マスターの伝言
お立ち寄り下さりありがとうございます。
あ…、この重さは…。
麻里は普段は何とも思わないシャワーヘッドを重く感じた。そして、ようやく一つの事実に気が付いた。
気が付いてみれば、色々なことが腑に落ちた。
今朝は朝から体が重かった。金曜日で疲れがたまっていると思い過ごしたけれども、朝から熱はあったのかもしれない。
何より、気が付くべきだったのは、マスターの淹れてくれたココアを飲むのが苦しかったことだ。いつもなら、お代わりを頼むかどうかを悩むほどなのに、一杯を飲み切るのが辛かった。
あの時は、マスターの眼差しに動揺して、飲めなくなったと思い込んでしまったのが、間違いだった。大馬鹿だった。マスターのココアはどんな時でも美味しいのに。
マスターがわざわざ飲みやすい濃さにしてくれていたのに、飲めなくなるなんて、――いくらあの艶めいた――
それ以上は今のぼうっとする頭では、向き合うことができず、麻里は目下の重要な問題に意識を向けた。
冷凍庫にはグラタンとリゾットの冷凍が2個ずつあったはずだ。
棚にはレトルトの雑炊も2個ある。
ポカリの買い置きもある。
つまり――、
二日は寝込んでも何とかなる状態だ
そこまで確認して、麻里は覚悟を決めた。
熱を測ろう。
体温計が冷たく感じる。
この時点で、麻里の長年の経験では熱があることは確定していた。
そして、長年の経験は裏切らなかった。体温計の数字を見て思うことは一つだった。
見なければよかった…。
身体の重さが一気に増した。ベッドに横になることを体に許すと、重さは更に増していく。
二日で治るだろうか、そんな不安もぼんやりとしか浮かばず、ただ苦しい。
麻里の霞がかった世界に、小さく音が鳴った。
枕元に置いたスマホだ。
この体調なら無視しても許されると思いつつも、何とか手を伸ばしたのは、かけてきた先に心当たりがあったからだ。
画面は麻里の予測が正しかったことを示していた。
唾を飲み込み、のどを潤してから、麻里は着信に応えた。
「はい。麻里です」
「今、何度なのかな?」
深く染み入る声は、優しく麻里の虚勢を跳ねのける。
いつもなら、麻里も即座に陥落するところだが、マスターは明後日から海外での予定が入っている。心配させたくはないし、看病に来てもらって移してもいけない。
麻里は抗った。
「マスター、心配しすぎです。単に金曜日で疲れが―」
「麻里ちゃんが前回ココアを飲むのが辛そうだったときは、38度5分だったね。その前の時は38度7分でインフルエンザだった。さらにその前は――」
やはりマスターに勝てるはずもなかった。相手の心と体の機微を読み取り、出す品を変える人なのだ。加えて、マスターとの付き合いは長い。弱った麻里に勝てる相手ではない。
麻里は直ぐに白状する。
「38度5分です」
「よくできました」
優しく心地よい声が麻里の告白を受け止めてくれた。
弱った体と心に、その声はいつも以上に沁み込んでしまい、麻里はそっと目を閉じた。
深い声は少し柔らかな笑いと共に、麻里の目を開けさせた。
「いつものように僕が看病したいけれど、今回は僕の代わりを飛びついた彼に頼むことにしたよ」
…?彼?
ぼんやりした頭に、疑問がゆっくりと浮かんだ時、チャイムが鳴った。
重い体では早く歩けず、テレビドアホンにたどり着いたときには、画像が消えてしまっていた。
再生させようとしたとき、ドア越しに爽やかな声が響いた。
「麻里さん。僕は病人食も得意ですよ!」
病とは対極の爽やかな気配に、麻里は一段と体の重さが増した気がした。
マスターの心遣いはありがたくも、人選は少し恨めしく思っていた。
お読みいただきありがとうございました。
長らく投稿をしなかったために、Covid-19が広がっている今の状況ではあり得ない
(今の状況なら麻里は断固として尚人の看病も断る)話になっていますが、
フィクションの小説ということでご容赦いただければと思います。
他の話の番外編の合間に、少しずつ投稿したいと思っております。