16.見失う道③
朝、目覚ましの音が鳴り響くが、あおいはその音を無意識のうちに手で止めると、また布団に潜り込んだ。「もう少しだけ…」と思いながら再び目を閉じるが、その「少し」がいつもよりも長く続き、気がつけば朝の陽が高く昇っていた。焦りとともに飛び起き、時計を見ると、家を出るべき時間はとっくに過ぎている。急いで服を着替え、顔を洗い、寝癖だけをなんとか整えると、財布とスマホを掴んで家を飛び出した。
「また遅刻だ…」と心の中で自嘲気味に呟きながら、駅までの道を急ぐ。配信をやっていた頃は早く起きて仕事の前に準備をしていたはずなのに、今では目覚ましを止めるのも習慣になり、寝坊は当たり前になってしまった。仕事に遅刻しがちな自分への呆れと、「こんな自分じゃいけない」という気持ちがほんの少し湧くが、それを抱えたまま職場の建物へと足を運んだ。
職場に着くと、遅刻を隠そうとするように何事もなかったかのようにデスクに向かい、パソコンを開いた。上司や同僚はあおいの様子に呆れた視線を投げかけるが、口には出さない。それが逆に堪える気もしたが、気づかないふりをして仕事に集中しようとした。画面に向かい、仕事のデータを入力しながらも、頭の中はぼんやりとしており、いつも以上に身が入らない。
昼休み、同僚たちと一緒にランチに出かけるが、あおいの心はどこか遠くにあった。食事をしながら、同僚が話す他愛のない話題に相槌を打ち、表情を作って笑っているが、心から楽しんでいるわけではない。以前ならば、休日の話や趣味について会話が弾んだかもしれないが、今は何も興味が湧かない。ただ時間が過ぎていくのを待つように、愛想笑いだけで会話をやり過ごしていた。
「それでさ、こないだの飲み会でさ!」と、隣の同僚が笑いながら話すが、その内容もすべて耳をすり抜けていく。あおいも「はは…そうなんですね」と返事をするが、心の中は空っぽで、ただ適当な返事をしているだけだった。自分がどんどんと冷めた存在になっているような感覚に、胸の奥が少し痛んだが、それすらもいつしか慣れてしまっていた。
ようやく仕事が終わり、あおいは疲れた体を引きずるようにして帰路に着いた。帰宅すると、母親が台所で夕食を作っており、彼の帰宅に気づくと心配そうな顔を向けてきた。以前なら「おかえり」と言ってくれていたはずの母親が、今では何も言わず、あおいの様子をじっと見つめている。あおいは視線を避けるようにリビングに入ろうとしたが、母親の声が背中に届いた。
「ねえ、あおい…夢の方はどうなの?最近、配信してないみたいだけど」
母親のその一言が、胸に小さな棘のように刺さった。気にしていないふりをしていても、自分が以前抱いていた夢について何かを言われると、どうしても心がざわついてしまう。母親の視線には優しさがあったが、それを今の自分はただ重荷に感じるだけだった。
「ああ…うん、まあ…いろいろ考え中っていうか…」
曖昧に答えると、母親は心配そうにこちらを見つめたままだった。その眼差しに耐えきれず、あおいは玄関に向かい、靴を履いてそのまま外に出た。冷たい夜の空気が頬に触れ、少しだけ頭が冴えた気がした。今夜もまた、夢を追うことに挫折した自分が、母親からの優しい視線に向き合うことができなかったのだ。
「もう…どうでもいい」
つぶやきながら、あおいは夜の街に向かって歩き出した。気づけば、ふらりと飲み屋の明かりが見えてきた。
夜の街を当てもなく歩きながら、あおいはふと先の道端に、飲み屋の店員に怒られながら追い出されるようにして出てきた人影を見つけた。その人物は白髪に黒いジャージ姿で、背中を丸めている。何かに吸い寄せられるようにその人を目で追った瞬間、胸の奥でちくりとした既視感が芽生えた。思わず「あれは…」とつぶやきながら、長年身についてしまった「SOARAを追いかける」習慣のようなもので、無意識に駆け寄っていた。
近づくと、あたりには強い酒の匂いが漂っていて、その人が酔っ払っていることがわかる。ぐらぐらと揺れている姿は、見ているだけで倒れそうだった。白髪が特徴的で、背丈もどこか馴染みのあるような気がしてならない。気がつくと、あおいはそっとその肩に手を置いていた。
「大丈夫ですか?」
声をかけると、その人は何とか目を開けてこちらを見たが、視線は定まらず、ただあいまいな「う~ん…」という呻きが返ってきただけだった。放っておくわけにもいかない。あおいは意を決してその人物の肩を貸し、なんとか背負おうとした。肩を貸すと、思いのほか体が軽く、背負い上げるのもそれほど苦ではなかったが、少しぎこちなく抱え上げた瞬間に、胸が当たる柔らかな感触に気づいた。
「あ、女性…?」
驚きに目を見開いたが、酔っ払っていて反応も薄い彼女は頭を揺らしながら「ん~~~」と呻くばかり。顔もよく見えず、この白髪の女性が誰なのかはっきりと確かめられない。だが、あおいの胸には少しずつ確信が生まれていった。
「もしかして…SOARAさん?」
かすかな声で名前を呼ぶが、返ってくるのは意味のない声だけだった。彼女は完全に酔いつぶれていて、まともに話すどころか意識もはっきりしていない様子だ。どうにかして公園まで運ぼうと、あおいは慎重に歩き出した。
夜の静かな道を歩きながら、あおいは白髪の頭をかすかに揺らしつつ、背中にしっかりとこの人物の体を支えた。彼女の髪の香りと微かに残る酒の匂いが入り混じり、ますます胸の鼓動が速くなってくる。目の前にある公園が見え、ベンチに彼女を座らせるようにしてゆっくりと腰を下ろした。彼女の顔は少し赤く、酔いのせいでぼんやりとしていた。
あおいは自販機に向かい、冷たい水を買って戻ってくると、キャップを開けて、彼女の口元にそっとボトルを近づけた。水の冷たさが喉を潤してくれるはずだと信じて、少しだけ傾けてゆっくり飲ませる。
「ほら、少しずつ飲んでくださいね…」
あおいの言葉に反応するように、彼女は微かに口を開き、冷たい水を一口含んだ。喉がゆっくりと動くのが見え、彼女は「ふぅ…」と小さな息を漏らした。
あおいは、自分の手元で水を飲む彼女をじっと見つめた。少しずつ酔いが冷めてきたのか、彼女の目はかすかに開いて、夜の光を反射してぼんやりとした視線をあおいに向けていた。今は何も言わず、ただ無防備に座っている彼女が、やはりSOARAではないかという確信がゆっくりと心に染み渡っていく。
「やっぱり…SOARAさんなんですか?」
あおいの問いかけに、彼女は一瞬だけ表情を動かしたが、また力が抜けるように目を閉じてしまった。何か言いたげな様子に見えたが、言葉は出てこない。あおいはそんな彼女をじっと見つめながら、自分がいかにこの人に会いたかったか、どれほど彼女の存在が自分にとって大きかったかを改めて感じていた。
しばらくすると、彼女は微かに口を動かし、かすれた声で「…ごめんね」と小さく呟いた。その一言が夜の静寂に響き、あおいの胸に深く刻み込まれるようだった。
「何が…ごめんなんですか?」
だが、彼女はもう答えることもなく、再び眠りに落ちたようだった。あおいは自分の中であふれ出しそうになる思いを抑え込み、彼女が眠れるようにそっと肩に自分の上着をかけてやった。




