その身に種を宿し生まれてくる人々の物語
この世界の人間は、すべてみな、種をその身に宿し生まれてくる。しかし、それを知るものはごくわずかだ。ほとんどの者は、何も知らず、発芽させることさえできずにその一生を終える。
無自覚にその身の中で花や実を育てることができた者も、守られていることにも気づかず、時にはその毒に侵され死んでいく。
第一章 スズラン
「雪さん、すまない」
私は探るように小田真樹夫の顔を見つめる。
何を謝られているのかがわからない。しかも小田の表情は、気まずそうではあるがさほど申し訳ないというほどでもない。
私が黙っていると、わずかに苛立たしそうな気配をまといながら彼はこう言った。
「君とは結婚できない。別れて欲しい」
あまりに意外な言葉に私の指先は細かく震える。
どうして? と無意識につぶやく。
「他に好きな人が、できたんだ」
その答えに、 自分でも驚くほど様々な負の感情が湧き上がる。戸惑い、悲しみ、怒り、そして憎悪。
今日まで、私は自らの美貌と才気を武器に、男たちを操りながら生きてきた。いつだって誰かを切り捨てるのは私。誰かから心変わりを告げられたのは初めてだった。
「どこの、誰なの?」
みっともないと知りながら、問いつめる言葉が口をつく。
「彼女のことを詳しく話すことはできない。僕が勝手に好きになってしまっただけなんだ。彼女は何も知らない。迷惑をかけたくないんだ」
そう言って、小田はどこか夢見るような顔をする。
小田真樹夫とは、結婚相談所の紹介で出会った。35歳の公務員。容姿はいたって平凡。学歴も普通。取り柄も欠点も少ない男、それが私の印象だった。
結婚相談所のスタッフには、もう少し理想を上げてもいいのでは? と遠回しに提案されたこともあるくらいだ。彼にとって私は願ってもない結婚相手だったはず。一方で私にとっても彼は理想に近い相手だった。
容姿端麗な男にばかり入れあげ、振り回され裏切られ、挙げ句の果てに誰が父親なのかもわからない娘を生んだ母。その上、乳飲み子の私を祖母に押しつけ、またどこかの男を追いかけ母は出奔した。私の願いは、母のような人生を送りたくない、それにつきた。
愛のない恋愛や結婚は不幸なのかもしれないが、愛されたことのない私には、愛がどんなものかはわからない。私が知っているのは、八つ当たりともいえる憎悪だけだ。私を押しつけられた祖母は、虐待ともいえる厳しいしつけで、その死の間際まで私の心身を傷つけ続けた。祖父は、私が祖母に預けられるずっと前に家を出て愛人と暮らしていた。会ったのは、祖母のお葬式での一度だけ。
「あいつに似て顔立ちばかりの嫌らしい娘だ」
その時祖父が私に向けて放った言葉は、祖母の怨嗟に慣れていた私には少しの傷もつけなかったが、祖母のお葬式に来ていた人たちを唖然とさせるには十分だった。
17歳で、進路に迷っていた私はその時決心した。自らの力だけで人生を切り開くのだと。今から思えば、どうしようもなく子どもで、愚かだったわけだが。
とにもかくにも、私は、当時の私にできる限りで中堅の公立大学に進学し、奨学金とアルバイト代でなんとか卒業までを乗り切った。
しかし、その時代に学んだことは、一人で頑張るよりも、程よく誰かに寄生した方が生活が安定するということと、私の容姿の利用価値がかなり高いということだった。
母のように奔放で愚かな女というレッテルを貼られないように、私は用心深く男を選別し、欲張らずに慎重に男に寄生した。見返りを求められることは何度もあった。しかし、決して与えなかった。どうしても、という男とはどれほど条件がよくても縁を切った。
そうやって、今まで身寄りのない女一人の生活を、程よく維持してきたのだ。
しかし、若さゆえの美貌が長続きしないものだということを私は知っていた。ある朝、鏡の中のわずかな陰りに気づき、私は結婚相談所の登録を決めた。
渡された用紙に記入したパートナーへの条件は、全てにおいて平均値だった。
なにごともあり過ぎてはいけない。嫉妬や妬みほど恐ろしいものはない。手に入れるものは、羨望を生まない程度にあればよい。
私の美貌は、それだけで十分に妬みをかう。できれば、それを相殺してくれる程度の条件のほうが望ましいくらいだ。
吟味に吟味を重ね、選んだ相手が小田だった。
本当なら、今日は結婚の詳細を決めるはずだったのに。
「彼女を巻き込みたくないんだ。恨むのなら僕だけにして欲しい」
真面目で身持ちが堅そう、彼の取り柄といえばそれくらいだったのに。なんということだろう。小田は、そんな身勝手な言葉だけを残して私をホテルのカフェに置き去りにした。
その日から、小田にはどんな連絡も通じない。彼の官舎に何度か足を運んだが、教えてもらっていた部屋の窓に明かりが灯ることは一度もなかった。
そんな時、何かの啓示のように、私は郵便物より多く詰め込まれているチラシの中に、少し離れた駅にある興信所のものを見つけた。インターネットで口コミを調べると良心的な価格設定で仕事も丁寧だと、まずまずの評判だった。
自分の惨めな様にまいっていた私は、さっそくそこに出向いた。
調査依頼表に必要事項を記入し、小田の現在の居場所と彼が心を移した女の身辺調査を依頼する。
穏やかな口調の太田と名乗る中年男性が担当者として応対してくれ、こう言った。
「簡単な案件なので、二週間もいただければ大丈夫かと思います」
「女性のことはなにもわかっていないのに?」
「あなたはどの魅力的な女性との婚約を破棄するほど惹かれた女性なら、その期間に一度や二度は会いに行くでしょう」
そうかもしれない。私は太田のお世辞に少しだけ気分を上向きにする。
「もし女性の影が見えないのなら、婚約破棄の理由は他にあるのかもしれませんね。その場合、そちらも調べますか?」
必要ないと、私は頭を振った。もし、他に好きな人ができたという小田の言葉が嘘だとしたら、おそらく、それは私の生い立ちを、彼もまたこんなふうに調べたからだろうと思った。あんな母、そして祖父母のことを知れば、誰だってその血を受け継ぐ女を捨てたくなるだろうから。
小田の居場所はすぐに分かった。彼は官舎を出て実家から、片道2時間かけて通っているらしい。
そしてちょうどニ週間後、太田は、谷咲百合という女性を見つけてきてくれた。小さなフラワーショップの店長で、皮肉なことに、小田が私の誕生日に贈ってくれたブーケを作ったのが彼女だという。
私は頭を抱えて唸り声をあげたくなった。
そのブーケのことはとてもよく覚えていた。花束をもらったことは数え切れないほどあるが、その薄紅を基調にしたブーケは、本当に素晴らしかったのだ。華やかさと上品さがほどよく調和していて、私は小田に心からのお礼の言葉を告げた。おまけにえもいわれぬ香りが漂うそのブーケに魅せられ、しばらく部屋で毎日愛でたのだから。そのブーケこそが何人かの候補から小田を選んだきっかけにもなっていた。
百合という女の写真も見せてもらった。
正直、驚いた。
美しい女だった。
決して華やかな美貌ではない。それだけを基準にすれば、私の方が優っている。私は、男に好かれるためにその華やかさを抑え楚々とした雰囲気を醸しながら生きてきたが、百合にはそういった作り物の気配が一切ない。隠し撮りされたさりげない表情なのに、とても目を惹く。私でさえ、魅入られたようにしばらくその写真から視線を外すことができなかった。
そんな私に、太田が言った。
「なんていうんですかね、写真では、この人のことを伝えることは難しいというか。お客さんの中には、彼女のことを花の女神と呼んでいる人もいましたよ」
太田のその言葉に、私は一瞬で逆上する。
女神ですって。ふざけるな。この女は、私からすぐそこにあった小さな幸せを盗んだ悪魔だ。私は心の中で彼女への罵倒を繰り返す。
その日から、薄青の封筒に入った報告書と写真を夜な夜な見つめながら、私は彼女に対する憎しみをどんどんと膨らませていった。
百合にふさわしい死を考えることが、不安定な今の私の精神を支えている。
ただ死ねばいい、とは思えない。じわじわと少しずつ苦しみと恐怖を与えてやりたかった。
妄想を重ねながら、私は百合に近づく方法を考える。まずは、フラワーショップの常連客になり彼女にじわじわと近づいていくことにする。報告書にあった小田の生活リズムを考え、彼とは鉢合わせをしない時間帯にこまめに店に足を運んだ。
百合はいつも穏やかな微笑みを浮かべていて、花を扱っているからなのか、とてもいい香りを漂わせてもいる。客は男女半々だが、性別にかかわらず彼女に惚れ込んでいる者も多いようだ。おそらくは、男はその容姿に、女はその腕前に。
何度も店で顔を見かける常連客も少なからずいる。
太田の報告にもあったように、彼女を女神のごとく扱う客もいる。そんな場面を見るたび、私の憎しみは募る。彼女は簒奪者だと、叫びたくなる。
私はもう、自分の内側がすべて憎しみで染まっているのではないかと思う。
楽になりたい。早く、少しでも早く。
じっくりじわじわ、などと言っていたら、こちらが内側から崩壊しそうだ。彼女を消し去りたい。一気に確実に。
その夜、私の殺意が固まった。
百合は週に何度も花を買いにくる私を、他の常連客と同じくらいには親しげな笑顔で迎えるようになっていた。
「いらっしゃいませ。今日はどんなものを?」
「いつもの予算で季節のブーケを作ってくださる?」
彼女は、白く可憐なスズランの花と珍しい緑系のクリスマスローズをテーブルの上で合わせる。派手さはないが、百合お得意の品の良い瑞々しい組み合わせだ。
私はこっそり嗤う。全てが終わっあとで、このブーケを彼女に手向けようと思いながら。
「素敵ね」
私がうなずくと、百合はテーブルに置いた白と緑の花々を器用にまとめ、セロハンで包み、上品な真紅と深緑のリボンを巻いた。ブーケの代金を払ったあとで、他に客のいないことを確かめ、私は百合に小さな紙袋を差し出す。
「手作りでお口に合うかどうかわからないけど、チョコレートはお好きかしら? よかったら召し上がって」
彼女は少し戸惑ったような表情を浮かべたが、私が笑みを絶やさず見つめていると、ためらいがちにそれを受け取った。
その瞬間、私は憎しみだけではなく、喜びも同時につま先から湧き上がってくるのを感じた。
「いつもきれいなお花で楽しませてもらっているから。ちょっとしたお礼よ」
きっと今は、綺麗に笑えているはずだ。
「ありがとうございます。もしお時間があるのなら、紅茶でも淹れますからご一緒にどうですか?」
百合はお店の一角にあるカフェテーブルに私を誘う。願ってもない提案だ。
これでこの目で彼女の死を確認できる。
私は、なるべくゆっくりとした動作でテーブルに移動した。
百合はお店のドアを閉め、休憩中の小さな看板を出す。この店ではたまにあることだ。スタッフが百合しかいないのだから。
百合がすぐに紅茶を用意してくれた。手作りのチョコレートも可愛らしいお皿に並べてくれる。
私は紅茶を一口飲み、百合の指がチョコレートを摘むのをじっと見つめた。
「目が覚めました?」
私は軽い頭痛を振り払うように周囲を見回した。
どうやらソファーに寝かされているようだが、まったく見覚えのない部屋だ。
しかも、私を覗き込んでいるのは、毒入りのチョコレートで死んでいるはずの百合。いったいこれはどういうことなのか。
「ここは、お店の上にある休憩室よ」
いつになく 、くだけた口調で百合が言う。
「気分はどう? 悪くないのなら家まで送るよ」
そう言ったのは百合ではなく、初めて見る若い男性だ。しかも、口が半開きになるほどの、美しい顔立ちの青年。この人には、きっと薔薇の花束が似合うだろうな、などと私はぼんやりと思う。
「落合雪さん、彼は、私の相棒で、レン。こう見えて、医師資格をもっているから、まだ身体に不調があるなら相談してみて」
「相棒? 医師? っていうか、どうして私の名前を?」
私は百合には偽名を使っていた。住所も電話番号もでたらめのものを伝えてある。
百合とレンは困ったような顔で、互いを見ている。
しばらくして、レンが口を開いた。
「小田真樹夫と君は、僕らのターゲットだったから」
ターゲット? と私はさらに首をひねる。
「俺たちは、M興信所の特集部門のスタッフで、ぶっちゃけて言うと、別れさせ屋、みたいな感じ?」
M興信所?
「それって」
つまり私は、自分が依頼した興信所に嵌められていたということ? もしかしたらあのチラシ自体が罠だった?
「依頼主は小田の母親よ。最初は、あなたの過去を洗って欲しい。つぎは、そんな女と息子との交際をやめさせて欲しいっていう依頼」
母も君との交際を喜んでいるんだと、小田は言っていた。なのに母親からそんな依頼を受けていたなんて。それに、仮にも興信所のスタッフだと言うのなら、誰から何を依頼されたかをこんなふうにペラペラしゃべっていいものなのか。守秘義務はどうなっている?
そんな私の心を読んだように百合が言う。
「これは、まぁ、仕事とはいえ傷つけたあなたへのアフターケアよ。私たちは、少々、あの母親にムカついていたしね」
「そうそう。僕は思うんだよ。君の生き方は、あんなクソばばぁに非難されるものではないとね。君は一人でよく戦ってきたと思うよ」
レン、たんまりお金をいただいたのだから、クソばばぁはダメ、と百合が嗤う。
「壊した僕らが言うのもなんだけど、君は小田とは別れてよかったと思うよ。あのクソ、いや母親の息子への執着は異常だ」
「よくもそんなことを、ぬけぬけと。お金で人の幸せを壊しておいて」
「まぁ、そうだよね。僕らは、君が手に入れようとしていたものを壊すことで報酬を得たのだから。でもね、君の場合、本当に別れて正解なんだ」
そう言いながら、レンは一枚の写真を私に手渡す。
そこには、富士山の見える花畑で、小田と彼によく似た年配女性が腕を絡めて写っている。しかもベアルックだ。
「どこでこんなものを」
「クソば、いや、母親のモバイルをちょこっと操作して画像をいただいた。これなんか無難なほうだから。この旅行のものだけで100枚以上のイチャコラ写真があるんだ。個室の露天風呂で寄り添っているのなんか、吐きそうになるから。見る?」
私は頭を振る。この一枚でお腹がいっぱいだ。
「だからね、私を殺したって意味なんかないのよ」
私はレンから百合に視線を移し、その眼差しの冷たさに震える。
私は愚かにも、自分が幾重にも騙されていたことを知り、動揺し、自分が百合を殺そうとしていたことを忘れていた。
「僕らは、君が、ネットで毒物を検索していたことも、それを手に入れたことも知ってる」
「あのチョコレートがどんなものかもね」
どうやらすべてバレているらしい。
「事情を知って、それでもまだ君が、彼女への殺意を消せないのなら、残念だけど、僕らは君を警察に突き出さないといけない」
彼女を殺したら、もうどうなってもいいと思っていた。警察に捕まることも覚悟していたはず。ただ、正直、百合への憎しみはかなり減った。弄ばれていたような悔しさは残るが、殺意はない。あの、クソばばぁと小田の写真を見たからだろうか。もしかしたら、このレンという男の常識外れの美貌に、箍が外れたせいかもしれない。
「あなたのことは嫌いだけと、もう殺したいとは思っていないわ」
「そう、よかった」
百合は、同じ冷たい眼差しのまま笑った。言葉とは裏腹に、私の殺意がどう転んでも、どうでもいいように。
「なら、僕たちも二度と君には関与しない。君は君で新しい人生を始めればいい」
そんな簡単に、許されるのだろうか? 明確にそこにあった殺意を。
「心配しないで。僕らは慣れっこだから。誰かの憎しみや殺意を受けることくらい。すぐに忘れて無かったことになる」
どうやら、彼らの仕事は私の想像以上にタフらしい。
「私も小田にはもう会わないわ。仕事とはいえ、あんな男の相手は、もうこりごり」
それはそうだろう。この百合と小田では、器が違いすぎる。
「明日の夜には、彼女の恋人として、小田くんをしっかり脅してくるから」
レンが笑う。 こんな常識破りの極上の男と比べられたら、小田のプライドも恋心も同時に砕けちるだろう。
「それで終わり。僕らは、小田親子はもちろん君の前からも消え去るから」
驚いたことに、このフラワーショップもたたんで、小田が私にしたようにすべての連絡先を断つらしい。もっとも、興信所のあるビルも、この店も彼女の名前も何もかもが虚構だというのだから、撤収の準備は初めから万端だったのかもしれない。
いいように踊らされた感は否めないが、それでも警察に突き出されずに済むという幸運を手放すわけにもいかず、私はこめかみを何度も押さえながら、ゆるゆると帰り支度を整える。
そんな私に、百合が今日のブーケを差し出す。今さらこんなものをと思うが、大好きなスズランの香りに絆され、とりあえず受け取る。
「念のためご忠告を。ブーケを浸けた水を口に入れたり、葉っぱや花を食べたりしないようにね」
「そんなこと、するわけがないでしょう」
どこまでバカにすればいいのか。殺意はなくなったが、腹立たしさは増す。
「スズランもクリスマスローズも実は有毒だから」
「え?」
「特にスズランは、青酸カリの15倍もの毒性を持つのよ」
15倍? あれの? 私の視線が、チョコレートを探してさまよう。
「水に浸けておくだけで簡単に毒を抽出できるから。あなたの調べたサイトには記載がなかったけれどね。そうそう、花粉にも気をつけてね」
私は慌てて、その甘い香りを味わおうと近づけていた顔を、ブーケから遠ざけた。
「リリィ、今回はアフターケアーに手間をかけたね。もしかして同属?」
レンは、リリィがどんな種を持ち生まれてきたのかを知らない。彼女の真名も知らない。呼び名からユリ科の何かだろうかと想像してみたり、今回の案件を見ていて、スズランなのかと思ったりはするが、どんな確証も持たない。
「同属ではないし、同属であってもそれが理由で手間をかけたりはしないわ」
太田の話では、クソばばぁ、小田ママから、結構な料金を巻き上げたらしい。しかし、それを依頼とはかけ離れた雪へのフォローに使うのはどうなんだろう? と思わなくはない。
雪にも同情すべき点はあったが、あの殺人チョコレートを作った時点で、レン的にはアウトだった。
けれど、リリィがアフターをやるのだと言えば、レンとしては従うだけだ。
「それに小田ママは、ちょっと厄介なんだよね。あの家系には、インペリウムがいるから」
レンは、まさか、と声を出す。
インペリウムとは、この世界を牛耳っている支配階級のことだ。彼らは、人々の種への無知を笑い、時にその種や芽を摘み利用して、本人にさえ気づかれずに人々を奴隷化している。
「雪は、発芽前のとても上質の種を持っていたから、インペリウムに利用されたら厄介なことになると思った。あの家に雪を入れるわけにはいかなかったの」
「信じられない。インペリウムが近くにいて、あの親子は、あんな愚鈍な振る舞いを?」
リリィは眉根を寄せる。
「小田ママは種を失っているわ。おそらく子どもの頃にインペリウムに抜かれたんでしょうね」
それを聞いた瞬間、レンは無意識に胸をかきむしる。自分もまた、その寸前だったのだ。レンのいた養護施設は、見目麗しい子ども、才に抜きんでた子どもを、養子縁組と称して、定期的にインペリウムに引き渡し報酬を得ていた。レンも7歳でインペリウムに売られた。抜きんでた容姿が良い種の証だと判断されたからだ、とリリィに聞いた。
人は種を抜かれても、発芽前なら死ぬことはない。だから、彼らは、面倒ごとを避けるため、発芽前の確率の高い子どもを狙うことが多い。彼らは種を培養し研究し利用する。そして種を失った子どもたちを死ぬまで使役する。自分たちで種を抜いておきながら、種を持たないものは、人ではないと笑うのだ。
「小田は種を持っているけれど、種を持たない母から生まれたから、その種の生命力はとても弱い。だから、放っておかれたんでしょうね」
「今さらだけど、あの時、助けてくれてありがとう」
レンの言葉にリリィは笑う。
「私じゃなくてローズよ。あなたを助けたのは」
確かに、レンを救ってくれたのは、リリィが13歳で立ち上げた組織、アンテイアのハッカーであるローズだ。彼女がインペリウムのある研究所のネットワークをのっとり、たまたまそこに送られていたレンを助けてくれた。けれど、そのローズを救ったのは、リリィだ。
リリィは、5歳の頃にはすでに自分が種を宿していることを知っていたらしい。そして8歳の誕生日にそれが芽吹いたことを自覚し、それがどんな意味を持つのかを悟ったという。同時に、他人の種の属性が分かるようになったともいう。
特別な、本当に特別な人だ。
彼女は、その能力を使命と感じ、インペリウムからアンノウンと呼ばれている種の知識を持たない人々を救うために生きてきた。
レンやローズのように救われたことで、彼女の仲間になった者は多い。だからこそ、リリィは地下に潜り、今は目立った活動を控え、小さな救いを続けている。守るべき者たちが増え、仲間が彼女の足かせになっている。
「そういえば、彼女はスズランだったの?」
今回、リリィは、いくつかある隠れ蓑のうちの一つ、小さな興信所を利用して落合雪を救った。彼女は救われたとは思っていないだろうが。
しかし、これはリリィが出張ってくるような案件ではなかったはずだ。たとえ、小田の家系にインペリウムがいたとしても。
リリィは否定したが、雪とリリィは同じスズラン属ではないのか。そうじゃないのなら、なぜ、リリィはスズランにこだわったのか。最後のブーケもスズランだった。
「いいえ、彼女はスズランじゃない。彼女はスノードロップよ。春を呼ぶ素敵な花。気づけば、ずっとしあわせになれるのにね」
リリィは、目を細めうっすら笑う。
「レン、知らない方がいいことはあるのよ。わかっているでしょう?」
それはリリィのスズランへのこだわりなのか、今回のスノードロップへの過ぎたアフターケアのことなのか。
レンは彼女を命の恩人だと思っている。姉のように慕ってもいる。仕事のパートナーとしては尊敬もしている。
でも、時々怖くなる。儚げで、それでいてこんなふうに毒々しい笑みを見たときは。
スズラン
スズラン亜科スズラン属。原産地はアジア、ヨーロッパ。花期は4月〜5月。観賞用に多く栽培されているものはヨーロッパ産のドイツスズランである。日本に野生するスズランに比べると大型で花の香りが強い。
花言葉は、溢れ出る美しさ、希望、幸福の再来、純愛など。フランスには、5月1日にスズランを贈る風習がある。和名は君影草。谷間のひめゆりの別名もある。
スノードロップ
ヒガンバナ科ガランサス属。原産地はヨーロッパ。花期は2月〜3月。
花言葉は、希望、慰め、逆境の中の希望、恋の最初のまなざしなど。春を告げる花として有名だが、ある地方では人の死を象徴する花でもある。和名は待雪草。