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犬上くんをびっくりさせてはいけない

作者: 山雪ささ

ばしゃーん!


「あはははは!」

「大丈夫かよ犬上ぃ!」

「ごめんねー!ははは!」


 犬上新は自分に水をかけた同級生達をチラリと見やったが、そのまま何も言わずに立ち去った。

 水をかけた同級生達がつまらなそうに文句を言う。

 当たり前だ。

 犬上はこのくらいのことじゃ驚かない。だから泣き言も言わないし、怒りもしない。

 そのため友達もいない。

 たまにこうしてちょっかいを出す奴もいるが、基本的にはいつも一人だ。それでいいと思っている。

 なぜなら、犬上には人に知られてはまずい秘密があるからだ。





 犬上が入り浸っている保健室でパンツを貸してもらい着替えを済ませると、とっくに予令は鳴り終わった後だった。

 次は移動教室だったはず。

 教材を取りに、犬上が誰もいないはずの教室の扉を開けると、そこには制服の上衣を脱いだ女子生徒の姿があった。


「うわっ、あっ、悪い!」


 慌てて扉を閉める。

 み、見てしまった!白い首筋と白い下着を必死に頭から追い出す。


「大丈夫だよ〜。ごめんね、気を使わせて」


 女子生徒が上衣を着て扉を開け言った。クラスの中でも地味でおとなしい日辻楓だった。


「ところでそれ、かわいいね?」


 犬上は息を呑んだ。


(しまった…!びっくりしてしまった…!)


 女子生徒の下着姿を見て動揺した犬上の頭には、三角でふさふさの、ーーー動物の耳が生えていた。


「それ、動いてるね」

「い、いや…、ひっ!」


 日辻は見た目からは想像もつかない速さで、獣耳に手を伸ばした。くにくにと耳を触る。


「や、やめ…」

「あたたかいし…。これ、犬耳?」

「狼だ!」


 しまった!自分から獣耳を認めるような発言をしてしまった。

 そう思ったのもつかの間、日辻の眼鏡の奥の目が、キラリと光ったような気がした。


「へぇ…」


 怖い怖い怖い怖い怖い!

 日辻は舌なめずりでもしそうな顔で俺を教室内に引っ張り込み、扉を閉めた。


「なっ、なにしてんの!」


 さっきから狼耳をしまうため平常心になろうとしているのだが、日辻が怖くて全然平常心になれない!


「犬上くん、これ、本物の狼の耳だよねぇ?」

「ちっ、違う!」


 こんな誤魔化しがきくとは思わないが、認めてしまったら終わりなのでとりあえず否定した。


「犬上くん。これは、狼の耳だよ」


 断定された。


「犬上くん、わたし夢があるの。でもそれはずっと叶わないと思っていたの」

「へ、へぇー」

「わたしうれしい…。犬上くんは、狼人間なのね?」

「ちっ、違うってば!」

「犬上くん、わたしの夢を聞いてくれる?」


 日辻は本当にうれしそうな、可憐な笑顔で言った。


「わたし、狼の獣人に凌辱されるのが夢なの」


 俺は悲鳴を上げて教室から逃げ出した。





 日辻楓は同じクラスの中でも、一番地味な方のグループに属する物静かな女の子である。

 伸ばしっぱなしのようなくせのある長い黒髪に、茶縁の眼鏡、少しも着崩していない校則通りの制服。

 しかし意外に異性からの人気は低くない。

 なぜなら野暮ったい着こなしの制服でもわかるほどに、出るべきところが出ているからだ。平たくいえばおっぱいが大きい。

 彼女はゆる系巨乳として、大したアプローチもできない地味男子たちに、密かに人気を博していた。友達のいない俺でも知っているくらいには。


「メリーちゃんはほんとおっとりって言うか、のんびりって言うか…。全然授業に戻ってこないんだもん」

「水かぶっちゃって、とばっちりだったね」


 日辻→ひつじ→メリー、のあだ名の通り、羊のようにのんびりしていると思われていた彼女が、あんな肉食獣のような目をするとは…。

 あの後俺の動揺はなかなか収まらず、俺はトイレの個室で授業一回分の時間を過ごした。

 しかし教室に戻ってみると彼女は何食わぬ顔で友達と談笑していた。

 

(このまま何事もなかったことに、ならねぇかなぁ…)


 もちろん日辻はそんな生易しい女ではなかった。

 帰り際日辻は俺のところに来て言った。


「一緒に帰ろう?犬上くん」


 数人のクラスメイトが驚いたようにこちらを見ていた。俺は当然断りたかったが、日辻は少し声を落として更に言った。


「…バラされたくなかったらついてきてね」


 例えどんな噂が立とうとも、ついていく以外の選択肢はなかった。





「ごめんね〜、脅すみたいなことして」


 みたい、どころか正真正銘脅されたと思うのだが、どうやら俺の辞書と彼女の辞書は違うらしい。


「だって気になるでしょ〜?あんな耳を見たら」

「…わかっていると思うが、誰にも言わないでほしい」


 俺が幼い頃からどんなに必死にこれを隠してきたか。保育園は行っていないし、小学校も中学校もド田舎の少人数学級で、とにかく人目から隠れるように生きてきた。高校ともなるとどうせ少人数のところがなかったので、まあ大人に近付いてきたし大丈夫だろうと高をくくって普通の公立高校の普通制に出てきたのが、間違いだったのだろうか…。


「もちろん言わないよぉ、こんなおいしいこと」


 お、おいしい?


「むしろこれからもみんなから隠れるのを協力してあげる。だから教えて?犬上くんはどうして狼の耳が生えるの?生えるのは耳だけなの?尻尾は?むしろ全身毛むくじゃらにはならないの?気分が獰猛になる、とかそういうのはないの?」


 ひ、日辻の圧がすごい…。


「あ、こんな道の真ん中じゃあ話しづらいよね。どうぞ、うちに来て?」

「えっ、家!?いや、ちょっとそれは…」

「大丈夫!わたし一人っ子だし、両親共働きだから帰ってくるの夜だし」

「うん、多分何も大丈夫じゃない」

「…ここで犬上くんを驚かしてみようかな」

「行きます!行かせて下さい!」


 いやそもそも相手はか弱い女子。

 さっきだって『凌辱されたい』と言っていたのであって、『凌辱したい』わけではないのだから、何も恐れることはない。

 …いやほんと何。凌辱されたいって。お前ほんとに十代女子かよ。


「やっぱり犬上くんは驚いたりすると、けも耳が出てきちゃうのか〜」


 俺は結局日辻の部屋に連れ込まれた。

 日辻の部屋はごく普通の、少し女子っぽい、くらいの部屋だった。


「犬上くん、女の子の部屋、初めて?」


 何その質問。部屋に入って第一声それとか怖い。


「そ、そりゃ俺友達いないし。女の子どころか友達の家だって初めてだけど」

「秘密を守るためとはいえ、大変だねぇ。昔からそういう体質?」

「ああ、血筋だ。あんまり詳しいことは言えない。嫁にしか話すなってきつく言われてる」

「お嫁さん、かぁ…。ふふ」


 何ふふって。もうほんと怖い。


「あ、そういえば週末に作ったクッキーがまだあったはずだから、食べていって〜。持ってくるね」


 日辻はにこっと笑って部屋を出て行く。


(週末にクッキー手作りしてるとか、女子か!)


 正真正銘女子なのだが、恐怖心のためわけのわからないことを考えてしまった。

 一人になり俺はすることもなく、なんとなく日辻の部屋を二、三回見回して、あとはおとなしく待っていた。


「お待たせ〜。何も見てない?」

「何?何もって」

「そこの引き出し、R18なの」


 おい!お前はエロ本隠し持ってる男子か!


「余計なことは言わんでいい!」


 クッキーとジュースを置いた日辻が、こちらを見てふわっと笑った。


「犬上くんって、意外とよくしゃべるのね」

「そ、そりゃあ。まあ、学校ではわざとしゃべらないようにしているだけだか、ら…」


 音もなく滑るように近付いてきた日辻が、ほっぺにちゅーをした。

 お前はくノ一か、なんて考えて、ようやく起こったことを理解する。


「なっ、ななな何すんだバカッ!」

「あっ!やったぁ!やっぱりかわいいお耳」


 俺は日辻から飛び退いたが、日辻は目を輝かせて言った。


「ね、お願い。それ触らせて?」

「絶対に嫌だ!」

「クッキーあげるからぁ」

「絶対に嫌だ!」

「あ、もしかして警戒してる?もう何もしないよ〜。あれは耳を見たくてびっくりさせただけ!」

「信じられるか!」

「わたしだって今日初めて話をした男の子と、これ以上どうこうなんて、さすがにちょっと」


 ……あれ、なんかそれはそれで地味に傷付くような。


「お、お前、だって、えらい夢語ってたじゃん」

「だって、夢にまで見た想像上の生き物が、いきなり目の前に現れたのよぉ。もう、あの時は興奮しちゃって」


 夢の内容は否定しないらしい。


「ねぇ、本当に何もしないし、犬上くんの秘密は絶対誰にもしゃべらないから、さわらせて?」

「…本当に、誰にも言うなよ」


 俺は念を押して、日辻に獣耳を差し出した。


「うわぁ…!ふわっふわ!かわいい〜…」


 学校でさわられたときと違い、こちらを気遣うように優しく指でなでられる。


(な、なんか変なかんじ…)


 くすぐったいような。気持ちいいような。


「ふふ、凌辱じゃなくてもいいかなぁ」

「何の話だ!」


 日辻が怖い単語を発し始めたので、俺は大慌てで距離を取る。


「犬上くん、絶対に誰にも言わないから。これだけは本当絶対」


 日辻がふいに真剣な表情で言った。


「あ、ありがとう」

「こちらこそ、さわらせてくれてありがとう」


 日辻がふわっと目元を和ませる。

 今日だけですっかり見慣れてしまった笑い方。


「犬上くん、クッキー食べる?」

「あ、じゃあいただきます」


 そうして食べたクッキーは甘く、ほろほろと口の中に溶けていった。


 日辻楓が本懐を遂げるのは、また数年後のお話。


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