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麻里の溜息

お立ち寄り下さりありがとうございます。

 ドアを開け、カウベルの音を聞いた後、麻里は微かに目を見開いた。

 珍しく、マスターの今日の選曲はクラシックだったのだ。

 それもヴィヴァルディ。どことなく明るく華やかな曲調がお店に小さく流れている。

 

 今日は金曜日。

 会社に勤め始めてから、麻里にはこの曜日が救い主に感じることがある。そして、今の麻里は正しく救いを感じていた。仕事が遅くなり、もうお店にはお客さんが誰もいない。

 お店に明かりが付いていたからドアを開けたものの、閉店時間も少し過ぎていた。

 

 それでも、マスターはいつも通りこの世の美を体現しながら、麻里を迎えてくれた。


「今日は待ち望んだ本はないのかな?」


 いつもなら金曜日は、――金曜日でなくても、というところはさておき――、カウンターに座るのも待ち遠しく本を取り出す麻里が、ぼんやりしていたためだろう。疲れた彼女の頭と体に染み込むように、カウンター越しに声が掛けられた。

 

 慌てて、疲れをごまかそうと一瞬笑顔を作り、こちらをひたと見つめる眼差しに出会って、麻里は笑顔を諦めた。

「ないんです」

 特に目の前の美に動きはなかったけれど、マスターに自分への心配が過ったことは、長年の付き合いで分かってしまった。自分の手を見詰める仕草で、できる限りさりげなくマスターから目を逸らした。


 今日の麻里は、朝から少し体が重かった。

 そして、そんな日は仕事のミスを犯しやすいと自分でいつもの倍は注意を払ったつもりだった。結果として仕事にはミスはなかった――と思う。

 けれど、注意を払った分、作業のスピードは落ちてしまう。さらに、元々折り合いの悪い上司と、やはり折り合いが悪いことを実感させられることが起きたりして、この時間までかかってしまったのだ。体が更に重くなった気さえする。


 待ち望んだ本があれば、マスターのところまで気持ちを引きずることなどなかったはずだが、悪いことは重なるものだ。今日に限って本がない。いや、鞄には、既にヒロインのセリフは暗唱できるまで読み込んだ本が入っているが、この疲れを押し切るほどの引力はなかった。


 溜息を飲み込んだ麻里の目の前に、そっとカップが置かれた。

「今日はココアにしたよ。牛乳を多くしたから、麻里ちゃんに飲みやすいと思う」


 穏やかな深い声と立ち上る湯気に、麻里は体の力が抜けるのを感じた。

 ようやく、優しい香りに気が付く。そして、出されたカップが、以前、麻里が可愛いと身悶えした花の模様が入ったものだとも気が付いた。

 何だか目まで熱くなってしまい、慌てて麻里はカップを両手で包み込み気を紛らわそうとした。包んだカップは、ココアが心地よい熱さで用意されているのを伝えていた。


「マスター。惚れそうです」


 マスターがくすりと笑い、美しさに輝きを増した。心が洗われるような美に、麻里の疲れた気持ちは流されて行く。そんな麻里の頬に長い指が優しく触れた。


「おや。本気で惚れてくれないのかい?」


 くらりとするような艶を感じて、麻里は頬に熱を持つのを感じた。

 麻里の動揺ぶりを見て、ほんの僅かに口の端を上げ、頬から指をゆっくりと離した後、マスターは話を変えてくれた。


「尚人くんは、今日は来ないようだね」


 マスターの配慮を内心で感謝しながら、麻里は頷いた。

「レコーディング中だとメールが入っていました」

 いつものように目を輝かせ、コリー犬と化した尚人が思い浮かぶような文面だった。結びの一文は「会えない時間に僕を好きになったら、言ってくださいね」だった。

 思い出して微かに口元が緩み、気が付けば言葉が溢れ出ていた。

 

「私は、贅沢なことを言っているんでしょうね」

 

 マスターは優しい微笑みを浮かべ、続きを促した。


「きっと、尚人さんから結婚を申し込まれたら、喜ぶ人はたくさんいると思うんです」

 マスターは眉を僅かに寄せた。

「恋人の段階で離れていかれたのに?」


 ……。


 麻里は一瞬詰まってしまった。確かに、喜ぶ前にそもそも結婚の話までたどり着かなかったから、今がある。けれど、麻里が今言いたかったのは、少し違う。

 咳払いをして立ち直ると、麻里は何とか言いたいことを言葉にした。


「もし、尚人さんと出会ったのがお見合いの席だったら、私は結婚していたのかもしれないです。恋愛を求める状況ではないと始めから考えると、尚人さんのことを悪い人ではないと感じて…、結婚を考えたのかも…。私の意見を意外と大事にしてくれるし、私の本への思いも分かってくれるし…」

 

 コリー犬だし、という言葉は、ほのかなココアの香りを吸い込んで堪えた。

 そして麻里はカップに目を落とし、呟いた。


「尚人さんの言う通り、恋などなくても一緒に暮らしていくことはできるのかも…」


 家族以外の人と暮らすとき、どんな関係なら暮らすことができるのか、麻里には想像がつかなかった。本に囲まれていればそれだけで満たされる麻里には、結婚はあくまで憧れだった。遠い世界の話のような、自分に縁のないことだった。

 尚人の人柄を知るにつれ、結婚を現実的に考えられない麻里は、せめて自分は尚人を好きになりたいという望みが、独りよがりが過ぎるのではないかと罪悪感を覚えてしまう。

 

 答えが見つからない迷いに、沈み込みそうな気がしたとき、深い声が麻里を心地よい空間に引き戻した。


「麻里ちゃん。実際の出会いはお見合いではなかったんだ。今のところは、尚人くんのことを迷うほどに親しくなってきている――、そこまででいいんじゃないのかな」


 マスターは麻里の隣に美しい身のこなしで腰を下ろし、両手で麻里の顔を包み込んだ。

 長い睫毛に縁どられた茶色にも見える瞳は、穏やかな湖のようで、麻里は自分が凪いでいくのを感じた。

 

「結婚は長い付き合いの始まりだ。覚悟を決めることに、疲れも焦りも禁物だよ」


 優しい言葉に麻里は思わず瞳を閉じていた。クスリとマスターが笑いを漏らした気配がした。マスターにつられてほほ笑みながら、ゆっくり瞳を開こうとしたとき、耳元に艶やかな声が落とされた。


「でも妬けるね。麻里ちゃん。僕とのことは迷ってくれないのかな?」


 その艶めいた声に僅かな本気を感じ、驚きに目を見開くと、出迎えた穏やかな湖の瞳にも艶が添えられていた。

 今まで見たことのない艶に、麻里はただその瞳から目を逸らせずに見入ってしまった。

 

 どれぐらい瞳を見つめていただろう。


 艶めいた瞳の先が、麻里の瞳から唇に移したのを感じ、麻里は息を呑んだ。

 その気配にマスターは僅かに口の端を上げ、瞳を伏せて、麻里の呪縛を解いた。

 そして、優雅な動きでカウンターに戻りながら、明後日から豆の買い出しに海外へ行く話を始めた。

 麻里はしばらくお店がお休みになることへの寂しさを伝え、いつも通りマスターは目元を緩めて微笑みを返してくれる。

 

 いつもの穏やかな空気が戻り、麻里は安堵しながら、それでも、先ほどのマスターの瞳を受けた自分の唇が、熱を持っているのを感じていた。


お読みいただきありがとうございました。どれぐらい久しぶりの投稿か確認するのが恐ろしい状況でした。

立ち寄って下さった皆様に、申し訳なさと感謝の思いでいっぱいです。ゆっくりにも程がある状況ですが、投稿を続けていきたいと思います。

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