番外編 『そこ』に至るまでのお話(アルジーン視点) 後編
姫巫女と共にアルジーン等が二度目の、そして終わりの見えない旅に出て二月が経った。
すでに隣国であるヤドラ国の浄化を終え、今はその先にあるルシウス聖国の首都を目指しての道中である。ロンダル一国の浄化に三月かかったことを思えば驚異的な速さだが、前の旅でも諸々の余分な行事を省けばこんなものであったはずだ。更に言えば、前回と今回の旅ではその人数に大きな差がある。
前回は仰々しい隊列を組み、数台の馬車を連ねての旅であったのだが、今回は馬車は姫巫女が乗る一台のみ。付き従う者も、各国から一人から三人で、合計しても前回の三分の一にも満たない人数だ。ジーモルト皇国からはアルジーンが、カゼルトリからはヘイノルトがその役目を担ったのは言うまでもない。
少数精鋭を狙っての人選で、他の国からも腕に覚えのある者たちが参加していた。
しかし、ここまで人数が少ないのは、実はそれだけが理由ではなかった――呆れたことに、ロンダル国王は自国以外の浄化の旅では、姫巫女の為の護衛を出す気は毛頭なかったのだ。
己の国を巡った折には、百名近い兵士が姫巫女の乗る馬車の周りを取り囲んでいたというのに、今回の度に同行させたのは侯爵家の次男だという男一人だ。それも、護衛というよりは姫巫女の監視が主な役割だろう。十名ほどの護衛も付き従ってはいるが、彼らが守るのは姫巫女ではなく次男の方だ。
他国への旅に、大勢の兵士を同行させるのは憚られる。また、彼が常に姫巫女の傍らに控えるのだから、結果的には姫巫女を守っているのと同じである、というのがロンダルの主張であるが、それを信じるほどおめでたい頭をしている者は、一行の中にはいなかった。
それはさておき、驚いたことに、姫巫女は己の世話を焼く侍女の同行さえ断っていた。自分の事は自分でできる――そう言って、実際に着替えや洗面、果ては入浴すら己一人で立派にやってのけた。果ては、自身の衣類の洗濯までやろうとしたので、それは流石に清浄の魔法を持つ者が代わりに受け持った。男に下着を見られるのはいやだろうから、と籠に詰め込んだ状態のソレに魔力を注ぎ、汚れや皮脂などがきれいに取り去られたのを見て、姫巫女は大層驚き、また喜んだ。どうやら『穢れ』を祓う以外の力――つまり、一般的な『魔力』は彼女には備わっていないようだった。
「ありがとうございます。いつもお手間をかけさせてすみません」
「この程度の事、わざわざ礼を言われるほどの事ではありません。姫巫女に不自由を強いているのは我等の方なのですから」
監視の目の無いところで、アルジーンが姫巫女と言葉を交わす機会はあまりない。毎晩の衣類の清浄のための作業は、その数少ないチャンスの一つだった。次男坊も魔力持ちではあるが、そう言った『下賤の者』の役目を果たすために自分が魔力を使うなどとんでもない、との考えの持ち主であったからだ。身分的には皇室の一員であるアルジーンの方がはるかに高いのだが、若い頃(今でも十分若いが)に少々やんちゃをした経験があったのが、この場合、役に立っていた。
「その上、貴女は我々にほとんど何も要求しない。いや、我儘を言えと言っているのではないし、旅先の事ですのでできる事にも限りは有りますが――それでも、もう少し、ご自分を出してもいいのではないですか?」
「自分を……ですか?」
「ええ。例えば――貴女は真っ赤な目をして起きてこられることがある。隠そうとしているようだが、こっそりと一人で泣いているのでしょう?」
「……」
アルジーンがそれに気が付いたのは、この旅に出てすぐの事だった。他にも気が付いた者がいて、それとなく気遣った様子だったが、姫巫女はそっけない素振りでそれを拒否した。その事で、重ねてアルジーンが気が付いたことがある。それは姫巫女は、自分たちを――いや、この世界の人間すべてを信用していないということだ。誰にも心を許さず、常に警戒心を全開にして対峙している。
そんな状態では、心休まる暇もないだろうと思いはしたが、だからと言って『心を開け、信用しろ』と強要することなどできるはずがない。
アルジーンにできるのは、少しずつでも距離を縮め、姫巫女の警戒心を解いていくことだけだ。最初は途方もない難題であるように思われたが、二月も経てば、こうして多少の会話を交わすところまではもってこれた。
幸いなことに、常にべったりと姫巫女の側に張り付いているあの次男坊は、今は別室で酒盛りの最中だ。姫巫女が酒を好まないために、飲酒した者はその酒精が抜けるまでは側に近寄るのはタブーとなっている。上手いことを言っておだてあげ、酒を口にさせることに成功したのはヘイノルト達の手柄であるのだが、その努力を無駄には出来ない。
時期尚早であると思わないでもなかったが、思い切って正面から尋ねてみた次第である。
「貴方の心にかかる憂鬱は、恐らく誰かに話したからと言って、どうなる物でもないのでしょう。ですが、口に出すことで些かなりと気が楽になることもあるのでは?」
「……お気遣いは有り難く思います。ですけど……私の事は放っておいてください、アルジーン皇子様」
拒絶されるのは想定内だ。だからこそ、アルジーンはあっさりと話題を変え、以前からずっと、姫巫女に尋ねてみたかったことを口にした。
「アルジーン、と貴女は私を呼ばれるが、私は貴女の事を『姫巫女』としかお呼びしない。私だけではなく皆がそうだ」
「それが……何か?」
唐突な話題の転換に、姫巫女が戸惑ったような表情を浮かべる。わずかながらも、固いガードが緩んだのを感じ、アルジーンは畳み込むようにして言葉をつづけた。
「もし姫巫女の世界で、これが無礼にあたる質問で有ればお許しいただきたい。私はずっと不思議だったのですよ。どうして、誰も貴女の名を呼ばないのか――いや、何故、貴女は我らにその名を教えないのか? もしや、異界の方である姫巫女には、我らのような『名』はないのでしょうか?」
「そんな訳ないでしょ!」
「では、何故?」
「そんなの……そんなの、誰も私の名前なんか訊かなかったからに決まってるでしょ!」
それは、アルジーンが初めて聞いた姫巫女の心の底からの叫びだった。
「私の名前なんか、誰も知りたくもなかったのよっ。『姫巫女』っていう『浄化』の力さえ持ってれば、どこの誰だろうと関係なかったんでしょ! だから、私の名前なんかどうでもいい……『姫巫女様』って呼ばれてそれに返事して、『穢れ』を祓ってくれたらそれだけで十分だったからでしょうっ?」
アルジーンが姫巫女の慟哭じみた糾弾を受けるのは、お門違いと言えるかもしれない。本来ならば、こうやって責められるのはロンダル国の者でなければならないはずだ。
けれど、アルジーンはその八つ当たりじみた非難の矛先が、己に向けられたことを、憤るどころかよろこんでいた。
平素の姫巫女は、まるで精巧につくられた人形の如き美しさだった。誰に対しても言葉少なで、感情をあらわにすることは滅多にない。時たま苛立ちや怒り、悲しみを見せることはあっても、すぐに無表情の仮面をかぶり、誰にも己の心のうちを見せようとはしなかった。何もかもを自分一人の胸の内に封じ込め、耐えていた。
それは突然見知らぬ異世界に放り出された姫巫女の、自分の心を守るための鎧であり、矜持を保ち続ける為の戦いだったのだろう。
しかし、今。その鎧の隙間から、秘めた感情が零れ落ちていた。
やり場のない怒りに頬を赤らめ、敵意に燃える瞳はキラキラと輝いている。赤い唇は激情の為か、かすかにわななき、華奢なその手はきつく握りしめられていた。
――美しい。
人形ではなく、赤くあたたかな血肉の通った『人』としての美しさだった。それが怒りによる物であろうと、美しいことに変わりはない。
皇室に生まれ、数知れない美姫を目にしてきたアルジーンではあったが、その姫巫女の美しさにしばし見惚れてしまっていた。
「……何なのよっ、黙ったのはやっぱり図星だからなんでしょっ? だったら、もうさっさと出て行って! 私をひとりにしてよっ」
しかし、わずかの間をおいて発せられた姫巫女の再度の悲痛な叫びに、見惚れている場合ではないことを思い出す。
「正面切って名を問うという事は、こちらでは無礼にあたることもあるのです」
「――なによ? それが言い訳なの?」
少なくとも、まだ自分との会話を続ける意思はある様だ。その事に安堵しつつも、これ以上姫巫女の怒りを買わぬよう、注意深く言葉を選んで説明する。
「一定以上の身分のある者は、基本的に名も知らぬ相手とは顔を合わせることはないのですよ。たとえ自分が初対面であっても、誰かしらその相手を知る者が仲立ちとなって、名を教えてくれる。それが出来ない状態ならば、まず身分が下の者が己の名を名乗り、上の者がそれに応じて名乗る――名乗らない時も有りますがね。ですので、もし初対面の相手から先に名を告げられなければ、それはそれが己よりも上の者ということになるのです。そんな相手に、名乗る様に要求したら、どうなるか……聡い貴女なら想像がつくのでは?」
「おだててもダメよ――そんな事言われても、私の名前を知る人なんか、こっちにいるわけないでしょ。それに、こっちの身分とか私には関係ないわ!」
「ええ、そうでしょう。でも、思い出してください。貴女と二度目にお会いした時――私は、貴女に自分から名を告げたはずです」
だからこそ、姫巫女はアルジーンの名を知っているのだ。
「確かに……そう、だけど……」
「あの時、貴女は自分の名を告げてはくれなかった。あの時は、いきなり声をかけてしまったこともあり、私が貴方の気に触ったのだと思っていたのですが、どうやら違う様だ。ならば、どうして頑なに名乗られないのか、その理由が知りたくて先ほどの問いになったのですよ――まさか、そんな理由だとは思いもよりませんでしたが」
「だって……誰からも訊かれなかったもの!」
「その理由も先ほど言ったとおりです。ロンダルの連中であれば、姫巫女の言われたような理由だったのかもしれませんが、少なくとも私は違う」
アルジーンの言葉をそのまま解釈すれば、彼は、自分から姫巫女よりも下であると宣言したようなものだ。それはつまり、それだけ彼女を尊重すべき相手だと考えていた、ということになる。
「で、でも……そうだっ! あそこの王様は、最初の時に自分から言ったわよ。自分がこの国の国王だって」
それでも姫巫女は、騙されはしない、信用などしてやるものかとばかりに反論してくる。
「なるほど。では、その時に『名』も告げられたのですか?」
「あ……」
アルジーンの問いかけへの答えは『否』だ。
「彼の名は確か……ギネーンだったと思いますが」
「……初めて聞いたわ。誰も彼も『陛下』としか呼ばなかったし」
「納得してもらえましたか? ――では」
とりあえず、姫巫女の怒りは収まったと見て取ったアルジーンは、彼女からわずかに距離を取り、その場に片膝をつく。貴婦人に対する騎士の礼法である。
「改めて名乗らせていただく。私はアルジーン・ギルベルト・ジーモルト。美しい姫巫女よ、どうかその尊い御名を私に教えていただけないでしょうか?」
この場合、アルジーンが先に名をつげているので不作法には当たらない。そして、その前に跪き名を乞う事には、ある特別な意味があるのだが――それはまだ、姫巫女は知らなくてもよい事だと判断する。
「どうか……お願いです」
それでもまだ、逡巡する様子を見せる彼女に、ダメ押しとばかりに甘い声で囁けば――とうとう、難攻不落と思えた要塞も、その門扉をアルジーンの前に開いたのだった。
「……まどか、よ。如月まどか。こっちは名字――家名が後ろに来るみたいだから、まどか・如月になるかな」
「マォカ……マァカ……いや、違うな」
「良いよ、言いにくいんでしょ? 今まで通り、姫巫女でいいよ――あっちでも、日本人の名前は外国の人には発音しにくいみたいだし」
「いや、名を教えていただいたのに、それをきちんと呼べないのは男として恥だ」
母音のアクセントの強いその名は、確かにアルジーンには聞きなれない響きであったが、何度もそれを口の中で繰り返す。
「まど、か……まどか。まどか!」
「合格!」
苦労の末に、正確な発音をものにしたアルジーンが、得意げな笑顔で高らかにその名を呼ぶ。その様子に、姫巫女――いや、まどかもつい吹き出してしまい、期せずして二人の笑い声が室内に響き渡った。
「……初めてまどか殿の笑顔を見た。先ほどの怒った顔も綺麗だったが、やはり笑っているほうが良い」
「殿って……普通に『まどか』だけでいいよ……じゃない、いいです」
やがて、笑いを収めたアルジーンの言葉に、まどかが赤面しながら応える。怒って、笑って、それで幾分なりとも憂鬱が吹き飛んだのもあり、今更ながらに己が向き合っているのが一国の皇子であることを思い出したようで、口調も先ほどのものへと戻りつつあった。しかし、アルジーンはそれを良しとしない。
「では、私の事もアルジーン――アルと呼んでほしい。言葉遣いも今のままで構わない。いや、今のままのほうが良い」
「え、でも……皇子様なんだし……」
「そして、まどかは姫巫女だ。当然、他の者の目があるところでは、今まで通りに『姫巫女』とお呼びするが、二人きりならば構わんだろう?」
「……二人だけの秘密?」
「ああ、そうだ。それに、こんなに苦労して知ることが出来たまどかの名前を、ホイホイと他の者に教えてやるほど、私は親切でもないし」
「アルジーン皇子――じゃなくて、アル」
今まで通りの呼び方で己に呼びかけたまどかの言葉に、軽く眉を顰めると、あっさりと愛称で呼び直してもらえた。
「アルって、意外と意地悪なのね」
「素直で優しい、と褒められた覚えはあまりないな。まぁ、まどかに対しては、そうでないようにするけれど」
「……それって、やっぱり私が『姫巫女』だから……」
「ではないな。だったら、あそこまで必死に名前を知りたいとは思わない」
「え……?」
しかし、生憎と二人きりの会話はそこで終わりになった。控えめなノックの音と共に、既に夜も更けきりいつまでも姫巫女の部屋にいるのはマズい、とアルジーンの腹心の友の一人が進言しにきたのだ。
「遅くまで失礼を致しました。どうかゆっくりとお休みください、『姫巫女』殿」
「はい、ありがとうございました。おやすみなさい、『アルジーン皇子』様」
たったそれだけの会話だったが、その口調か、或いは交わす視線でか……聡い友は二人の間に何事かあったと気が付いたようだ。
後で話す、と目線で宥めつつ、彼らの事も姫巫女――いや、まどかに改めて紹介せねばならないと、その段取りに心は飛んでいるアルジーンだった。
翌々日には目前に迫っていたルシウス聖国の王都に入り、前のヤドラ国でも同様であったが、まずはここの国王に謁見し、国内での行動の許可とその安全を保障してもらう。先を急ぎたい一行ではあったが、この手順を踏まねば後々面倒なことになりかねない。
幸いにも――というか、状況を考えれば当然なのだが、ここの国王も大喜びで一行の望みを受け入れ、無事を祈るとの言葉を添えて送りだしてくれた。そして幸運は続くものらしく、アルジーンにとっての目の上のたん瘤ともいえたロンダル国の護衛が、ここで脱落してくれたのだ。
とある大きな『穢れ』がある地域に向かう途中、瘴気に犯されたらしい魔物たちの襲撃に遭った。今までにも数回あったことだが、その時の敵の数は些か多かった。とはいえ、腕に覚えのあるアルジーン以下、ほとんどの護衛達にしてみればさして脅威でもなかったのだが、ロンダル国の次男坊にとっては初めて遭遇した『命の危険』であったようだ。彼の護衛達も奮戦していたが、その間を縫い、一匹の魔物が彼の元へとたどり着いてしまった。
それに気が付いた護衛がすぐに斬って捨てたのだが、次男坊は左手に軽い傷を受けていた。その事でさらに怖気づいたようで――翌朝、気が付けば護衛共々、その姿は一行の中から消えていた。
「置手紙が有りましたよ。『魔物から受けた傷から『穢れ』が入り込み、重篤に陥った。すぐさま帰国し、最高神官の浄化を受けねば命が危うい。その為、一時、姫巫女のおそばを離れるお許しをいただきたい』とね」
わずらわしい監視の目も無くなり――それでも他国の者たちの目を憚らねばならぬのは同じであったが、それでも随分と気が楽になったのも確かだった――この夜、まどかの部屋を訪れたのは、アルジーン一人ではなかった。
「浄化なら私もできるんだけど……」
「姫巫女、いや、マドカ殿がそれをやってしまったら、あ奴の帰国のための言い訳が無くなるだろう」
「それもそっか」
置手紙を読み上げたのは、カゼルトリ公国第六公子ヘイノルトだ。突っ込んだのは、ムラン共和国の執政官の血縁にあたると言うヴァレン。他に港湾都市国家ミリアの有力者の子息のライモンド、それにロジノヴァ国の侯爵家跡取りのエルヴィスもいる。
最初は大勢で訪れたことに不安げなまどかであったが、アルジーンより彼らが自分の心を許した友であることを教えられると、あっさりと警戒心を解いたようだった。紹介されて直ぐに、改めてきちんと名乗られ、まどかもまた自分の名を教えたのがその証拠だろう。
次男坊が消えたことで『二人きりの秘密』が『六人の秘密』になったのだが、その気になれば、もっと早く彼らを紹介することもできた。それが少々遅れたのは、アルジーンが少しでも長く『二人きり』にしておきたかったという、裏の事情もある。まどかが、ではない。
「一時おそばを……って書いてあるけど、戻ってくる気があるのかな?」
「あるならば、まどかにきちんと挨拶をしてから帰国しただろうな」
「そっかー、よかったぁ!」
「……よほど彼はマドゥカに嫌われていたようですねぇ」
「あの人を好きになる人なんているのかな?」
酷い言われようではあるが、ことあるごとに特権階級であることをひけらかしていたあの次男坊が、まどかの好意を得られるはずもないので仕方がない。尚、アルジーン以外の者たちがまどかの名の発音がぎこちないのは、まだ名乗られて直ぐだからである。
しかしそれも、やがて、自然に、きちんとした発音になっていく。
その間の時間が、まどかとアルジーンをはじめとした彼等との絆を深めるのに役立ったのは間違いなかった。
それから、多くの月日と様々な国や土地が、まどかとアルジーンらの傍らを通りすぎて行った。
『浄化』を行えるのはまどか一人なのに対して、世界はあまりにも広かった。選りすぐりの精鋭であったはずの護衛達も、一人、また一人と脱落していった。戦闘で重傷を負ったものや、移動続きの日々の無理がたたり体を壊したものもいた。
まどか自身も、高熱を発して寝込んだことが何度もある。
それでも、まどかは旅を止めようとはしなかった。
それなりに長くこの世界で生きていく間に、美しいものや醜いものをたくさん見てきた。それらを目の当たりにするうちに、既にここは、まどかにとって『見知らぬ異世界』ではなくなっていたからだろう。
疲れ切った体に鞭うつようにして、一刻でも早く次の土地へと進みがたる彼女を、アルジーンがいさめたのも一回や二回ではない。
だが、それでも尚――。
「やはり、故郷に帰るという気持ちはかわらないのかい、まどか?」
「帰れるかどうかってことすら、ほんとに可能なのかどうかわかんないんだけどね」
旅立って一年が過ぎ、二年、三年が過ぎ、四年目の半ばになる頃には、まどかの傍らにいるのはアルジーンたち五名のみになっていた。ロンダルやジーモルトがある大陸の浄化を済ませ、今は海の向こうにあるイェン国への船旅の途中だ。
船酔いに苦しめられることもなかったし、海の上には『穢れ』も発生しない。久しぶりにのんびりとした旅路であった。
「あの国王がホイホイと約束したってだけで、疑う理由になるとは思うの。だけど、もしも本当だったら、って思うとね……」
帆にいっぱいに風を受け、白波を立てながら進む船の甲板の上での会話である。すっかり痩せて、華奢な体が更に細くなったまどかは、少し強い風を受けただけで飛んで行ってしまいそうだ。そのまどかの体を胸に抱きしめ、アルジーンが耳元で優しく囁いている様子はどこからどう見ても恋人同士のそれだった。
そう、二人が育んだのはただの絆だけではなく、愛と呼ばれる感情も含まれていた。
「こっちに来てもう四年も経っちゃったけど、パパやママ、お兄ちゃん。おじいちゃん達だって、きっと私のことを心配してると思うし」
「彼らに会いたい?」
「当たり前でしょ」
「私と離れ離れになって――もう二度と会えなくとも?」
「……その言い方はずるいよ、アル」
すまない、と謝りながらも、アルジーンはまどかを抱きしめる腕の力を強くする。
……できる事なら、このままずっとこの腕の中に閉じ込めておきたい。
皇帝と正妃の間に生まれた皇子であり、その気になればどこの花園からでも好き放題に選び取れる身でありながら、アルジーンが生まれて初めて自ら求めたのが、決して自分のものにはならないまどかであったのは、皮肉としか言いようがなかった。
――尤も、それで素直に引き下がるような殊勝な性格をしていないのは、本人は元より、腹心の友たちも周知の事実でもある。
珍しく穏やかな旅の無聊を慰めるために、今もどこからかこっそりと覗き見ているだろうことは承知の上で、アルジーンはまどかに一つの提案をした。
「まどかの『家に帰りたい』という思いは止めないし、止められるわけもない。この旅が終わったら、一度、ロンダルに戻ると言うならそれも認めよう――認めたくはないのだけどね。だけど、そこで、どうしても元の世界に戻るのが叶わないとわかったら。どうか、私の手を取り、共にこの先を歩んでほしい」
提案というよりも、それは条件付きのプロポーズであった。
「で、でもそれじゃ……それに、アルは皇子様なんだし……」
「皇子と言っても、皇位を継ぐのは兄だから、私はおまけみたいなものだ。いなくても大して問題はない。その証拠に、もう四年もこうしてまどかにくっついて、世界中を旅しているだろう?」
実際には、一年目を過ぎたころから『いつ戻るのか』『まだ戻らないのか』『早く戻ってこい』と矢の催促が来ていたのだが、アルジーンはそれらをすべて黙殺していた。
「そうなの? だけど、やっぱり……それじゃ、私が狡いよ」
「狡い? どうしてだい?」
「だって、私の一番の望みは『家に帰る』なんだよ。なのに、もしそれがダメだったら、アルと……なんて、本命に落ちた時の滑り止め扱いしてるみたいじゃない」
本命は兎も角『滑り止め』という単語はアルジーンにはなじみのないものであったが、まどかの前後の言葉からその意味を推測する。
「私は気にしないよ。全く希望がないわけではない――それだけで十分だ」
「でも……」
「それとも……まどかは私の事が嫌い?」
「そんなことない!」
「だったら、今ここで、決めろと言わない代わりに、それだけは約束しておくれ?」
「アル……」
アルジーンへの返事は、言葉ではなく、まどかの細い腕でぎゅっと抱きしめかえされる事だった。
「言葉での返事は、その時までの楽しみにしておこう」
そう言って口づけを――唇ではなく、まどかの額に落とす。
「愛しているよ、私の姫巫女。どうか、この事を決して忘れないでおくれ」
――元いた世界に戻れたとしても。
その後で盛大に友らに冷やかされることになるのだが、それでもアルジーンは上機嫌のままだった。
そして、ついに――五年に及ぶ、果てしない旅にもとうとうその終わりの時がやって来た。
「本当に、しばらく一人で大丈夫かい、まどか?」
「うん。これでも、『世界を救った姫巫女』だもの。ロンダル国王だって、早々、手出しは出来ないでしょ。離宮の一つを与えるから、当分そこで体を休めろって言われてるし――アルこそ、久しぶりに国に戻って、ご家族に顔を見せてあげなきゃ」
最後は船旅の連続であったために、まどかの白く滑らかな肌も、すっかりと陽と潮に焼けていた。船の上では水が乏しく碌に洗えないからと、長かった黒髪もバッサリと項のところで切ってしまい、動きやすいようにと男物の服を着用していた様子など、到底『尊い姫巫女』には見えなかった。
流石に、ロンダル王宮に戻る時は例の仰々しい衣装に着替えたが、それでも旅のやつれは隠せない。髪の毛の長さも無論だ。
『王命を受けて(ということになっている)』の長く厳しい旅から戻ったまどかを、ロンダルの国民すべてが歓迎したが、旅立つ前に比べると格段にみすぼらしくなった見かけの彼女を見る国王たちの視線が、アルジーンの気がかりだった。
「私の事はどうでもいい――くれぐれも用心するのだよ、まどか?」
「わかってますって。でも、本当に大丈夫だよ。ほら、あの人たちの目……アルだって気が付いたでしょ? ガッリガリのやせっぽっちの小娘を、超見下してた――私がいなかったら、世界が滅んじゃってたのかもしれないってのにねぇ」
「まどかは歴とした女性だよ。それも飛び切り魅力的な、ね」
「そう思ってくれるのはアルだけでいいよ」
五年が経ちまどかは二十二歳になっていたのだが、民族的なそれなのか、或いは個人の体質であったのか、その間、ほとんど背は伸びていなかった。体つきは流石に女性らしさが増していたが、それも今の状態では旅のやつれの方が先に目につく。
『十七歳だ』と告げた時に、アルジーンたちが大いに驚いたように、精々十二、三だと思われていたようだから、そう言う意味でもしばらくは安全だろう。
無理やりにでもそう自分を納得させて、アルジーンは後ろ髪を引かれる思いでロンダルにまどかを残し、帰国の途に就いた。
「できるだけ早く戻って来る」
そう言い残していったのだが――まさか、帰国した途端に、兄が次の皇位に就く事を辞退し、己に皇太子の役目が回ってくるなど思いもしなかった。
聡明ではあるが体が弱い兄は、アルジーンの知らぬことではあるが、以前からそう希望していたようだった。ただ、己に(体が弱いという以外に)なにがしかの瑕疵があるわけでもなく、同母で年長である自分が次の皇王になることはほぼ決定事項であったために、言い出せないでいたらしい。下手なことを口にすれば国が真っ二つに割れる恐れもあったのだから、それも仕方があるまい。
しかし、弟であるアルジーンが姫巫女と共に長きにわたる『世界浄化』の旅を成し遂げるという偉業を達成し、且つ、無事に帰国したとなれば、話は変わって来るというものだ。
兄から常々、その考えを聞かされていたのか、両親もあっさりとそれに同意したというのだから驚きだ。用意周到なことに、臣下の者たちへの根回しも済んでいるという。
アルジーンの立太子の儀では、長年のプレッシャーから解放された兄は、大層晴れ晴れとした表情をしていた。アルジーンはといえば、表面は笑顔を浮かべてはいたものの、内面はそれとは正反対だった。
第二皇子であったからこそ、(比較的)身軽に出歩けたのだ。皇太子などになってしまえば、身辺には常に護衛が付く。数年にも及ぶ旅に出るどころか、他国へ行くのにさえも仰々しい先ぶれが必要になって来る。
だが、すべてが悪い事ばかり、という訳でもなかった。
「私の妃は私が決めます。妙な女をあてがおうなどと考えないでください。強要されるようなことがあれば、私はこの国を出て、二度と戻りません」
皇族ともなれば、政略結婚は当然とみなされる。第二皇子であった頃からそれは変わらないのだが、いざとなれば国を捨ててまどかと一緒になるつもりだったのだ。無理を言って自分を皇太子にしたのはあちらの方なのだから、こちらも無理を言って何が悪いと言うのがアルジーンの言い分だった。
宛があるのか? と訊かれて、まどかのことも教えた。
何処の馬の骨ともわからない相手を連れてこられるのではなく『救世の姫巫女』がその相手だと知り、反対派もあっさりと手のひらを返した。少なくともジーモルト皇国首脳部では、それが既に既成事実であるような盛り上がりだった。
残るは、まどか本人をどうやってここへと連れてくるか、なのだが……アルジーンが気軽に動けなくなった上に、まどかはどうやらあの時話に出てきた『離宮』に軟禁状態になっているらしい。
アルジーンの意を受け、まだ身軽な身分のヘイノルトやライモンド、エルヴィス、ヴァレンなどが面会を希望しても、三回に二回は断られる始末だ。『姫巫女様の御体調が思わしくないため』と言われてしまえば、それ以上何も言えなくなるを見越しての事である。
しかし、それでも抜け道はあった。
「小鳥が結ぶ愛の絆、ですか。詩人の創作意欲をかき立てる題材ですねぇ」
「事が成った後であれば、好きなだけ広めろ。だが、それまでは秘密だぞ」
「それくらい、言われなくともわかっておりますよ」
ヘイノルトの特殊能力により、連絡が可能になっていたとは、ロンダル国の者たちは思いもよらない事だったろう。
それにより、まどかの近況も分かって来た。行動の自由こそないものの、離宮にて大切に世話をされており、王宮からも特に無茶な要求も今のところはないらしい。
ならば、事が動くとすれば、旅が終わって一周年の日に行われるという記念祝典だろう。その日に向けて、工作を始めたアルジーンに――というかジーモルト皇国にも、その式典への招待状が届いていた。正式なものであるから、皇太子となったアルジーンが出席しても何の問題もない。というか、他のものに行かせるなど、最初から考えていない。
「まどかは、式典用の真っ白の仰々しいドレスの仮縫いに辟易しているようです」
「ドレス……だと? 神官の装いではなく、か?」
「ええ。ロンダルの者たちが何を考えているか、だいたいそれで分かりますね」
「まどかに指一本でも触れて見ろ、国ごと消してやる」
「貴方でさえ、額への口づけ止まりなのですからねぇ……」
ふつふつと怒りを滾らせながら、その日を待ち――そして、その当日、式典の会場で。
「アルジーン!」
戯言を垂れ流すロンダル国王を、頭の中で十回程殺害した頃、ほぼ一年ぶりに愛しい女性が己の名を呼ぶ声が聞こえた。
「ここにいるよ。私の愛しいまどか」
「貴方が私にして下さったプロポーズ、まだ有効かしら?」
「勿論だ。私が死ぬその瞬間まで、私の愛は君のものだ」
参列者の間から進み出て、その前に跪く。皇家に生まれた者として、こういった場面での『見せ方』は心得ている。まどかに向かって優しく甘く微笑み――殊更そうしようとしたのではなく、自然にそうなっただけではあるが――熱烈な愛の言葉を囁けば、周囲の視線も意識も二人に釘付けになる。
「アル――アルジーン・ギルベルト・ドゥ・ジーモルト。私は、貴方を――」
一年――いや、それ以上の月日を越えて、アルジーンが望んでいた言葉が、まどかの口から発せられようとしていた。
ちなみに、『ドゥ』というのは皇太子のみに与えられる尊称だ。皇王と皇太子のみがもち、王の場合はこれが『アン』となる。まどかにもすでにその事は教えてあった。
「ちょっと待て! 一体何を話しているっ?」
……なのに、邪魔が入った。
視線で人が死ぬとしたら、その時のロンダル国王太子は数十回死んでもまだ追いつかなかっただろう。アルジーンやその友人たち(やはりこの場にいた)だけではなく、他国の者たちも空気を読まなすぎる王太子に氷の視線をおくっていたのだから。
その後の王太子の、戯言と聞き流すにはあまりにもひどい言葉の数々に、まずはまどかが対応していたのだが、やがて我慢の限界にきたアルジーンがそれに代わる。
「……ロンダル国の王太子殿の今のお言葉、もしや私に対してのものでしょうか?」
その後の展開は……知ってのとおりである。
「愛してるわ、アル。そしてみんなも大好き……ありがとう。これからもどうかよろしくね」
「私も愛しているよ、まどか――お前たちの協力、心から感謝する」
民衆が集まっているのとは別の場所に、既にジーモルト行きの馬車は用意してある。式典次第ではこの後も姫巫女の出番があったようだが、そんなことは彼らが知った事ではない。
十日もかからず、国に辿りつけるだろう。
バルコニーから下がった後は、わらわらと駆け寄って来るロンダルの者たちを蹴散らすようにして、馬車に乗り込む。
二人きりになって、ようやく最後の緊張が解けたらしいまどかを、抱きしめて。
「愛しているよ、私の愛しい姫巫女」
そう囁いた後、初めて、その唇に自分のそれを重ねたアルジーンは、途方もなく幸せだった。
尚、余談ではあるがこの一連の出来事の顛末は、今では世界中のほとんどの者が知っている。ヘイノルトがカゼルトリの詩人を総動員して広めてくれたおかげである。
ヘイノルト作の『姫巫女のサーガ』と名付けられたそれは、何処からともなく神の恩寵により現れた姫巫女が、苦難の旅路を辿り、世界の浄化を成し遂げた一大叙事詩であるだけではなく、その旅の間に流浪(笑)の皇子と巡り合い、愛をはぐくむ様子を描いた恋愛物語でもある。恋愛ものにつきものの悪役に、ロンダル国王と王太子程、打ってつけな者もいなかっただろう。
「おかげで、今やロンダル国王の権威は地に堕ちていますよ。その内、革命でも起こりそうな感じですね」
「良い気味……なんて言ったらはしたないかな」
「ここには私達だけしかいないのだから、気にすることはないよ」
「それに嘘はついていないのだしな。己のやったことが己に跳ね返ってくるのは当然だ」
「いや、それより、アレだ。まどかがあん時、最後に連中に言ってた……」
「ふむ……あれは、確か……」
愛しい妻を隣に座らせ、気の置けない仲間たちをあつめた小さなサロンで、アルジーンはあの時のことに思いをはせる。
「まどかは何といっていたかな……ああ、そうだ」
「思い出しましたよ」
「私もだ」
「あ、俺も!」
「自分も……」
「ちょ、皆っ! あれはネット用語というか、スラングみたいなもので……あの時はつい、使っちゃったんだけなのよっ」
まどかが慌てて止めに入るが、まるでいたずらっ子のように目を輝かせたアルジーンたちは、互いに目くばせを交わし合い、タイミングを揃えて――高らかにその一言を口にした。
『ざまぁ!』
やべぇ……ちょっとした浮気のつもりが、どんどこ旅のエピソードやら何やらが浮かんできてます。
が、ここで流されたら身の破滅!
予定よりもものすごく長くなったアルジーン編ですが、ここで無理やり終わらせます。
……突発煩悩の恐ろしさ、身に沁みました;