スタジオに衝撃が走る
お立ち寄り下さりありがとうございます。
時間がほんの少し戻ります。
目の前に置かれていたスマホが振動し始めた。持ち主である尚人は目を閉じ、寝ているようにしか見えないが、長年の付き合いがある寿史には尚人がメロディの直しに入っていることが分かっていた。
つまり、今の尚人はスマホの振動に気づくどころか、その存在すら、もしかすると自分たちの事すら消え去っているだろう。
寿史は眉を寄せた。
「一応」、休憩中だが、どうするかな…。
そんな寿史の躊躇は不要だった。
尚人はあっさりと自分のスマホに気が付き、手に取る。
少し離れた所でコーヒーを飲んでいた信二がほっと息を付いたところを見ると、彼も尚人のスマホを気にしていたのだろう。
尚人は「入り込む」と寿史たちの声すら聞こえなくなってしまう。スマホの音などさらに聞こえないだろう。だから、尚人はレコーディングの前には、番号を知っている友人にレコーディングの日程を伝え、それとなく受信しないことを教えているのだ。
そこを割り切る人間しか尚人の友人として残っていないはずだが、――昔は果敢な彼女もいたが――、この時期に尚人にかけてくるということは緊急の可能性が高い。
そのようなわけで、寿史も信二も尚人のスマホが気になっていたのだ。
あれ、そういえばスタジオなのに電源を切っていないな。
寿史はふと違和感を覚えた。
元々、スマホに意識が向くこともない尚人だが、振動や光で万一にも集中が削がれることを嫌って、自宅のスタジオでもいつもはスマホの電源を切っている。というよりも、スマホを持ち込むこともここ数年なかったはずだ。
いつもと違う尚人は、さらにいつもと違う行動を見せた。
スマホの画面を見て、一瞬、眉を顰めた後、「少し外す」と寿史たちに声をかけて、スタジオから出ていった。
寿史は唖然としてそれを見送り、閉められたドアを2秒は見つめた後、ゆっくりと信二の方に目を遣った。信二はまだドアから視線を外せないでいる。
尚人はスタジオに入ると、納得がいくまでスタジオにこもり続ける。それは、文字通りの意味でこもり続けるのだ。仲間として付き合わざる得ない寿史たちは、曲作りだけでなく、スタジオにこもり続ける尚人に最低限の食事を取らせることも仕事になるのだ。
尚人が自宅にスタジオを作ってからは、一層、その傾向が強まった。食事も尚人の口をこじ開けて取らせる羽目に何度も陥っている。初め、寿史は自宅以外ということであれでも尚人が遠慮していたことを知り、愕然としたものだ。
そんな尚人があっさりスタジオから出たのだ。
もう「信じられない」という言葉を使うしかなかった。
そして――、
「すまない!今回のレコーディングは延期してほしい。僕に最大の機会がやってきたんだ!」
目を輝かせ、声を弾ませ、尚人が勢いよく戻ってきた。
あの尚人が、曲作りを中断…
視界に映った信二は、こぼれんばかりに目を見開いている。
寿史はつばを飲み込んだ。水を飲んで気を落ち着けたいが、楽器を濡らさないようにペットボトルは離れた小机に置いている。信二がいる場所だ。単なる偶然とは百も承知だが、信二が羨ましかった。
今、自分には水が必要なのだ。切実に。
現に、信二からコーヒーを飲み下す音がした。
そんな寿史たちの様子に気を留めることもなく、尚人は楽譜と楽器を片付け始めた。
「この機会を逃すと、もう結婚できないかもしれない。せっかく集まってもらったのに本当にごめん」
きらきらとモデルのような笑顔を見せて、屈託なく謝る尚人に、寿史は「頑張れよ」と何とか声をかけることに成功した。ちらりと目を遣った信二はまだ目を開いたまま、言葉を出すほどに頭が回る気配がない。
「今度、埋め合わせに奢る!何でも奢る!」
元々、驚愕の衝撃で不満など抱いていないが、こんな爽やかな笑顔で言い出されては、毒気も抜けてしまうだろう。寿史は苦笑いを浮かべた。
「俺は焼肉だな。もちろん食べ放題で」
「僕は寿司だ」
信二も立ち直ったのかと目を向ければ、その顔はまだぼんやりしている。食い意地から反射で答えたらしい。寿史は笑いをこらえた。
そんな二人にもう一度眩しい笑顔を向けて、尚人は飛び出していった。
スタジオには奇妙な沈黙が訪れた。
信二が再びコーヒーを飲み下し、ようやく口を開いた。
「惚れてはなさそうだが、本気で狙っているんだな」
「だな」
尚人は寂しがり屋だ。信二も寿史も何度も恋人にのめり込む尚人を見てきた。
だから、今の尚人が恋愛の熱を持っていないことは分かっている。恋に囚われた尚人は、表情も切なげでどこか遠くに思いがあることを隠さないが、何より曲にも鬱陶しいぐらいに思いが滲み出て、信二も寿史も曲の良さを考えてもう少し抑えてくれと頼むことが多々ある。
今の尚人は楽しそうな表情で、曲も明るく、穏やかなものが多い。
恋でないことは分かるのだが…、確かに分かっているのだが…、
信二はまだ呆然とした様子で呟く。
「あいつ、惚れた相手でも、こんな事したことないだろ?」
「ない」
信二は簡潔な寿史の答えに、気を悪くするでもなく、話し続けた。
「これで麻里ちゃんとやらが別の男を選んだら、あいつ、どうなるんだろう」
寿史は簡潔な答えすら返せなかった。
尚人は、経済力や容姿を除いても、同性から見ればいいやつだ。
前向きで、その行動力は周りも巻き込む。けれどもそれは周りをよく見たうえでの、強い意志を持つ前向きさだ。
恋愛では、その強さは、相手に自分の全てを見せて、想いを向ける形になっていた。相手に受け入れられれば、真摯に、全身全霊をかけて尽くしている。――音が尚人を捉えない間は。
尚人の体質ともいえるべき、一つの欠点で尚人は傷を負っていく。相手に全てを見せて向き合うから、傷は深い。
けれども、尚人の欠点も仕事の観点からすれば、褒められるべき長所になるものだ。
寿史は尚人に報われて欲しかった。
寿史の密かな願いもむなしく、尚人が恋愛を諦めたことを宣言してからずいぶん経ち、もう尚人が傷を負うこともなくなったが、寿史には尚人の眼差しにどこか冷めたものが混じることを感じる。
これも歳を取るということなのかと、寿史もほろ苦い諦めを抱いたが、ある日、尚人は「結婚できそうな相手を見つけた」と、弾むような声で報告してきた。久々の純粋な明るさに、寿史は喜んだ。――話を聞くうちにそれが恋愛の意味ではないと知り、複雑な思いもしたのだが。
尚人と同じ「欠点」を持ち、尚人の欠点を気にしない女性。
尚人が恋愛を諦めていないときに出会えていたら――、仕方のないことを思ってしまう。
そして、恐れも抱く。
恋情はないものの、今までの尚人の行動を変えるほど、尚人はこの出会いに全力で挑んでいる。
信二の言う通り、この女性に選ばれなかったとき、尚人の傷はどれだけのものになるのだろうか。
寿史は勝手なことと承知しながらも、見たこともない女性につい願ってしまう。
金でも顔でも、お情けでも、気まぐれでも、理由は何でもいいから、尚人に落ちてくれないか、と。
彼女が落ちてくれれば、きっと、尚人は…
寿史は立ち上がり、水の入ったペットボトルを手に取り、喉に落ちる水の心地よさに意識を巡らせ、膨らみ続ける手前勝手な願いを頭から消すことにした。
お読みいただきありがとうございました。
皆さま、よいお年をお迎えください。