魔女はサイコロを振らない
足を止めた途端だった。
「やあ、きみが話に聞く私の審問官かね? 時間通りとは感心だ」
背後から声を掛けられて、思わず歯噛みしてしまう。気づけなかった。
ロンドンの片隅、うずくまったカエルのような車が黒煙を吐きながら走る、大きな木を中心としたレンガ敷きのロータリー。柱時計は指定された時刻、14時53分を示している。
私の目をかいくぐって背後についた"魔女"は、少女といって差し支えない外見をしていた。
私の胸ほどしかない身長、栗色の大きな瞳。飴色の髪をポニーテールに結い上げて、シャーロックホームズを彷彿とさせるようなベージュのベストやパンツに黒いマントを羽織っている。前留めのカフスは大きな金で、生命樹の文様が刻まれていた。
己が魔女だと喧伝するような、奇異な姿だ。
彼女は顎に手を当てて、にやにや笑う。
「どうやら、きみたちも私を当てにしていないようだね。まだ若く未熟な審問官ひとりを寄越すとは、"魔女"か否か、見誤ってしまっても構わないという寸法か。いや、賢い選択だよ。私は"魔女"とはいえ、常道の"魔女"とは異なるからね。きみたちにしてみれば、『毒にも薬にもならない』」
ぺらぺらとよく回る口だ。
「口数の多い魔女だな」
「皮肉を言うなら、その色眼鏡を取ってからにしたまえよ」
反論の言葉をぐっと飲み込んだ。彼女の言は一理ある。
すい、と道のひとつを指差しながら、飄々《ひょうひょう》と言う。
「歩きながら話そうじゃないか。私は暇じゃないが、語る言葉は惜しまないよ」
ロンドンも外れまでくれば、下町の風情を残している。人々が帽子を目深にかぶり、足早に行き来する陰鬱な姿は嫌でも戦時中であることを思い起こさせる。
戦時下において再び起こった"魔女狩り"の時代。 我が国はそんなアナクロニズムに染まるほど、のっぴきならない情勢に追い込まれている。
そんな時世に、魔女を標榜する非常識。
私の前を歩くこの女だ。
そして、彼女の真偽を糺すことが、審問官である私の役目だ。
「しかし何だね」
女は人混みを縫うように進みながら私に笑う。
「きみはつくづく、間の悪い男のようだ」
「どういう意味だ」
渋面に浮かんだ皺を揉み解す。表情が出やすいのは審問官として失格だと、常々上司に言われている。
女は楽しそうに肩をすくめた。
「確かに私はいつでも来て構わないと言ったし、その言葉を翻すつもりはない。だがね、これから私はマフィアと交渉に行くのだよ。ちょっと非合法な秘薬が必要になった」
一瞬、言っている意味が分からなかった。
「な……っ!?」
「きみは警察じゃないだろう? 調査権もなければ逮捕状も訴求できない。ましてや、きみたちの審議に関わる以上、きみの調査資料は証拠にならない。私は困らない。巻き込まれるきみが不幸なだけでね」
言葉が出ない。
まったくの図星だった。私の存在はこの女の不利にならない。
「お前は、自分が魔女のつもりなんだろう」
「ああ、そうだよ。君たちの認める"魔女"の定義とは外れるがね」
ぬけぬけと追認する。
戦時下に"魔女"を探しているのだ。"魔女"と認められたものがどのような運命をたどるのか、彼女とて知らないはずがない。そのうえで飄然とひけらかす。
愚かなのか、それとも魔女ゆえの超越した感性なのか。
「魔女だというなら、魔術を見せてくれないか」
「くくっ」
女が肩を震わせる。
「面白い審問官もいたものだ。魔女に魔術を見せろだって? きみ、普通の魔女がそう言われて素直に魔術を見せると思うかね」
道理だ。彼女は正しい。
だが、この場合は私もまた同じく正しい。
「お前なら見せるだろう」
女は目を丸くした後、楽しそうに声をあげて笑った。周囲の人々がぎょっとして注目するが、彼女の装束を見るとすぐ興味を失って歩き始めていく。この女の評判は本物らしい。
「なるほど然り、相手によりけりか。確かに私個人としては、きみに見せるのもやぶさかではない。だが私の魔術は、残念なことに、見せてわかる類ではないのだよ」
すい、と人差し指をめぐらせて、私の顎下に向ける。思わず顔が引きつった。"魔女に指差される"とは、不吉に過ぎる。
「精霊と意思を交わし奇跡を起こす精霊術。霊薬と薬効を組み合わせる薬品術。神や霊と交わる交霊術。悪魔と交わる召喚術。この世には知られている以上に多くの魔術が存在する。きみたちが体系を知っているのか、また私自身どこまで知っているのか、それは分からない。私が知っているのは、私の知ることについてだけだ」
迂遠な言葉で「詳しくない」と前置きをして、女は続ける。
「私の扱う魔術は、いわば"神の賽子を操る"術だ」
「なに?」
「偶然を操作するのだよ。きみたちの信奉していた科学でも証明されただろ。不確定性原理、シュレーディンガーの猫、その他もろもろ。神はサイコロを振らないが、一切振らないわけではない」
鼻にしわが寄った。納得できる要素がない。
神はサイコロを振らない、とは自然法則に対することばだ。決して、運命や可能性に対して全知全能の神がすべて掌握しているという宗教の話ではない。
つまり、この女の説明は入口から矛盾している。
ただし。
それは運命論を否定した場合だ。
もし、不可知な運命や必然があるという立場を取るとしたら。
「……だとしたら、万能ということになる」
女は笑った。
「言っただろう。神はサイコロを振らない。因果の全て、必定の道理に干渉できるほど世界は柔らかくできていないよ。私が魔術を使えるのは、"神が賽を振った"ときだけだ。神がいつ賽子を振るかなど分からない」
前に向き直った女は、ふと足を止めて再び私を見上げる。
「どうやらきみは、運がいい。神がサイコロを振るところを見れそうだ」
女はするりと道端を指差した。
「そこに立ちたまえ」
「立ってどうなる」
「立てば分かる」
珍しく饒舌じゃない。まさか、本当に魔術を使うつもりなのだろうか。不承不承、示された場所に歩いて振り返る。
「おい、これでどうなると言――」
べしゃり、と頭を叩かれた。肩が濡れる。
飛び退いた。手で払う。付着物、白い粘液が飛沫を上げる。異様に獣臭い。いや、これは。
「鳥の、糞……!?」
ばさばさと頭上で鳥が飛び立つ。
女を見ると、爆笑していた。
腹を抱えて膝を折り、ガクガクと揺れている。呵々大笑と引き笑いと苦しげな咳が混じる、たった一人の爆笑だ。
「はは、いっはは、ひぃ、ひぃ、笑い死ぬ! おぉ、横隔膜が痙攣している気がするよ! はは、ひぃっ! きみ、本当に、すごい男だ。大物になるよ。私が保証しよう!」
「どういうことだ」
女はすぐに答えなかった。
何度かしゃべろうとして、その度に笑いが吹き出して呼吸困難に陥ったためだ。
首まで真っ赤にして道路にへたり込み、数分かけて体を休めた女はようやく人心地をつけた。
「言っただろう、私は"神の賽子"を操ると。きみがあそこに立ったところで、電線の小鳥がうん……ひっ、ひひっ……うんちを、するかなど……分からないだろう? その辺りの偶然をね、引き寄せたんだよ。いやはや、神が賽子を振ってよかったね。運のいい男だ……うんちだけにブフォア!」
「いい加減笑うな。それにお前の話にはおかしいことがある」
肩を震わせる女は、涙をぬぐって立ち上がる。
「なにか疑問でも? 幸運な男……うんこうぶひゅっ……ぷすす……」
殴りてぇ。
「お前が鳥の糞をするように引き寄せたのなら、結果を知っているわけだろう。自分の引き寄せた結果が、そんなに面白いか」
「いやいや、いやいやいやいや。馬鹿を言うなよ審問官。私は偶然を引き寄せただけ。それがきみに直撃して、直撃を食らったきみがまさか、あんな面白い反応をするなんて……神だって予想し得ないに違いないさ!」
イラっとするなぁー。
とはいえ、考えてみれば悪戯に成功した子どもだって笑うだろう。私の反応まで予知できたわけではないというのも、彼女の自称に沿っている。
だが、魔術を使った気配はない。怪しげな所作も儀式も祭具も、何も用いていなかった。
私が立った石畳を見る。白く糞の跡が残っている。もともと鳥の糞所であって、かかりやすい場所だったのだ。私が立つと同時に糞などするものか? という疑問に対しては、それこそ魔術なのではないか、と思わされるところだが。
「本当にお前の魔術なのか?」
「信じるかどうかは、任せるよ」
女は外套を払って埃を落とし、ロンドンの道路に歩を進める。
「さあ、急ごう。そろそろマフィアと落ち合う時間だ」
マフィアとの会合は、リカーショップの地下で行われるようだった。
白熱灯が薄暗い地下を頼りなく照らす。高級なスーツを無頓着に気崩した伊達男たちは、葉巻をたっぷり吸って部屋中に煙を立ち込めさせていた。
一等上等な仕立てを来た男が、デスクに足をのせて座ったまま、じろっとこちらに目を向ける。
「おい、そいつは誰だ」
「事前に言ったはずだよ。運が悪ければ審問官も来るだろうと。実際には運が悪いのではなく、運がついてきたのだがッぶっふぁ」
一人で思い出し笑いをしているクソ女を敵意の目が貫く。いや、それ以上に疎んじる敵意が私に向けられていた。
私は身じろぎしないまま懐の銃を確かめて、
「おい。懐の銃はマスターに渡しとけ」
ばれた。
「きみはつくづく未熟だな。悪意と暴力についてなら海千山千の古強者だぞ。それを相手に武器を頼っちゃあ、逆立ちしたって交渉ひとつ成り立たない」
魔女に呆れられながら、マスターに銃を手渡す。自動式の新式なのに……ちゃんと返ってくるんだろうか。期待するだけ無駄な気がする。
一瞥だけで私の武装を看破した男は、葉巻を噛んだままニヤッと笑う。
「逆に安心したさ。この程度なら邪魔にならねぇだろう。口外しない約束を体に植え付けるくらいわけねぇや」
「その約束をさせるのは私に任せてもらいたいな。さて、取引の話をしよう」
「そうそう、その話だったな――」
私の処遇について不穏な話をしていた女とマフィアだが、
突然、女を取り囲む男たちが銃を突きつけた。
「てめぇ。どこで嗅ぎつけた」
焦る私と裏腹に、女は泰然としたものだ。
「私は魔女だよ」
「答えろ」
「答えたつもりなんだがね。それに、その話は今回の交渉に必要なことなのかい? 私がどういう手段で、どういう理由で知ったにせよ……口にしても意味がないことに変わりはない。通じるのは、きみたち相手のときだけだ。そうだろう?」
海千山千と評された男が、凶悪な顔で小柄な女をねめつける。
何の話をしているかさっぱり分からないのだが、まだ交渉に入ったわけではないようだ。
女はパッと明るく笑うと、無警戒に手を出した。
「ややこしい話は抜きにしよう。きみたち流のやり方で決めようじゃないか。ちょうど、リボルバーを持っているね」
「……ロシアンルーレットは、俺たち流じゃねぇよ」
「そうかい? ま、証明にはちょうどいいだろう」
女はマフィアが握る銃を取ると、ためらいなくこめかみに当てた。マフィアが目を剥く。
「待て馬鹿! 弾を一発も抜いていないぞ!」
対して、女はきょとんと首を傾げる。
「何を言っているんだ? 私がやろうとしているのは、知り得ないことを知っていることの証明だよ。なら、起こり得ないことを起こすくらいがちょうどいい。それとも、きみが"先攻"をするかい?」
女はにこやかに銃把を示す。
「『全弾入ったロシアンルーレット』のさ」
男は目を剥いたまま、脂汗をにじませる。
「お前、正気か? 誰が、そんなことをするものか。死ぬだけだ。狂ってる」
「答えは結果が教えてくれるさ。それじゃ、私が先攻をするよ」
止める暇もない。
女は再びこめかみに銃をあてがい、引き金を絞っていた。
カチン、カチン、チン、チン……。
乾いたかすかな音のはずなのに、ひどく長く反響する。耳にこびりついたのだ。
満面の笑みで、女が言う。
「成功だ。銃の故障か、不発弾か……理由はどうあれ、"神の賽子"は私に味方したようだよ」
男が椅子からずり落ちていた。
私も我に返る。魔女から銃を取り上げて検めた。弾倉には確かに弾丸が収まっている。撃鉄も下りていた。弾だけが出ていない。
口からため息が漏れる。
「お前、私の仕事を分かっているのか」
「きみこそ、私の魔術を忘れたのかな」
魔女は笑って私から銃を取り返した。
そして、銃把をマフィアの男に差し出す。
「さあ、『次はきみの番』だよ」
「な……」
彼は今度こそ驚愕を顔中に表した。
当然の反応を前に、魔女は呆れたふうにかぶりを振る。
「なにを驚いているんだい? ロシアンルーレットはそういうものだろう。それとも、勝負を降りてくれるのかな」
息を詰めた男は、震える指で銃を受け取る。撃鉄を引き、引き金に指を乗せ、
「ぎゃっ!」
脇で唖然として見守っていたマフィアの一人が、腕を押さえて倒れた。
銃声が耳に残る。突然仲間を撃った男が、絶望に顔を歪めていた。
「銃の故障なんかじゃねぇ。不発弾でもねぇ」
銃口を震わせていた男は、次第に顔を赤くして、震えの色合いを変えた。
「てめぇ、てめぇッ! どんなイカサマしやがったッ!」
「心外だな。それはきみの銃だろう。私がイカサマをする余地があったかい? イカサマができるほど『ちゃち』な銃なのか?」
「うるせぇ!」
男は魔女に銃を向ける。
「こいつを全弾撃ち込んで、それでも生きてりゃ認めてやるよ!」
ちっ、事を荒立てたくないんだが。
両手を伸ばす私の袖を引いて、魔女はささやく。
「大丈夫だよ。"神の賽子"は私の味方だ」
男が引き金を絞り、撃鉄が弾き、
男の手が破裂した。
「ぎゃああああ!」
飛散する血肉から魔女をかばう。
「紳士だね」
「ほざけ」
ムカつく魔女だ。
「ボス!」「てめぇ! なにをした!」「待て、ぐあっ!」「がっ?」
色めき立つ男たちをすり抜け、顎を打ち、手の銃ごと指を蹴り払う。
魔女を抱えて地下の扉を蹴り破って、表のリカーショップまで駆け上がった。小柄な娘で助かった。運びやすいことこの上ない。
平然と運ばれながら、魔女は余裕を崩さずに笑った。
「いやはや、参ったね。ちょっとやりすぎたようだ」
「あんな手口で交渉が成り立つと思ったのか」
「いけるかなーと思ったんだよ」
ざわつく表通りの一般人をすり抜ける。女を抱えたまま走るのは目立って仕方がない。
早いところ人目につかない場所に行く必要があるわけだが、ロンドンの入り組んだ裏通りはその手の場所に事欠かない。
角を曲がって階段を駆け下りる最中、魔女はぽつりとつぶやいた。
「欲しかったんだがなあ……帝国に行けるだけの、とびっきりの鼻薬」
「………………」
よく聞こえなかった。
戦時下において敵国に亡命を望むなど、魔女でなくても処罰対象だ。私は走っていたから、彼女が何のためにマフィアと接触しようとしたのか、聞き逃してしまった。どうせ自称魔女のすることだ、トカゲの干物でも欲しがったのだろう。
角を幾度か曲がったところで、私は魔女を投げ捨てた。
「いった! ちょっと、もう少し丁寧に扱いたまえよ。こちとら淑女だぞ」
「どうしてイカサマをした?」
問うと、怒っていたはずの魔女は、にやりと笑う。
「弾が入っている正常な銃の引き金を引けば、撃鉄が下りて弾が出る。これは『そのように作られたもの』の必定だ。ロシアンルーレットに神はサイコロを振ってくれない。だから、これを使った」
魔女は親指を見せてくる。そこには小さくゴムが張り付いていた。
「撃針が点火するから、銃弾が出る。だから火花が出ないよう、撃鉄に貼り付けておいたのさ。当然、撃鉄が下りたあとはすぐ取り除く」
きみが取り上げてくれて助かったよ、と魔女は平然とうそぶいた。
「そこまでは見えていた。俺が聞きたいのはその後だ。どうやって暴発させた」
「見えていたなら分かるだろう? 銃身にも挟んだんだよ。発射された弾丸が詰まるようにね。正直、一発正常に発射されたときは肝が冷えたよ……まさか試し撃ちするとは思わなかった。でも、その熱でしっかり固まって、二発目には詰まってくれたね。"運がよかった"よ」
しみじみと語る若い娘のような魔女を、質す。
「その"幸運"は、魔術か?」
魔女は不敵な目で私を見上げる。
「信じるかどうかは、任せるよ」
胡散臭い微笑とにらみ合う。
どんなに険しい視線を向けても飄々と流される超然とした風情は、まさに魔女の佇まいだ。
ため息が漏れた。額を押さえる。
「追跡調査が必要だな。こんな曖昧な見分じゃ、報告書が作れない」
「それは嬉しいね。マフィアにケンカを売った以上、きみがいてくれるのは心強い。心得はあるだろうと思っていたが、想像以上に腕が立つね」
魔女はいけしゃあしゃあとうそぶく。立ち上がって尻のほこりをはたいた。
「さて、それじゃお近づきのしるしに、カフェにでも行こうか。とびきりのスコーンを出す店を知ってる」
その気軽な笑みはあまりにも素直で、銃の撃った撃たれたを繰り広げた直後とは思えない。
ひょっとしたら、と思う。
彼女はマフィアが「魔女の秘薬」を渡す気がないと気が付いた。マフィアと縁を切った後、私と私の組織を近くに置くために、わざと私が来る日を会合に選んだのではないか?
「ほら、早くおいで。はぐれてしまうよ」
不吉な装束で無邪気に笑う女は、なにを考えているやら分からない。
かぶりを振った。馬鹿馬鹿しい。
魔女の心根など、神のみぞ知る、というものだ。