僕…逃げました。毎日大変で、面倒で、辛くて、眠たくて…そんなときに、SOARAさんから厳しいことを言われて、すごくショックでした。リスナーも否定的なコメントばかりで、自分が何をしているのかわからなくなって…だから逃げてしまったんです」
あおいの声は徐々に小さくなり、目を伏せて続けた。
「だけど、逃げた先には何もありませんでした。楽しくもなくて、喜びもなくて、感動もなくて…何もかもなくなっていました。あの時は配信が重荷に感じていたけれど、今はただただ、空っぽな日々を過ごしているんです」
その声には哀しさと悔しさが混じっていた。顔を覆うようにして、堪えきれない思いを吐き出すあおいを、SOARAはじっと見つめていた。彼がここまで抱え込んでいた苦しみや葛藤を、ようやく理解するかのように。彼女もまた、深く息を吸い込むと、かすかな声で言葉を口にした。
「私も、あおい君にごめんって言いたかった。自分のやり方を、あおい君に押し付けすぎたのかもしれないって、後になって気づいたんだ。君が疲れてることに気づかず、ただ成長してほしいって…君ならきっと頑張れるって、そう信じて、無理をさせすぎた」
SOARAの言葉には、自嘲と後悔がにじんでいた。あおいに夢を追わせようとするあまり、自分の価値観や期待を押し付けてしまったことを深く悔やんでいるのが伝わってきた。彼女はそう言い終えると、少し肩を震わせながら目を伏せた。
「君が配信をしなくなって、私は君を潰してしまったんだって思ったら…」
そう言いながら、彼女はふらりと立ち上がった。しかし、まだ酔いが残っているのか、足元がふらつき、大きくよろめく。危ない、とあおいは慌てて立ち上がり、彼女の肩をしっかりと支えた。あまりに軽いその体が、かつて画面越しで見た堂々とした姿と重ならず、あおいの胸を締めつけた。
「SOARAさん、大丈夫ですか?無理しないでください…!」
あおいがそう言うと、SOARAはゆっくりと視線を下げ、何かを堪えるように唇を噛んだ。だが、その頑張りも長くは続かず、彼女はぽろぽろと涙をこぼし始めた。彼女の目から溢れる涙は止まらず、肩を小刻みに震わせながら、消え入りそうな声で「ごめん…ごめんね…」と何度も繰り返した。
その様子に、あおいは胸の奥がぎゅっと痛むのを感じた。目の前で泣いているのは、かつての憧れであり、何度も自分を奮い立たせてくれた存在だった。その彼女が、自分のことで涙を流している。自分が彼女をこんなふうにしてしまったのだと気づいた瞬間、情けなさが胸を満たした。
―僕は…推しに何をさせているんだろう。こんなに泣かせて…―
心の中で自分を叱るように思いながら、あおいは優しくSOARAをベンチに座らせた。彼女の肩にそっと手を置き、彼女の震えが少しでも収まるように気を配る。
「ごめん…本当にごめんね…。私、君を支えるつもりだったのに、逆に追い詰めてしまった…」
彼女の声は涙でかすれ、まるで壊れそうな小さな声だった。あおいはその言葉を聞くたびに、自分の無力さを痛感した。彼女の言葉に責められているわけではないのに、自分がいかに彼女の期待を裏切り、苦しませたかがひしひしと伝わってきた。
「あの…まさか、僕のことでお酒を…?」
彼はおそるおそる尋ねた。その問いに、SOARAは一瞬だけ顔を上げたが、すぐにまた顔を伏せてしまった。その反応が答えであることは明らかだった。あおいの心はさらに沈み込む。
「私が君に押し付けたせいで、君が夢を諦めたのなら、それは私の責任だと思ったの。だから、ずっと自分を責めてた…お酒なんかに逃げちゃいけないのに…」
SOARAの震える声があおいの心に深く突き刺さった。涙を流し、肩を震わせる彼女の姿が、かつて憧れていた完璧なSO∀RAとはあまりにかけ離れて見えた。しかし、その不完全で傷ついた姿が、今のあおいには痛いほどリアルで、自分がどれだけ彼女を苦しめてきたかを突きつけていた。
あおいは自分を責める気持ちをぐっと抑え、心を整理するように大きく深呼吸をした。何度か震える息を吐き出し、涙がこぼれそうになるのを必死でこらえながら、言葉を選んだ。
「SOARAさん…」
呼びかける声は震えそうになったが、強い意志を込めて続けた。
「もう一度、僕にチャンスをくれませんか?」
その言葉に、SOARAは泣きながらも顔を上げた。彼女の瞳には涙の跡があり、揺れる光が映り込んでいた。驚きと戸惑いの入り混じったその視線を受けながら、あおいは真っ直ぐに彼女を見つめ、言葉を重ねた。
「今度は何があっても逃げません。絶対にです。あなたに…SO∀RAのようになるまで、僕は走り続けます。だから…力を貸してください。」
その言葉を口にした瞬間、あおいの胸の奥にあった何かが弾けるように解き放たれた気がした。それは、自分の夢を諦めたことへの後悔や、自分に対する苛立ち、そしてSOARAへの感謝が混ざり合った感情だった。
彼女はその言葉を聞いて、しばらく何も言わなかった。ただじっとあおいを見つめる。その沈黙が、彼の心に緊張と期待をもたらした。少しずつ、SOARAの表情が変わっていく。驚きから、次第に微かな笑みが浮かび、やがて静かに頷いた。
「…君、ほんとに不器用だね。でも、その不器用さが君らしいのかもしれない」
SOARAはそう呟き、涙を拭いながら、ようやく穏やかな声で答えた。
「あおい君がまた走り出すなら、私は手を貸すよ。でも、君がまたつまずいたら、私も泣くかもしれない。それでもいいの?」
その言葉に、あおいは強く頷いた。
「はい。何度つまずいても、何度でも立ち上がります。だから…あなたも一緒にいてください。」
その瞬間、二人の間に流れていた重苦しい空気が少しだけ和らぎ、冷たい夜風が二人の頬をなでた。あおいは心に誓った。この瞬間を忘れず、もう一度夢に向かって全力で走り出すことを。彼の胸の奥には、かつて感じた情熱が少しずつ再び燃え上がり始めていた。




