デートに挑戦
お立ち寄り下さりありがとうございます。
今日も、神秘を感じさせるマスターの美貌を前にしながら、麻里はカウンターでカフェオレを堪能していた。
恐らくマスターは少量のスパイスも入れてくれたのだろう。じわりと体が、そして心も温まる感覚に疲れが解れていく気がして、麻里はうっとりと瞳を閉じた。
けれど、その癒しの時間は、隣から放たれた透明感のある声により、終わりが告げられた。
「麻里さん。デートをしましょう!」
麻里の隣には、もはや、「いつものように」という表現がおかしくなくなった尚人が今日も腰掛け、やはり「いつものように」カフェオレを味わっていた。
輝きが似合う大きな瞳が、今日も輝いて麻里をじっと見つめている。
麻里の脳裏には尻尾を振るコリー犬が浮かび上がったものの、このコリー犬はその可愛さが曲者だ。
可愛さに負けて尚人に流されないようにと、心にメモ書きをしてからカップを置いて彼に向き直ると、彼はにこりと笑顔を浮かべた。
その爽やかな笑顔は、そのまま広告に使えそうなものである。
「僕に惚れてもらうには、僕のことを知ってもらわないと始まりません。残念ながら、麻里さんは僕に一目惚れしてくれませんでしたからね」
尚人は一瞬マスターに鋭い視線を向けた。
確かに、初めてマスターを瞳に映したとき、魂を奪われるような美しさにあっさりと魂を奪われたが、だからといって、マスターに一目惚れをした訳ではなかった。
しかし、麻里はそれを口に出すことはやめておいた。
麻里が特に異議を唱えなかったことを、尚人は見過ごさなかった。
「どこ行きたいですか?」
間髪、麻里は答えた。
「本屋さんに!」
尚人の整った顔が微妙に歪む。
「麻里さん。そこに行って、新しい僕を知ってくれるとは思えないのですが」
澄んだ声が幾分淀んだものになっていた。
「あ――」
落ち着いてみれば当然の指摘に、麻里は口に手を当てた。目の前のマスターはそっと顔を背け、肩を震わせている。
「ドライブはどうですか?」
即座に立ち直った尚人が、大きな瞳で迫ってくる。
麻里は頷くべきか迷ったところ、深い声が響いた。
「麻里ちゃん。無理はだめだよ」
麻里は乗り物酔いがひどい。学生のころ、友達との遠出は酔い止め薬に頼って敢行し、そして現地で横になっていた。
付け加えるならば、その失敗をマスターに聞いてもらっていたのだ。
マスターから事情を教えられた尚人は、勢い込んでいった。
「麻里さん。本当に腹立たしいですが、こればかりはマスターの言う通りです。無理をして僕の魅力が分かってもらえるなら、とっくに分かってもらえていますよ」
気遣いがあるのか、自分の目的に一途なのか、麻里は小さく笑いだしていた。
そして次の土曜日――、
「さぁ、行きましょう!」
爽やかな笑顔、爽やかな声、爽やかな出で立ちと、爽やかで身を固めた尚人と、いつも土曜は午前中に起きられた試しのない、生気の薄れた麻里は、「デート」をしていた。
眠気で靄のかかった麻里の頭は、人生初の「デート」に緊張する感覚もなかったのだが、結婚を意識した二人が街に繰り出すのだから、「デート」はデートである。
今日のデートは、「映画を観る」ことで落ち着いた。
映画館までの道を歩き出し、ふと、尚人が足を止めた。
つられて足を止めた麻里に、コリー犬と化した尚人は大きな瞳を期待に輝かせた。
「デートですから、手をつなぎませんか?」
「すみません。今日は、遠慮させていただきます」
眠さで固まっていた麻里の頭はようやく回り始めた。恋人でもない男性と手をつなぐことは、麻里の眠気を吹き飛ばす困難さだった。
萎れてしまった尚人にどう声をかけようかと、麻里がさらに頭を回したとき、通りのお店から流れる曲が耳に入ってきた。
この曲は――
バラードに相応しい甘い響きを帯びた声が、終わった恋を宝物のように歌い上げている。
麻里は尚人を見上げた。
「私、尚人さんのこの曲、好きです。疲れた時に聴きたくなって、聴いています」
眼鏡越しに見える尚人の大きな瞳が、幾度も瞬いているのが分かった。そこまで驚かれることだろうか。
「素敵な曲をありがとうございます」
作った本人に言えるなんて、自分はとても幸運だ。
麻里からふわりと笑みが零れると、尚人は横を向いて「直球は30代でも堪える」と口元に手を当てていた。
珍しく無口になった尚人と人込みをすり抜けて、映画館にたどり着いたとき、麻里は沈黙を破った。
「尚人さん。今更なのですが、謝っておきます。ごめんなさい」
「え?」
尚人の目が丸くなる。後ろめたい思いで麻里はその目を見つめた。
「好みの映画だと、本でなくても私は帰って来られません」
映画に決まったとき、すぐに思い当たったのだが、そこに決まるまであまりにも麻里の都合で尚人の希望が立ち消えていたため、麻里は言い出せなかった。
麻里を密かに咎めるマスターの視線も無視してしまったのだ。
尚人が気を悪くするだろうと、尚人の言葉に身構えていると、尚人の口がぽっかり開いた。
「あ、そういえば僕も流れている音楽が気に入ると、入り込んでしまいます」
二人は顔を見合わせ、「まぁ、ここまで来ましたし」と謎の納得をお互いにして映画館に足を踏み入れたのだった。
お互いの納得があれば後は順調に思えたけれども、観る映画について、麻里と尚人の間で、若干の攻防があった。
「絶対にホラーは嫌です」
「麻里さん!『吊り橋効果』ですよ!ホラーでドキドキすれば、僕にときめくじゃないですか!」
「尚人さんのことが怖いと刷り込まれるかもしれません」
「……」
麻里は断固としてホラーは観ないことにこだわった。いくらコリー犬が悲しそうな瞳をこちらに向けても、いくら麻里が尚人の希望をこれまで没にしていても、無理なものは無理なのである。
「私は、ホラーの世界に入ってしまうのは嫌です。トイレに行けなくなります。電気も付けっぱなしです。夜も眠れなくなります。ずっと尚人さんのことを恨みそうです」
いくら子どもっぽいと言われようと、無理なものは無理なのである。
本の世界に入り込む麻里には、ホラーの世界も現実として麻里に迫ってくるものなのだ。
「絶対に、無理です」
麻里が顔を強張らせて断固拒否すると、尚人は眉を少し寄せて苦笑した。
「すみません。ホラーは諦めます」
引き下がってくれた尚人に、麻里が感謝の笑顔を向けると、尚人はすかさず言葉を続けた。
「僕は麻里さんの意見を大切にしますよ。僕にぐっと来ませんか?」
調子のよい尚人に、麻里は肩を竦めた。
果たして、思わぬ紆余曲折を経て、何とか映画を観終えた二人の仲が深まったかどうかといえば――、
「聞いてください!マスター、ひどかったんです!」
興奮冷めやらぬ麻里は、マスターに思いをぶつける。
「始まって20分もしないうちに、主人公たちはくっついたんですよ。いきなり「好きです」ってヒロインが告白して!もう、もどかしさどころか、甘いセリフも、切なさも、何もなしです!」
二人が観たものは、ファンタジー冒険映画だった。
冒険ものは嫌いでもないが好きでもない麻里だったが、前評判は高く、幾分かロマンスもあるということを耳にし、そのロマンス分に期待していたのだが、世間の「幾分」と麻里の「幾分」は大きな隔たりがあったらしい。
いつもの麻里なら、会って数時間で求婚してきた尚人への配慮を見せて、もう少し遠回しに不満をぶつけたはずであるが、今の麻里にはその余裕がなかったようだ。
目を細め口角を上げて、麻里の不満を受け止めたマスターは、尚人に視線を向けた。
尚人も待っていましたとばかりに、口を開く。
「あり得なかったですよ。最後の敵と対面したときに、突然『実は自分の剣は、この敵を倒す力が授けられている』ですよ?冒険する必要がなかったんですよ!」
二人はその後も不満を次々と繰り出し合っていた。
マスターは口元を緩め続けながら、二人にカフェオレよりも穏やかなティーオレを出していた。
お読み下さりありがとうございました。
ゆっくり更新でお手数をおかけしています。
何とかペースを上げたいです。
皆様、よいお年をお迎えください。