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結婚の条件

お立ち寄り下さりありがとうございます。

彼は堰を切ったように話し始める。


「僕が結婚相手に求めることは、ただ一つです。僕が音の世界に入っても、気にしないことです」


愛情や信頼といった麻里が思い浮かべる、結婚相手に対して世間一般的に求めるものに比べて、随分、相手に求めるものが小さい気がした。


誰でも良いということなのでは?


麻里は首を傾げた。

そんな麻里の疑問を見透かしたように、尚人はもどかしそうに顔を歪めた。


「僕は今まで曲作りに没頭するたびに、恋人に去られていたんです。恋人といるときでも、恋人と話している最中でも、――大事なときでも、曲が浮かんでしまって、そこから抜け出せなくて」


彼は過去を思い出したのだろう。眉を寄せ、深々と嘆息する。

少し息を吐いた後、すっかり見慣れた爽やかな笑みを浮かべた。


「音の世界から抜け出したときには、即座に別れを切り出されたことも、既に別れの置手紙をされて姿が消えていることも、何度もありました」


彼の瞳に陰りはないように見えるけれど、麻里は、一瞬胸が痛んだ。

彼のことは知らないことがほとんどだが、麻里に「結婚」と直球で押してくる姿から、遊びで気軽に付き合う性格ではないと思われる。

ここまで別れを吹っ切るために、彼が向き合った痛みの数が伝わった。

――それほど恋人がいたのかと、驚いたことも事実だが。


恋人がいたことのない麻里には現実とは思えない世界での苦労だ。


麻里が、哀れなわが身とかけ離れた世界に思いを巡らしていると、爽やかな声が麻里の思考を遮った。


「ですが、麻里さん。あなたなら僕が曲に没頭していても、怒ることはないでしょう」


彼の瞳が煌めいた。

散歩を期待してこちらを見上げるコリー犬のような彼の熱のこもった声と笑顔を見る限り、お詫びすべき相手を放り出して本に没入した、先日の麻里への嫌味ではないと思えるものの、麻里は再び羞恥に頬が熱くなってしまう。

彼は礼儀正しく、言葉はそこでとどめていたが、顔には「むしろ、喜ぶのでは?」と器用に問いかけていた。

居たたまれず、麻里は口を開いた。


「あの、尚人さんが仰る通り、尚人さんが曲に没頭しても、私は怒らないかもしれません。でも、別に私でなくてもそういった人はいると思うんです」

「そんなわけないですよ」


尚人はテーブル越しに身を乗り出し、麻里の手を掴んだ。


「麻里さん。麻里さんがせっかく僕に長めの2文も話してくれたのに、なんですが、

現実は甘くないんです。断言します。

どこかに確かに麻里さんのような人がいても、その人との出会いを待っていては僕の人生は終わってしまうでしょう。麻里さんとの出会いは奇跡です」

「大げさでは――」

「麻里さん。僕の実体験を軽んじないでください」


尚人の眼差しには力がこもっていた。

麻里は胸を衝かれた。

彼の発言は今までの別れから来るものだ。恋の別れを1度も経験していない自分が、口にしていいものではなかっただろう。


「ごめんなさい。確かに尚人さんの体験を軽んじたことになりますね。申し訳なかったです」


尚人は瞳を緩め、それからふわりと笑みを浮かべた。

愛らしく感じるその笑顔に麻里がたじろいでいると


「麻里さん。僕たちはこんな風に話し合って理解を深めていけます。結婚しても大丈夫です…!」


この人のこの積極性をもってしても、今までの恋人たちと別れることになったと思うと、確かに現実は甘くない。

麻里はしみじみそう実感した。

少し遠くへ彷徨った麻里の意識を、爽やかな声が引き戻す。


「さぁ、僕と結婚しましょう」


頬を上気させ、熱を帯びた瞳を潤ませ、こちらをひたと見つめる彼に、撫でてもらうことを待っているコリー犬が重なり、麻里は思わず頷きかけ、そんな自分に気づいてのけ反った。


だめ…!このままでは流されて結婚に同意してしまう…!


恐るべし、コリー犬。本当にあと少しで同意するところだった。

冷静になってみれば、同意などとんでもないことだ。

麻里は尚人の様に恋にうんざりしてもいないし、結婚に諦めもない。

可能性は低いと分かっているが、恋でなくともせめて穏やかに心を通わせるような出会いがあるかもしれないと思っているし、温かな家庭にだって夢がある。


焦った麻里は助けを求めるように、隣で端然とお茶を味わっているマスターを見つめた。

麻里の視線を受け、笑みを含んだ流し目をくれる。くらりとするような色香に焦りも吹き飛び、一瞬、惚けてしまった。


そして、ふと、妙案、いや、結婚するにあたり当然の事が麻里の頭によぎった。


マスター、ごめんなさい。後で心から謝ります。


マスターの神秘的な瞳を、麻里は謝罪を込めてひたと見つめた。

眼差しの意味が伝わらなかったのだろう、マスターはクスリと笑って麻里の頭を撫でる。

罪悪感から目を逸らし、尚人を見遣ると、彼は微かに眉間にしわを寄せ、僅かに口をとがらせている。

33歳という年齢を疑う可愛らしい仕草に、再び悶えそうになりながら麻里は覚悟を決めた。


「分かりました。尚人さん。結婚します」


正面の尚人だけでなく、隣のマスターからも息を呑む音が聞こえた。

尚人の瞳が輝き罪悪感に囚われる前に、麻里は言葉を続けた。


「マスターよりあなたが好きだと思えたときに、結婚します」


尚人の身体がピクリと動いて、そして固まった。

隣のマスターの反応は恐くて見ない。


「尚人さんからの愛情は諦めます」


チクリと胸が痛んだ。

こんな美形を相手におこがましいと思うけれど、愛し愛されたいという希望は麻里の中に確かにあった。

けれど、条件に合うというその一点にかけて求婚をする尚人に愛を望むのは、それこそ人生が終わってしまうだろう。

恋人のいたことのない麻里の女性としての魅力は、推して知るべしだ。

麻里は尚人の愛は諦めた。

だけど――

姿勢を正して、自分をじっと凝視する尚人の瞳を、麻里は意思を持って見つめた。


「せめて、私が尚人さんを好きになるくらいは諦めさせないでください」


ここは譲れないところだ。

相手からの恋も、――いや、恋とは呼べない気もするが――、想いも、尚人が不要だと思っているのなら、ここではっきりと尚人には諦めてもらう。

麻里は目を丸くする尚人から視線を外さなかった。

目を瞬かせ黙考し、すぐに答えをくれない尚人に、残酷な誠実さを感じて、そして不思議なことに胸が微かに軋むような気がして、麻里は苦笑を浮かべた。


そのとき、珈琲の香りが麻里を包み込んだ。

マスターの長い腕が、麻里をしっかりと抱き寄せ、抱きしめていた。


「麻里ちゃん、僕を忘れないでおくれ」


軋んだ胸に、深く艶のある声がするりと入り込んで、麻里の苦笑を溶かしてくれた。

マスターの温もりが優しく麻里に伝わり、気が付かない内に強張っていた体から力が抜け、麻里はそのまま素直にマスターに体を預けていた。

マスターの長い指が麻里の頭を撫で、そのまま麻里の頬を包んで麻里を見上げさせた。

魂を奪われる心地がする美が優しく麻里を迎える。

知性を感じさせる形の良い薄い唇が、ゆっくりと開いた。


「麻里ちゃん。僕は麻里ちゃんが僕に本気になってくれたら、結婚を申し込むよ。僕に本気になってくれないかい?」



お読み下さりありがとうございました。話はここから始まるところですが、一旦、投稿を休みます。

もう一つ投稿している話の第1部が書き終わってから、こちらの続きを書こうと思っています。

一月ぐらいの予定です。よろしければ、また一月後にお立ち寄りいただければ、有り難い限りでございます。

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