気遣いは本当に無用です
お立ち寄り下さりありがとうございます。
「こんなところにお店があるなんて知らなかった…」
背後でぼんやりと彼が呟くのが耳に入った。
「ああ、確かに見つけにくいかもしれませんね。看板がないですから」
駅から徒歩5分なのに、商業ビルに入っているのではなく、戸建てを改築した店構えなのだ。一見すると庭が見事な広い平屋の家にしか見えない。
「どうやって珈琲屋だと分かったんですか?」
「いい香りがしていたので」
少し笑いがこみ上げたのを、何とか抑えながら麻里は答えていた。
初めは麻里も立派なお宅だと見過ごしていたけれど、毎朝漂う珈琲豆を焙煎する香りに疑問を持ち、足を踏み入れてみてお店だと分かったのだ。
懐かしい思い出に浸りながら、ドアを開けると
カランカラン
花の模様が刻まれた銅でできたカウベルが澄んだ心地よい音で出迎えてくれる。
お店にはボサノバが音量を控えめにして流れていた。
ざっと見たところ、お客さんは二人しかいない。どちらも麻里とは顔なじみの常連客だ。
「おや、麻里ちゃん、今度は血まで出ているじゃないか」
綺麗な白髪が印象深い、山田さんが目を丸くしている。
向かい合っていた村本さんが山田さんの言葉にこちらを振り返り、同じく目を丸くした。
「おやおや。今日は派手にやったんだねぇ」
「ええ、今回はちょっと派手にぶつかってしまって…」
恥ずかしいことだけれど、麻里がどこかにぶつかることは、このお店ではもはや全く驚かれない。
麻里が本に浸って痣を作っているのは、毎度のことなのだ。
ただし、自慢ではないが、いや自慢にはならないけれど、人にぶつかったのは今回が初めてだ。今までで一番多くぶつかってきたのは街路樹だ。
もし街路樹に記憶と意思があるなら、麻里はそこら中の街路樹に警戒されているだろう。
山田さんたちに恥ずかしい日常を暴露されるのは、やや居心地の悪い思いもするが、今は大助かりでもある。
彼に、「よくあること」と納得してもらえるだろう。
恥ずかしさを堪えながら、背後を振り返ると、彼は痛ましそうな顔を見せている。
え?効果なし?
麻里は内心、少し焦りを覚えた。
強引に彼をここに連れてきたのは、本に浮かれた麻里が物にぶつかることはよくあることで、それを知っている人たちの反応を見て、安心してもらうためだった。
残念ながら、目論見は外れてしまったらしい。
困りながらお気に入りのカウンターを見遣ると、今日も泰然とマスターが待ち構えてくれている。
相変わらず、俗世を忘れさせる美貌だ。
どこか西欧の血が混じっているのか、彫りの深い顔立ちに、暗めの店内では一層浮き立つ肌の白さが美を醸し出している。麻里が一番見惚れるのは長いまつ毛に縁どられたその瞳だ。
茶色にも見える瞳は、穏やかさと深い知性を感じさせ、ずっと見ていたい気持ちに囚われる。
歳は尋ねたことがないけれど、この落ち着きは恐らく40歳ぐらいだろうとにらんでいる。
なんにせよ、麻里がこれまでの生涯で出会った最高の美貌である。
美貌に加えて、マスターの醸し出す雰囲気が、さらに美を引き立てているのだ。
近寄りがたい厳かで清らかな空気の中に、ぞくりとするような艶が含まれている。
一度出会ったら生涯忘れられない存在だろう。
いつものことだが、麻里は珈琲の香りを味わい、マスターの究極の美しい顔と空気に触れると一日の疲れが抜けていくのを感じる。
今日は、頭の痛みまで抜けていくようだ。美の力は素晴らしい。
マスターは麻里を見て、一瞬、麗しい眉を顰めた後、冷蔵庫に向かいお絞りに包んだ即席の氷嚢を用意してくれた。
「麻里ちゃん、本の世界に浸ることはいいとして、歩く速度は落とさないといけないよ」
深みのある声が麻里を包み込んだ。
そう、この声も麻里の好みなのだ。
うっとりとその美声に酔いそうになるのを何とか踏みとどまり、彼をカウンターに案内した。
彼はマスターの美貌に衝撃を受けたのか、またもや呆然としている。
その様子に少し可愛らしさを覚えて、麻里は微笑を浮かべた。
「麻里ちゃん、今日はグレープフルーツを絞ったよ。怪我をしているからね」
そっと置かれたグラスには、爽やかな香りが沸き立つようだ。
優しい心遣いに、思わずいつものように心の声が口を突いて出てしまう。
「マスター。惚れてもいいですか」
ふわりと笑って麻里の本音を躱しながら、マスターは彼の方に視線を向けた。彼は麻里の本音にのけ反って目を丸くしている。
「君は何を飲むかな?」
深みのある美声に我に返った彼は、メニューを見た後、ぽつりと注文した。
「カフェオレを」
このお店で麻里が大好きな一品だ。
牛乳もマスターが最寄りの牧場に頼み込んで朝に少量仕入れに行くこだわりあるものだ。
麻里は、会社が休みの日には、この牛乳を目当てに朝から通うこともある。
嬉しくて笑顔で彼を見てしまった。なぜだかまた目を丸くした彼に声をかける。
「ここのカフェオレ、私は大好きなんです」
彼は麻里の迫力に呑まれたように、小さく頷いていた。
どうも麻里は彼を驚かせてばかりいるようだ。
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