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マスターと尚人の違い

お立ち寄り下さりありがとうございます。

大きくはないけれど、それでも耳にすっと入り込む、そんな心地よいカウベルの音に、尚人は眉間にしわを寄せた。


全く、こんなところまで麻里さんの好みに合っていそうだ。


店内はやや暗めの照明になっている。それでも尚人はすぐに常連の客の顔を見つけられた。

もはや顔なじみとなっている相手から、声をかけられたのだ。


「おや、お兄さん。こんな時間にお店に来られるのかい?」


白髪がいやに粋なアイテムと化している山田さんが楽しそうに尚人を見る。

向かい側に座っている村本さんも、尚人の中ではいわば山田さんと一組で記憶されている。

尚人がこのお店に来た時に、二人が向かい合っていなかったことがないからだ。


今日の二人は携帯型のチェスを持ち込み、楽しんでいたところらしい。

チェスに詳しくない尚人にはどちらが優勢なのか分からなかった。そして二人の趣味も分からなくなってしまった。

――先日二人が持ち込んでいたのは囲碁だったのだが。

あまりこだわりはないのだろうか。


二人の趣味についての疑問はそのままにして、一先ず尚人は二人に軽く会釈をして、目指す場所に進んだ。

カウンターの奥には、逃げも隠れもせず、目指す相手が佇んでいた。

尚人の人生で出会った、間違いなく最高の美貌の持ち主は、微笑みを浮かべて尚人を待ち受けている。

これほどの美貌で、よく普通の日常生活を送れているものだと感心するばかりだ。

はっきりと顔に書かれてある尚人の不満は、笑み一つで受け流された。


「いらっしゃい」


深みのある声がゆったりと出迎える。


ああ、全く、顔だけでなくこの声にも麻里さんはうっとりしていたな。


尚人の眉間の皺がさらに深まった。

そんな尚人を見て、マスターはくすりと笑った後、視線でカウンターの椅子の一つを勧めてきた。

憮然としながら椅子に座り、そして尚人は溜息を吐いた。

椅子は座り心地の良さを追究されたもので、文句のつけようがなかったからだ。

今日、店内を流れている曲はジャズだったが、これも本当に腹立たしいが尚人の好みに合っていた。


ここまでくると嫌味の域だな。


尚人は髪を掻き上げて、とうとう降参し、早速、本題に入ることにした。


「あなた、一体どうして麻里さんにあんなことを言ったんです?」


単刀直入な尚人の問いに、マスターは驚くこともなく、カフェオレを淹れる手を止めることもない。

腹立たしさを溶かしてしまう、豊かな香りが漂い始める。

それでも尚人はまだこの気持ちを溶かすことに抵抗を見せる。


「マスター、あなたは、別に麻里さんのこと、好きでも何でもないでしょう?」


目の前の美貌に、初めて動きが生まれた。

長いまつ毛越しに尚人を見る瞳には、悪戯めいた光が走った。


「君にはそう見えるのかい?」

「――なっ!そこから始めるつもりですか?馬鹿にしないでくださいよ」


今まで数々の恋を味わってきた、――そして敗れ去ってきた――、尚人は憤然とする。


「どう見たって、せいぜい、妹ぐらいにしか思っていないじゃないですか」


幸いなことにマスターからは麻里に対する恋情の匂いは全くしない。穏やかな海の様に麻里を包み込んでいる、いわば保護者のようだ。

マスターはカップにカフェオレを注ぎ終えて、穏やかな視線を尚人に向けた。


「尚人君、僕の思いが『妹』へのものかどうかは置いておくとして」


無駄のない優雅さすら感じさせる仕草で、カップを差し出され尚人は抗議する機会を失ってしまった。


「どうして君がそこまで怒るんだろうか。君は麻里ちゃんを『妹』としてすら見ていないだろう?」


はっきりと自分のことを棚に上げていると突き返され、尚人は唸るように切り返した。


「僕は彼女と結婚したいから、求婚した」


そうだ、マスターは別に結婚など欠片も考えていなかったはずだ。そこが尚人を苛立たせている。

自分がどれほどこの出会いに感謝していると思っているのだ。

正直、自分にとって結婚の最後の機会だと思っているのに。

なりふり構わず、すべてをさらけ出して彼女にぶつかっているのだ。その場の成り行きで入り込まない欲しい。


「なるほど」


予想に反して、深い声が尚人の苛立ちをあっさりと受け止めた。


「尚人君。僕は確かに誰かと結婚しようと考えたことはなかったよ」


何のためらいもなく尚人の言葉を認めたことに、尚人が目を見開くのを見て、マスターはその美貌に笑みを添えた。そして、笑みを柔らかなものに替えて、ゆっくりと話を続ける。


「麻里ちゃんは、かれこれこのお店に7年ぐらい通ってくれている。僕は7年彼女を見守ってきた。」


7年前、恐る恐る初めてお店に足を踏み入れた麻里ちゃんは本当に可愛かったよ、と目元を緩め、付き合いの長さを尚人に緩やかに突き付ける。

突き付けられたものは、付き合いの長さだけではなかった。

奥深い思慮を感じさせる瞳が、すっと尚人を見据える。


「色々なことに器用でない麻里ちゃんは、もう僕にとって大切な存在なんだよ」


――せいぜい『妹』――ではくくれないのだと、柔らかく、しかしはっきりと尚人に突き付けてきた。


「尚人君は、出会いがあるかどうかは別として、君の音の世界を許してくれる相手であれば、麻里ちゃんでなくてよいのだろう?」


出会いの有無を別にされることは、尚人には受け入れにくいものがあったが、結論は変わらない。

尚人自身が明らかにしたことである。

不承不承頷く尚人に、苦笑を返しながら、ゆったりとした深い声に微かな強さを秘めて、マスターは彼の結論をぶつけてきた。


「僕はね、結婚する気はないけれど、結婚するとしたら、他の誰でもない麻里ちゃんがよいんだよ。麻里ちゃんがその気になってくれればね」


しばらく視線を向けあった後、尚人は冷えてしまったカフェオレに口を付けた。

懐かしさを感じるような美味しさを味わいながら、呟いた。


「引く気はないってことか」


いつものゆったりした声が、その呟きに返事をした。


「選ぶのは麻里ちゃんだよ」


お読み下さりありがとうございました。大変、期間の空いた更新になり、本当に申し訳ございません。

この間にお立ち寄り下さいました方、ブックマークを付けて下さいました方、誠にありがとうございました。

ゆっくりな更新になりますが、進めていく予定です。

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