物語は始まらない~ヒロインに転生したけれど~
「私は認めなくてよ! そんな卑しい泥棒猫の汚い娘が姉だなんて!」
そう激しく言い、美しい侯爵令嬢は持っていた扇を床に叩きつけた。
「アマーリエ!」
母が呼び止めるのも空しく、金の縦ロールの髪を揺らしながらアマーリエは背を向けて去る。
「リーズさん、ごめんなさいね。アマーリエは本当は優しい娘なのですが、突然のことで戸惑っているようですわ」
夫人は何とか必死に取り繕っているが、どう考えてもあのご令嬢が本当は優しいとは思えないリーズである。しかし突然で戸惑うのも無理は無いとも思う。
母を亡くした後、下町で縫製所の下働きで何とか生計を立てて暮らしていた平民のリーズは、実は侯爵家の婚外子だったといきなりこの屋敷に連れて来られたのだから。
「そりゃ戸惑いもします。私だって認めたくないですから。アマーリエさんの反応は正しいです。そういうわけで早々に私を下町に帰していただければありがたいのですが」
リーズが一応言ってみるも、侯爵夫人は首を横に振った。
「そうは参りませんわ。これは亡き夫……グレタ侯爵の遺言ですもの。あなたを娘と認め、お嫁に行くまでここで世話をしろと」
リーズは知っている。この後、亡くなった侯爵の遺言で娘としてこの屋敷に住まわされることを。
ひょんな拍子で王子に見初められ、最終的に王子が現婚約者のアマーリエとの婚約を破棄してまでリーズを選ぶことを。その時まで卑しい妾腹だと散々この母子に虐められまくり、命も脅かされることも。
なぜなら彼女はこのストーリーを作った本人だから。
昔書いた物語のヒロインに転生してしまったのだ。
ああ、こういうのラノベにありがち……そう彼女は思ったが、まさか自分の書いた黒歴史みたいな小説にだなんて……他の小説か、乙女ゲーム、せめてなら悪役令嬢であるアマーリエ側になりたかった彼女である。
こうなったら自分の黒歴史を消すべく、よく考えずに作った設定ごと変えてやろうと思ったのだ。
「私、別に今更貴族の生活をしたいとかまったく思っておりませんので。お二人の地位を脅かすこともいたしませんし、なんなら侯爵の娘じゃなかったってことにしておいていただければ」
「無理ですわ。誰がどう見てもあなたは夫にそっくりですもの。しかも貴族しか持たない魔力も強い。よく十六年も見つからずにいられましたわね。ご苦労なさったでしょ?」
侯爵夫人は優しそうな口調で言うが、その目はリーズのことを蔑む色に満ちている。そういうキャラクターに設定してしまったのだから仕方が無い。
「奥さんも取り繕って、いい人ぶらなくても。嫌でしょ? いくら侯爵の血が入っていて魔力も継いでいるとはいえ、他所の女が産んだ娘なんて屋敷に入れたくないはず。アマーリエ様と同様、泥棒猫の娘としか見て無いでしょ? それとも虐める対象が出来て楽しいとでもお思いでしょうか」
「……リ、リーズさん?」
図星を突いた明け透けすぎるリーズの言いようにたじろぐ侯爵夫人。
「でもね、考えてみてくださいよ。私の母は確かに平民の侍女でしたけど、別に野心があって侯爵様を誘惑したわけじゃないです。たまたま酔った勢いで襲われても、お貴族様相手に拒めると思います? 断ったらその場で殺されてましたよ? 母には外に養わなきゃいけない弟や妹もいたから、泣く泣く耐えて、その一回で出来ちゃって職も失ったのに、泥棒猫扱いって酷くないですか?」
「ま、まあ……」
リーズは更にたたみかける。こんな設定にした自分の甘さに言い聞かせるように。
「アマーリエ様に侯爵家の血統が持っているはずの魔力が無かったのも、髪色も瞳の色も私の方が侯爵に似ているのもご愁傷様としか言いようが無いですけど、私だって好き好んでこのように生れたわけでも無いですし、責めるなら私と亡き母でなく、奥様やお嬢様がおいでなのに下半身の管理の出来なかった侯爵様でしょう?」
ぐぅの根も出ないと言った風情の侯爵夫人はそこでふと気が付いた。
「ちょっと待って? どうして私達があなたを責める、虐める前提で話してらっしゃるの?」
「そういうせって……いえ、私は知っているのです。神のお告げがあったので」
「……神の……お告げ!」
ものすごく苦しい言い訳だとリーズも思っていたところ、案外侯爵夫人は信じてしまった様子。強い魔力のせいだと思ったのかもしれない。或いはヒロイン補正か。
「か、神は他にあなたにどのようなお告げを?」
「私がこの屋敷でお二人に虐げられる生活を送っていれば、そのうちアマーリエ様の婚約者の王子に知られ、アマーリエ様は皆の前で婚約破棄されて国外追放されてしまいます。そして私が王太子妃、ゆくゆくは王妃になるでしょう……と」
ごめんよ、アマーリエ。こんな設定にした作者を恨んでいいよ……そうリーズは心の中で縦ロールの悪役令状に詫びた。
「お、恐ろしい未来ですわ」
侯爵夫人は震えあがった。自分とアマーリエの性格を考えて、ありえなくないと彼女も思うからだ。
「ですから、私はアマーリエ様のためにも、自分のためにも、平民のままでいたいのです。私は王子と結婚なんてまっぴら御免ですし」
自分で設定しておいてなんだが、皆の前で高らかに婚約破棄して長年付き合った彼女に恥をかかせ、国外追放までしちゃうような王子も結構クズだなと思うリーズである。いかにイケメンハイスペックで優しくても将来は考えていない。そんな男と結婚などしてもハッピーエンドで終わるものか。
書いた時は先の事まで考えていなかったが、現実問題、十六年も平民で過ごした娘が、ちょっとやそっと教育をされたくらいで王妃など勤まるはずがない。それよりも、侯爵家母娘に虐められるのを回避しても、結局他の貴族や王室に蔑まれて虐げられる未来しか見えない。
「そこで、侯爵家をお継ぎになったご長男も含め、内々に侯爵の遺言と私の存在を無かったことにしていただければ、すべて丸く収まる話ではないかと思うのですが、どうでしょう?」
「そ、そうね……あなたがそれでいいのなら」
多分今ならこのまま侯爵令嬢になってしまっても、もう侯爵夫人は虐めては来ないだろう。だが、正直平民の生活は厳しくとも気は楽だ。前世の記憶もあるので根っからの庶民であるリーズである。
「でも、キースが黙っているでしょうか。あの子は真面目だから」
確かに侯爵夫人も言うように、虐めたおされるヒロインを一人気遣う兄として、クソまじめで優しい性格に設定してしまった長男の存在がネックである。若くして爵位を継ぎ、王子とも仲が良く、リーズを王子に紹介し、結果的にアマーリエの婚約破棄に一番協力するのが彼である。
キースは遺言を実行すべく動くだろう。説得は出来るだろうか。
そこでリーズは、過去の黒歴史を思い返した。何か、裏設定が無かっただろうかと。
「あ、そうだ」
リーズは思い出した。本編に書かなかったアマーリエが国外追放になった後にわかった事実を。
「私が侯爵家の婚外子であることを知った上で自分で拒否したと一筆書きますわ。それで何としてでもキース様を説得してください。そしたら、アマーリエ様の出生の秘密は黙っておきますわ」
「えっ!?」
侯爵夫人に衝撃が走った。それは夫であるグレタ侯爵すら知らなかったことだ。このまま墓の中まで持って行こうと思っていた秘密までも、このリーズは知っているというのだろうか。
「アマーリエ様が魔力をお持ちで無いのも、髪も目も色が侯爵に似なかったのも、本当はお父様が侯爵とは違うからですよね。奥様と平民出身の騎士の……」
「やめて!」
耳を塞いでしゃがみ込んでしまった夫人を見て、ああ、やはり裏設定も有効なのだとわかった。同時にリーズは少し後悔した。誰にでも触れられたく無い秘密の一つや二つあるものだ。それを傘に脅しをかけるのは自分でも卑怯だと思ったのだ。
侯爵夫人はよろよろと立ち上がって、苦し気に言葉を吐く。
「それも神のお告げで?」
「はい。ですが、別にそのことを責める気は無いですし、本当に誰にも申しません。だって、私がこうしてここにいるように、侯爵も浮気をなさっていたわけですし、奥様もその人のことを本当は心から愛しておられたのでしょう? アマーリエ様にはこれっぽっちも罪は無いわけですし。でも考えてみたら、本来私と同じ立場の方に、泥棒猫扱いされるのが面白く無かっただけです」
「あなたの言う通りだわ……キースは何があっても私が説得する。だからこの事は内密に」
「勿論ですわ」
こうして、虐げられるヒロインも、婚約破棄される悪役令嬢も活躍せず、ましてやヒーローである王子も登場しないまま物語は始まらなかった。
自分の書いた黒歴史小説に転生してしまったリーズは、その後市井の一庶民として前世の知識を生かして商売で成功するも、平凡に、でもそれなりに楽しくすごしましたとさ。