第12話 本物VS偽物(前編)
一番美味いカルピスの作り方が知りたい
「ねぇ、アルク……兄さん」
少女のおどおどした声が、俺の名前を呼んだ。
若干の恥じらいが混ざっているのか、語尾が弱々しく落ちていく。
「……兄さん?」
数秒遅れて、ぼーっとしていた俺は反応を返す。
消え入りそうだった彼女の言葉を、復唱した。
「ど、どうしたんだよ……急にそんな、呼び方……」
「いや、別に深い意味とかはないんだけど……」
「まさか……反抗期か!?」
「ち、違うってば! ただ、あのね……」
黒髪の少女は、馬鹿みたいにおろおろと動揺する俺に弁明しようとして、言葉を詰まらせる。言い淀む幼い彼女の姿には、どこか――記憶の奥底をノックしてくるような――懐かしさに似た温かな感覚を覚えた。
彼女は一体俺の何なのかとか、この記憶は何時のものなのかとか、そういう有象無象の疑問はどうでもよかった。どうでも良くなるくらい、その懐かしさが見ていて心地よかった。
いつかの俺と彼女の回想を、俺は遠巻きに眺めていた。
「お兄ちゃんって呼び方も好きなんだけど、なんか、飽きちゃうかなって……」
「そうか? 俺は別にそんなことないと思うけどな……」
「そうかも、しれないけど……そのっ、普段から呼んでると、特別感がなくなっちゃうっていうか……好きだからこそ、“大事なときにだけ”呼んでみたいの!」
「だから、それ以外は兄さんでいくってことか?」
「うん……変、かな?」
「別に。セリカの好きなように呼んでくれれば、俺はそれでいいよ」
俺が快諾すると、彼女は照れくさそうに笑ってみせた。
それは何の変哲もない、兄妹間の会話だった。
「……でも、その“大事なとき”ってどんなときだよ?」
「それは……えっと、いつだろうね?」
「おい」
懐かしくもあって、微笑ましくもある。
在りし日の、何でもない日常の一部分。
でもどうして俺は、今こんなことを思い出したんだろうか。
『そうでしょ!? ――お兄ちゃん!』
少女の叫びが、今はっきりと俺の耳に届いていた。
そのどこか懐かしさを帯びた声は、虚無に沈んでいた俺を目覚めさせる。
「お兄ちゃん……?」
真っ暗な底に背を向けたまま、その言葉を反芻する。
口に出したその響きと先程の回想が引き金となり、今までに俺の『奥底』で眠っていたものが連鎖的に蘇ってくる。それはまるで連想ゲームのように、掘り当てた記憶がまた別の記憶を呼び覚ましていった。
俺の本当の妹は、あの少女で。
魔族に変えられた俺は、元人間であの子の兄――。
「そうだ……」
兄妹である俺たちは、何年も一緒に暮らしてきた。
二人でいれば、どんなことがあっても怖くなかった。
お互いの存在がそこにあれば、他に何もいらなかった。
お互いを、何よりも大事に想ってきた。
たった一人の、家族として。
「俺たちは、兄妹なんだ……」
自分の命よりも大事に想ってきた、無二の存在。
そんな彼女の――妹の名は。
「『セリカ』……俺はっ、セリカのお兄ちゃんなんだ!!」
自分の胸に言い聞かせるように、精一杯叫んだ。
二度とその名を、手放すことのないように。
深い虚無に満ちた闇の底で、必死に手を伸ばす。
俺を導くように生まれた光に、掌を向けた。
「――そうだ。よく思い出したな、アルク」
もがいていた俺の背を、温かな手が押した。
温かくて力強い、大きな手だった。
「アルク……お前はもう、一人前の男だ。
自分の大事なものだけは、もう絶対に見失うなよ」
父さんの、親父の声が背中に投げかけられる。
あのときと同じ、変にカッコつけた口調で。
「――お願いよ、アルク。私たちの代わりに、セリカを守ってあげて」
母さんの優しい手が、また背中に添えられる。
病弱だったけど、誰よりも俺たちに優しかった母さん。
「そばにいてあげられなくて、ごめんなさい。
でも私はずっと、あなたたちを愛しているから」
母さんのくれた温かな温度が、全身を駆け巡った。
二人の手のひらが、俺を闇の底から押し返す。
差し込んだ一筋の光のもとへ、俺は翔び立った。
「行け、アルク!」
「セリカを――私たちの家族を、守って!」
ありがとう。父さん、母さん。
おかげで俺はまた、立ち上がれる。
俺はもう、こんな場所に居るべきじゃない。
この虚無から抜け出して、向かうんだ。
他でもない、俺の妹のために。
繋がれた家族の絆を、守るために。
「――セリカぁああああああああああああああああっっ!!」
***
「兄さん……!」
目の前に降り立った影を見て、セリカは目を見開いた。
それはこの数日間――いや、それよりもずっと昔から彼女が追いかけ、求め続けていたただ一つの背中であった。
「遅くなって悪かった、セリカ」
アルクは上体を起こし、自らの妹へと振り向く。
瞳に涙を溜めるセリカの後ろ、傷付いたフェオリアたちの姿にも、彼は遅れて気づいた。
未だ彼の身体には魔族の特徴が色濃く残ってはいるものの、その瞳は血のような濃い赤色から、もとの澄んだ翡翠色に戻っていた。その目はもう二度と、本物の妹を見失うことはしない。
「色々、迷惑もかけたみたいだな。本当に、俺は――」
「ううん……そんなこと、もういいんだよ。戻ってきてくれたんだから!」
ようやく正気に戻った兄に嬉し涙を流すセリカだったが、それでも気後れする兄に対して笑みを作ってみせた。
彼女にとっては、今は兄がこうして自分のもとへ還ってきただけで十分だった。
後悔も懺悔も、彼らにはまだ早い。
――否、それどころか、喜ぶことすらも。
「――なぁあああにを、私を置いて喜びに浸っている!! 人間ども!!」
瓦礫の山を突き破り、すべての元凶が再びその姿を現した。
手痛い一撃を頭部に喰らった〈道化〉の瞳からは先ほどまでの余裕は完全に消え、人の形をした怪物である魔族本来の脅威と醜悪を湛えた眼光を放っていた。
「――! あの人、まだ……!」
「ああ、危うく忘れるところだったぜ。ヒュプノなんとかさんよ」
セリカを背後に下がらせ、アルクはその巨悪と対峙する。
対して、元《光の勇者フェルディナンド》ことヒュプノクラウンは、乱れた白髪を逆立て怒りを隠すことなく発露させる。ただ、目の前に現れた因縁の宿敵に対して。
「ヒュプノクラウンだ!! 燃えカス風情が調子に乗るな!!」
「燃えカス? 何言ってんだ、俺は元気ピンピンだぜ?」
「ハハッ、怪物からも切り離された魔族の出来損ないがよく言う!」
アルクを嘲笑うように彼は叫ぶと、核であるアルクを失った〈異形〉の残骸の上に素早く飛び乗った。すると彼は手にした片手剣を歪に変形させ、巨大化した刀身で〈異形〉の牛型の筋肉質な頸を軽々と断ち切ってみせる。
「――っ、お前、まさか!」
アルクだけがその行動の真意に気づき、声を荒げる。
「そのまさかさ! そこで見ていろ愚民共!!
貴様の棄てていった抜け殻は、私がありがたく再利用させてもらう!!」
彼は高らかに笑い、頭部を失った〈異形〉の首元に下半身をねじ込ませる。
差し込んだ四肢を無理やり魔力で同化させ、ヒュプノクラウンはついにその〈異形〉に“乗り込む”ことに成功した。同化した肉体の手綱を握り、まるで手足の延長のごとく動かして見せる。
「ハハハハハハハハハハハハ!! さあ、かかってくるがいい!!」
セリカたちが討ち果たしたはずの怪物は、その身体を真の邪悪に明け渡すことによって復活を遂げてしまった。アルクが駆けつけたことでひっくり返ったかに見えた戦力差が、また大きく開いてしまう。
「……ほんっと、最後の最後まで面倒だな」
「でも、戦うんでしょ?」
「ああ……もちろん」
妹の問いかけに、兄は笑って応えた。
拳をきつく握りしめ、眦を吊り上げる。
「――んじゃ、反撃開始といくか!!」
アルクは前傾し、そのまま敵の懐に突っ走った。
セリカは杖を携えて回り込み、すぐさま詠唱を開始する。
「ハッ、最期にせいぜい魅せてみろ、燃えカス兄妹!!」
悪魔の怒号が、反撃に転じた兄妹を迎え撃つ。
真っ向から迫ってくる宿敵を前に、ヒュプノクラウンは〈異形〉の6本の腕を自在に操り、いち早く攻勢に出た。上級魔族特有の繊細かつ正確な魔力操作によって、彼は早くも新たな肉体の感覚をものにしていく。
だが、それに対しアルクは。
「ああ、見せてやるよ――支配なんかじゃない、本物の絆ってもんをなぁ!!」
鉈、丸太、大剣――はたまた蛇腹剣。
変則的な敵の連撃を、まるで未来視でもするかのごとく回避していく。
まさに鬼に金棒――とも言える敵の力だったが、腐ってもその肉体を実際に『使っていた』アルクの経験の前では、大した脅威にはならなかった。その巨大さ故に鈍重な一挙手一投足を見極め、次の挙動を、宿敵が描く戦場の未来をアルクは予測する。
「――【魔槍の加護】!」
鉈と大剣の十字攻撃を難なく躱し、懐に飛び込む。
思いの込められた一撃が、〈異形〉の腹部にヒットする。
「ぐっ……その、程度――ぬるいな!!」
強固な肉壁に阻まれた一撃は弾かれ、アルクは後退を余儀なくされる。
だがその間に、彼らの繰り出す次の一手は決まっていた。
「っ――セリカ! いけるか!?」
「うん!!」
走りながらの詠唱を済ませたセリカが、跳躍して空中で杖を構える。
彼女の攻撃に合わせて、アルクは掌を突き出して叫ぶ。
「――効果付与・【戦鎚の加護】!!」
「――【神なる鉄槌】!! 」
その刹那、二つの魔法陣が重なる。
そして放たれたのは、着弾時の衝撃増幅効果を付与された光の鉄槌。
(っ、攻撃が、重い……!?)
その巨躯をも上空から押し潰さんとする閃光の一撃は、防御に回された4本の腕でようやく相殺された。強力な反面、魔力の消耗の激しい肉体を前に、ヒュプノクラウンは軽く舌打ちする。
「……これが、絆の力、というものか? ハッ、実に馬鹿馬鹿しい!!」
アルクたちの攻勢が途切れ、〈異形〉はまた無慈悲にも侵攻を開始する。
「さあ、よーく身構えろ! 第2ラウンドだ!!」
バランスの悪い4本脚で歩み、ダンジョン内の構造物をも蹴散らしながら、彼の乗り込んだ巨体がそのままアルクたちにぶつけられる。二人を追って〈異形〉は壁際にまで迫り、圧倒的な質量だけで殺しにかかる。
「まずい――セリカ、下がれ!」
「兄さん!?」
「――【戦神の加護】!!」
咄嗟に妹の前に出たアルクは、両腕に身体強化の魔法を付与する。
だがそれも、敵の莫大な質量の前では多少マシになった程度――
「兄さん、駄目!」
「ハハッ!! 潰れろぉおおおおおおおお!!」
「っあ!! クソッ、負け、るかよ……!!」
異形との、真正面からの押し相撲。
半分魔族とはいえ、アルク一人の力では劣勢は必至だった。
そう、彼一人の力では。
「――【全方位防御】!!」
アルクは思わず顔を上げ、刮目する。
自らと敵の間に展開された、堅牢な防御壁。
駆け出しのセリカとは一線を画す、練り上げられた魔力。
「……フェオリア!?」
隣に現れた幼馴染の名を、アルクは無意識に呼んでいた。
駆けつけたフェオリアは、あくまでも防御壁の維持に集中する。
「っ……今は防御に集中して! あたしもしんどい!」
「いや、なんでお前が……」
「なんでって……今さら理由が必要?」
防御に回っていたフェオリアは、途端に目つきを変える。
「――【防壁展延】!!」
余力を振り絞った彼女は杖に魔力を込め、更に障壁を展延する。加速度的に拡げられた彼女のドーム状の領域は攻撃に転用され、アルク一人では苦戦していた敵の魔の手をあろうことか跳ね返した。
「――っ?! どこに、そんな力が……っ!」
予想外の押し負けに困惑する敵を、フェオリアは冷淡な目で睨めつける。
折れかけた杖を握りしめたまま、彼女は既に覚悟を決めていた。
「ひどいじゃないか、フェオリア……〈オレ〉との思い出を忘れたのか?」
「忘れたわけじゃない。けど、もうそんなものはゴミ同然だよ」
「お前はあたしの――あたしたち全員の敵だ!!」
後編は21時! 本編完結!