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尚人の溜息

お立ち寄り下さりありがとうございます。

もうすっかり耳に馴染んだ、心地よいカウベルの音を聞きながら、尚人は店に足を踏み入れた。

 そして、いつも通り、定位置に座っている常連に会釈する。

 今日の山田さんと村本さんは、なんとトランプに興じていた。

 その古典的な選択を眺めながら、もはやこの二人の趣味の範囲に驚くことはやめようと、尚人は心に決めた。

 

 そして、またいつも通りにカウンターへ足を運ぶ。

 尚人も常連に部類するほどこの店に通っているが、まだマスターの美貌に一瞬たじろいでしまうことも、いつも通りのことだ。


 穏やかな笑顔で迎えたマスターが、カフェオレの準備をしながら、ゆったりと声をかけてきた。


「今日はどうしたんだい?少し浮かない顔だよ」


 尚人は軽く頷いた。

 彼はこの店に来ることを決めた時点で、ごまかすことも隠すことも諦めていた。

 今の自分は、確かに気が滅入っているのだ。

 だから、ここに足を向けたといっていい。


 ふわりと漂い始めたコーヒーの香りを楽しみながら、尚人は小さく呟いた。


「麻里さんは、いい子ですね」


 先日、ようやく初デートにこぎつけた尚人であったが、当初の目的である、「自分を深く知ってもらう」ことは、恐らくほとんど、いや、素直に認めるなら、哀しいほどに全く達成されなかった。


 逆に、尚人が麻里の新しい一面に触れたことが、初デートの結果だった。


 マスターが美しい眉を僅かに上げた。


「おや、ようやく気が付いたのかい?」


 尚人は頷く代わりに目を閉じた。


「世間とあまり交わってないせいなのかな、こう…、すごく、真っ当な、まっさらな感覚なんですよ」

 

 麻里が示す、感謝も喜びも、困惑も、一切、駆け引きがない。

 全て心からそのまま取り出されていた。

 下心に塗れた自分とは大違いだ。


 尚人は溜息を付いた。

 差し出されたカフェオレの湯気が、溜息で揺れてしまう。

 少し、カフェオレに申し訳なさを感じ、尚人はカップを自分から遠ざけた。


「出会うのが、後5年ぐらい遅ければよかったのかな」


 マスターが視線一つで先を促す。


「もっと、結婚にも恋愛にも、現実というものを考えてくれるようになってくれていれば――」

 

 その先を尚人は心の内で呟いた。

 

 こんな罪悪感を抱かなかったのに――

 

 麻里にとって人生で初めてのデートの相手が、彼女に惚れる気がない、都合がいいから彼女を選んだ男だったことに、尚人はじわりと嫌悪を覚えていた。

 

 背もたれにもたれて、大きく息を吸った。

 三十を過ぎた人間は、罪悪感から目を逸らす経験も豊富だ。

 尚人は話を進めた。


「まぁ、彼女を落とす手段が思いつかないから、5年ぐらいかかるかもしれないです。

 何しろ、僕の顔でも靡かないし」

 

 ちらりと目の前の芸術の美を睨むと、芸術の美は微笑みというものがいかに美しいものであるかを教えてきた。

 尚人は横を向いて、独り言ちた。


 こんな顔を7年も見ていれば、どんな顔にも心を動かされないのだろう。

 全く、ついていない。


「僕の経済力にも全く頓着しなかったし」


 これも想定外だった。本の世界で満たされているためなのだろうか、物欲のすべてが本と本を読む時間に回っている人間には、経済力も意味がないようだ。

 砂漠を3日彷徨っている人間に金を見せるような、手応えのなさだった。


「5年経っても距離が縮んでいない気すらする」

 

 尚人はもう一度大きく溜息を付き、やっとカフェオレに口をつけた。

 今日もほっとさせる美味しさだ。こだわりの牛乳とスパイスが効いているのかもしれない。


 彼女を落とすのに最適な手段は、薄々、分かってはいる。

 けれど、今の尚人はそれを認めることはしたくなかった。

 恋にも結婚にも夢がなくなった自分には使うことのできない、その手段しかない気がすることも、意識から締め出した。


「まぁ、デートを重ねるしか今のところ手がないです。今度は、距離を縮めるのは諦めて、本屋さんデートで彼女を喜ばせるだけにしてみますよ」


 それならば、罪悪感は薄らぐ。何しろ彼女が喜ぶことは目に見えている。

 きっと、目を輝かせて本に食いついているだろう。


 鮮やかにその時の麻里の様子が目に浮かび、思わずくすりと笑いが漏れた。

 ゆったりとした深い声が、尚人の笑いに入り込んだ。


「いいと思うよ。麻里ちゃんは、本棚に並んでいる本のタイトルだけで感激して、色々話しかけてくるから、意外と会話ができるはずだよ」


 ――え?


 マスターの言ったことが意味するものを理解したくない尚人に、深い声がそっと言葉を紡ぎ続け、否が応でも理解させられることになった。


「本屋さんでデートするのを諦めた麻里ちゃんが、悲しそうに見えたからね。僕が代わりに連れていったんだよ」


 ガチャンと音を立ててカップを置き、やおらスマホを取り出し麻里に連絡を取る尚人の姿を見て、マスターはそっと横を向き、肩を震わせていた。

お読み下さりありがとうございました。

新年初めての投稿です。皆様の新年が素敵なものでありますようお祈り申し上げます。

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