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同志

お立ち寄り下さりありがとうございます。

「美味しい」


手際よく出されたカフェオレを一口味わった彼から、思わずといった風情で声が漏れた。

麻里は俯いて微笑を隠し、搾りたての果汁を味わう。怪我も忘れてのんびりとした時間に浸り幸せな心地がしてくると、またもや仄暗い思いが蘇ってきた。


いつもならここで本を取り出して、至福の時が完成するのに…


よこしまな考えを必死に抑え込もうとしたとき、深い声が横から響いた。


「麻里ちゃん。手当をしよう」


カウンターからこちらにやってきたマスターは、救急箱を抱えていた。

ピクリと隣の彼が動いたのを感じる。また痛ましい表情になってしまっているだろうか。

マスターの大きな手が、要領よくそして優しく麻里の額を消毒し、傷口をガーゼで覆ってくれた。

あまりの心地よさに、目をつむってしまっていた。


「縫わなくて大丈夫でしょうか。傷が残らないか心配です」


背後から彼の不安そうな声が聞こえる。目を閉じて初めて気が付いたが、彼の声も素敵だ。マスターと違って透明感のある声だ。


「傷は浅かったし、小さいから縫わなくて大丈夫だよ。ガーゼにしたのは剥がすときの痛みを少なくしたいからだ」


身体に沁み込むような深い声がゆったりと答えている。

マスターの余裕を持った答えに、背後の彼から力が抜けたのを感じた。

どうやらここに連れてきた甲斐があったようだ。

麻里には時々マスターにできないことがあるのか、真剣に疑問に思うことがある。


マスター、さすがです。


微笑を浮かべてゆっくり目を開くと、穏やかな茶色の瞳が迎えてくれた。

近距離の美貌に年甲斐もなく俯いてしまう。


クスリと微かに笑う声が降った後、マスターはまたカウンターに戻っていった。

うう、この大人の余裕がずるい。

顔まで赤くしながら、麻里は何とか果汁の香りに集中して平静を取り戻した。

そして少し息を吸い込んでから隣の彼に向き直った。


「ご心配おかけしました」


彼は一瞬虚を突かれたようだったが、その後、初めて笑顔を見せた。

今までの陰りを帯びた顔と対照的に、どこまでも晴れやかなその顔に、麻里は束の間見惚れてしまった。

怪我と彼の動揺に気を取られ、しっかり彼のことを見ていなかったが、人目を奪うほどの整った容姿の持ち主だ。

頭は小さめで、職業がモデルと言われても驚かない。

くっきりとした目鼻立ちは精悍な印象を与え、男性らしさを感じる美を作り上げている。

大きな瞳は爽やかさを感じさせ、笑顔がとても似合う面立ちにしている。


彼の笑顔が放つ衝撃から立ち直った麻里は、彼の具合を確認しようと口を開いた。

けれど、彼の動きの方が速かった。

ガバリと勢いをつけて麻里に頭を下げ、即座に頭を戻した。

驚いて固まる麻里にピタリと視線を合わせ、彼が言った言葉は麻里の驚きをさらに増した。


「すみません!忘れないうちにどうしても…!」


彼はいきなり鞄からタブレットとイヤホンを取り出し、端末用のペンを握りしめた。

起動する画面に映ったものは、楽譜である。

…楽譜?

よく分からないが、その画面に向かって彼は小さく口を動かしながら、ペンを置いていく。


「曲を作っているようだね」


小さく抑えた声でマスターが麻里に教えてくれる。

では、自分は作曲の瞬間というものに立ち会っているらしい。

麻里は目を丸くした。

彼は目を閉じて、微かに頭を上下させながらペンを打ち込み、やがて、身動き一つしなくなった。


もうペンすら要らなくなったのか、それとも何か途中で曲が止まってしまったのだろうか。

どんな理由にせよ、今、彼は麻里の怪我を、麻里の存在も忘れていることは確かだった。


麻里は5分経過するまでは待った。時計を6度も確認したけれど、とにかく待つことに成功した。

そして、5分経ったとき、満面の笑みを浮かべて鞄から本を取り出し、18世紀の世界へ飛び込んだ。


マスターの微かな笑い声が空気を震わせたが、カウンターの二人にはもはや届いていなかったのである。


麻里は後に思うことになる。

彼とぶつかったことで、運命が変わり始めていた。

けれど、このとき猫を被り続けていれば、穏やかな生活が乱れることはなかったのだ。

この判断が運命の分岐点だったと…。


お読み下さりありがとうございました。

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