コリー犬の売り込み
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屋敷と呼ぶにふさわしい住宅が軒を連ねる閑静な住宅街。
大きな屋敷ならでは威圧感が通りに溢れている。
立ち並ぶ屋敷の中で、庭を広めに取っている近代的なデザインの建物のドアが勢いよく開いた。
「よく来てくれました。麻里さん、大歓迎です」
目を輝かせて、この屋敷の持ち主、尚人が出迎える。
白のシャツとジーパンというごくありふれた服装なのに、彼の満面の笑顔がその着こなしをセンスのあるものに引き上げている。
眩しいまでの彼の笑顔を見て、麻里の脳裏に、尻尾を振り切れんばかりに振って飼い主に飛びつくコリー犬が浮かんだ。
麻里は、後ずさりかける足を何とか堪えて、尚人の家に足を踏み入れた。
彼との衝撃的な出会いと求婚をされてから、1週間。
延々と続く彼の求婚の言葉を止めるため、気が付けば彼の家に遊びに行く約束をさせられていた。
限りなく見ず知らずに近い尚人――彼の苗字すらまだ知らない。知っていることはミュージシャンということぐらいだ――彼の家に遊びに行くことは、普段の麻里なら考えられないことだったが、彼との結婚よりは十分考えられることになってしまったのだ。
「麻里ちゃん。大丈夫。僕がいるよ」
背後で、深みと艶のある声がそっと降ってきた。
25歳にもなって恥ずかしい話であるが、マスターに付いてきてもらっている。
一週間前、閉店を告げながらマスターは自ら付き添いを申し出て、その場を収めてくれたのだ。
「あの、お口に合うといいのですが」
麻里は、幾分、頬を強張らせながら、手土産を差し出した。
「これはご丁寧にありがとう。でもそんな堅苦しいことは要らなかったのに。いずれ麻里さんも住む家に――」
「尚人君、麻里ちゃんと選んだ手土産は、緑茶が合うと思うよ」
ゆったりとマスターが恐ろしい発言を遮ってくれる。
尚人の顔が一瞬凍りついたのを見て、麻里は慌てて話に乗ることにした。
「お好みがわからなくて、羊羹にしてみたんです。甘いものは大丈夫ですか?」
尚人は再びコリー犬と化し、顔を輝かせた。
「麻里さんが初めて僕にくれたものです。できることなら本当はずっと飾っておきたいです」
甘いものが苦手なのか、大丈夫なのかよく分からなかったが、少なくとも尚人は困ってはいないようだと、麻里はコリー犬からさりげなく視線を外した。
そんな麻里の様子を気にすることもなく、彼はお茶を手際よく淹れ、手土産の羊羹を切り分け小皿で出してくれた。
麻里はお茶に口を付けて驚きに目を瞠った。
すっきりとした味わいの中に、お茶の渋みが残っている。香りも爽やかに立ち上り、とても飲みやすく美味しいものだった。
「美味しいです」
心からの呟きだった。
尚人は目を瞠り、口元に手を当て、横を向いた。
しばらくそのまま動かない。
麻里は狼狽えてマスターに視線を向けると、マスターは眉間にしわを寄せ、眼差しは恐ろしく冷たく、尚人をじっと見据えている。
麻里が同じ表情をすれば、見るも無残なものだが、さすが芸術の域に達している美貌は違う。不機嫌の美というものを体現していた。
尚人はその珍しい美に全く気付かないまま、頬を赤らめてポツリと囁いた。
「麻里さんから初めて褒めてもらえたのが、胸に迫って」
麻里は慌てて尚人の赤らんだ頬から目を逸らして、羊羹を口にし、その上品な甘さに悶えた。
麻里は甘いものが少し苦手なところがあり、麻里が美味しく思える羊羹は限られている。
麻里の好みをよく知っているマスターの助言に沿って選んだこの羊羹は、麻里には絶妙な甘さだった。
感動と感謝をマスターに目で伝えると、彼は慈愛の美を表現してくれた。
麻里には見慣れた表情なのに、薄っすら頬が熱を持ち、慌てて俯いて羊羹を見つめた。
クスリと小さな笑いが耳に届いたとき、正面から澄んだ声が焦ったように投げかけられた。
「麻里さん。僕は料理が得意なんです。今日、晩御飯を食べていきませんか?」
「いえ、お構いなく。そんな長い時間、お邪魔はできません。それにマスターの――」
「麻里さん。この家には僕一人で住んでいるんです。麻里さんが泊まる部屋ならいくらでも」
麻里は激しく手を振って、断る意思を見せるものの、尚人は堪えた様子もなくたたみかけてくる。
「麻里さん。僕って優良物件だと思うんですよ」
え?
麻里は、暫くの間、目を瞬かせ言われたことを反芻した。優良物件?
「この家は別にローンなどなく、完全に僕の家です。麻里さんが信用できないなら、謄本をお見せしますよ。抵当権などありません。
つまり、住むところは確保できているわけです。」
一週間前、是非家に来て欲しいと彼が言ったのは、これを言うためだったのかと麻里は呆然とした。
尚人の先週の求婚は、ぶつかった衝撃で冷静な思考が吹き飛んだための発言だったのではないかという自分の期待が、無残に裏切られる予感がし始めていた。
そんな麻里を置き去りにして、彼は熱く語り続ける。
「僕は貯えもあります。会社員の生涯年収分ぐらいの貯えです。贅沢を望まなければ、充分、暮らしていけます。
もし、麻里さんが信用――」
「尚人さん!私、結婚なんて無理です!」
一週間前より踏み込んだ尚人の怒涛の攻撃を、麻里は叫んで遮った。
尚人は瞠目し、音が出るほど急に息を吸い込み、そして固まった。
大きな声で驚かせてしまったのかと、麻里が不安に思った時、
「初めて、名前を呼んでくれましたね…」
瞳を潤ませ、今度は耳まで赤く染めている。
おかしい――。
常識では、この怪しい反応から逃れるべく、今すぐここを立ち去るべきだと確かに思っているのに、
尚人の潤んだ大きな瞳と触り心地がよさそうな髪の毛のせいだろうか、
コリー犬が構って欲しくて自分をじっと見つめているのを無視している気にさせられる。
理不尽な罪悪感に麻里は眩暈を覚えて、マスターの袖をつかんでしまった。
マスターは麻里の頭を撫でながら、深い声を響かせてその場の空気を支配した。
「尚人君。どうしてそこまで結婚を急ぐんだい?」
それは麻里も不思議に思っていたことである。
「優良物件」の尚人なら結婚相手は選り取り見取りのはずである。しかも尚人は男性であり子どもを産むために結婚を急ぐ必要もない。
尚人が結婚を急ぐ理由が本当に分からなかった。
マスターの視線を浴びたためか、さしもの尚人も笑顔を収めた。
「僕は33歳を過ぎたんです。正直、惚れた腫れたは、もう、充分です。お付き合いよりも結婚です」
爽やかな声で告白された理由に、麻里は目を瞬かせた。
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