本編
忘らるる 身をば思わず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな
魔導の灯りに照らし出された、白い紙面に書き散らされた異界の文字。それを記した彼女以外、誰も読み解けないそれを指先でなぞるようにしながら、細く澄んだ声がよみあげる。
「姫巫女様、今のお言葉は?」
「和歌……私の世界の古い歌よ」
その聞きなれない音の響きに、不思議に思った侍女が問いかけてくる。その事で、我にかえったような表情になった後、彼女――如月まどかは、ため息とともにそれに答えた。
受験勉強で、半強制的に覚えさせられた『百人一首』。そのうちの一つで『右近』という女性の詠んだ歌だ。
別に古文が得意だったわけでもないのだが、妙に懐かしくなり、いくつかかきだしてみた物のうちの一つだった。確かに全部覚えたはずなのに、七十程しか思い出せなかった事に、時の流れと共に、自分の置かれている状況の余りにも大きすぎる変化を改めて意識させられる。
「歌……なのですか。それでどのような意味なのでしょう?」
「そうね……『固く約束をしたのに忘れられてしまった私の身の上については何とも思いませんが、それを破った貴方がどうなるかが心配です』って、確かそんな感じだったと思うわ」
「姫巫女様」
咎めだてる様に呼ばれ、まどかは馬鹿正直に返事をしてしまったことを後悔する。
「陛下は、常に姫巫女様のことを気にかけておられます。お忘れになられるなどありえませんわ」
「ええ、分かってます。それに、お忙しいお身の上――緊急でもない私の事が、どうしても後回しになるのは理解しているわ」
朝な夕なに、毎日顔を合わせ、細々と身の回りの世話を焼いていてくれ相手である。その為に警戒心が薄れていたが、どれほど丁重に扱われようと、所詮は『こちら』の人間だ。
慌てて――しかし、そうは見えないようにわずかに目を伏せ、悔いるような口調と声を心がける。
「あの方々の誠実さを疑っているわけじゃないの。ただ……」
「ただ……何でございましょう?」
「やはりどうしても……故郷が懐かしく思うのは止められないの。ごめんなさいね」
「いえ、わたくしこそ申し訳ございません。姫巫女様の御心の内も慮れず、僭越なことを申し上げました」
「ううん。いいの、気にしないで――それよりも眠たくなってきたわ。今夜はこれで休みますから、貴方も下がってくださいな」
「はい、では……お休みなさいませ」
「ええ、おやすみなさい」
ぱたん、と豪華な部屋の豪華なドアが閉まったのを確認した後、大きなため息を一つ、吐く。
「しまったなー、マジ、うっかりしてたわ」
がらりと口調を変えて呟く声は極小だ。もし聞き耳を立てている者がいたとしても、聞こえることはないだろう。
「ま……今更、多少、妙な言動をしたからって、どうなるもんでもないんでしょうけどね」
もう一つ、今度は小さめのため息をこぼし、まどかは豪華で巨大な寝台へと体を横たえ、目を閉じた。
まどかは正真正銘、生まれも育ちも日本人だ。
真っ直ぐな長い黒髪に、わずかに青みがかった黒い瞳の、華奢な体つきの女性である。瞳の色が平均的な日本人とはやや異なり、肌が透き通る様に白いのは、父方の祖母がロシア人だからだ。
但し、外国の血が流れているからと言って、別にセレブな家に生まれたわけではない。彼女の祖父は北の大地の町役場の職員で、文化交流でやってきた隣国一行の中に混じっていた祖母を見初めたのだ。その頃の日本は高度成長の真っただ中であり、お役人天国であったのも幸いしたのだろうが、二人は電撃的な恋(?)におち、めでたくゴールインまでこぎつけた。
その後、生まれた父は残念なことに正統派な日本人顔であったのだが、孫の代――つまり、まどかにその血の影響が強く出たようだ。生まれた時は、他の赤ん坊とさして変わらない外見だったのだが、育つに従って近所でも評判の美少女となっていた。
両親は勿論、もう一人の兄妹である兄に溺愛されて、まどかは育った。小学校は普通に公立に通ったが、中学からは中高一貫の女子校に進んだのは、その容姿に惹かれて群がって来る害虫共を少しでも遠ざける意味もあっての事だった。
『可愛い』って言われるのは悪い気はしないけど、それの上でこっちの好意を強制的に求められるのはまっぴらごめん――とは、当時のまどかの言である。
外見を裏切る、とまではいかないが、中身はごくごく普通の現代っ子に育ったまどかにしてみれば、ことあるごとに五月蠅くまとわりついてくる『男子』のいない環境は非常に居心地がよかった。恋愛にもまださほど興味がなかったこともあり、家では大好きな家族に、学校では仲の良い女友達に囲まれて、幸せな生活を送っていた。
『あの日』までは。
高二の秋の、三限目の数学の時間だった。出席番号から指名されて、前に進み出て黒板に書かれた問題を解いていた。当たるのは予想していたので、成績の良い友人からノートを借りてそれを丸写しにしていたのを、もう一度黒板に書くだけの簡単なお仕事だ。若干、へろった字で数式を書き終わり、最後の仕上げに「かつん」と音を立ててチョークを黒板にたたきつけた時――落っこちた。
教壇に立ってたはずだが、いきなりその足元が消え、マンホールみたいな丸い穴に悲鳴を上げる暇もなく呑み込まれた。衆人環視の元で、真っ暗な穴の上の方だけ光が見えて、そこからクラスメイトや教師の上げる悲鳴が聞こえた気がしたが、それも一瞬だった。
で、次の瞬間、気が付けば石造りのホールみたいなところに、制服姿のままへたり込んでいた。
ついでに言えば、白いずるずるした服を着た年寄りと、銀色の鎧を着たおっさん達と、ピカピカした宝石が大量に着いた服を着た中年男に囲まれていた。
「おお、見よ! 召喚に成功したぞっ」
「女だ……伝説の姫巫女だ!」
皆まで言うな、である。ごく普通のJKであるまどかは、当然、スマホのゲームもするし、はやりのラノベも読んでいた。異世界転生や転移ネタは好物の一つだったが、まさかそれが自分の身に降りかかって来るとは、思ってもいなかった。
――しかも、なんで私だけなの? 教室シチュならクラス全員召喚がお約束でしょっ?
しかし、実際に穴に落ちた(喚ばれた)のはまどか一人だった。
「天界の姫巫女よ。どうか、我が世界を救って下され」
そして、ずるずるの年寄り――後で、この世界の宗教の最高神官だと判明した――と、その後に続いたぴかぴか中年の台詞で、更に絶望する。
「其方は我らが願いにより、天界より招聘された姫巫女だ。故に、命ずる――世界を旅し、穢れを払い、この世を救うのだ」
――何ですか、それ。碌に説明もせず、頭ごなしの命令の上に、拒否権もなしっすか?
やはり後からこの国の王様だと判明した中年は、カリスマ的なものを全く持ち合わせてないくせに、態度だけはギガ級にビッグだった。周りにいる鎧なおっさん連中もツッコミを入れる気配はないし、ただ、ずるずる爺様だけがあまりにも高飛車な態度に、若干引いていたのがわずかな救いだった。
「陛下――姫巫女様はこちらにいらしたばかりでございます。まだ何も、こちらの事情はご存じないはず。まずはそれらの説明を――それもこのような薄暗い場所ではなく、落ち着いた場所で申し上げるべきではございませんか?」
「む、そうであったな。些か気が急いておった――よし、ならば、姫巫女よ。我に続くがよい」
何となく中身の想像はついたが、それでもきちんと説明をしてくれるというのならば、拒む理由もない。それに、学校の制服のまま薄暗いドームで、直接石の上に座っているよりは確実に快適だろう。そう思って素直についていったまどかだが、連れていかれたのが豪華で立派でむちゃくちゃ広い『謁見の間』で、そこのど真ん中にぽつんと立たされて、延々と話を聞かされる羽目になるとは想像外であった。
とは言え、貧血になりそうなほどの長話に耐えた甲斐があり、そこでほぼ、今の自分が置かれている状況は把握できた。
曰く、この世界――アーセンティアというらしい――は、現在、未曽有の危機に瀕している。世界中の至る所で正体不明の『穢れ』が発生し、人は勿論、動植物から『土地』そのものまでが侵食までが侵食され変質しているのだそうだ。
『穢れ』に侵食されると、人は衰弱し、動植物は凶暴化するか枯れるかで、土地も瘴気を発するようになる。無論、それに対して全く何もしなかったわけではないが、かなり高位の聖職者が行う『浄化』以外には効果がない上に、同時多発的なその数が多すぎた。このままではいずれ、安心して住める土地がなくなってしまう。
そこで、最後の手段として、最高神官であるずるずる爺様がこの世界を創造した神に救いを乞うたところ、『異世界から浄化の能力を持った者を召喚せよ』と言われたのだそうだ。
後は――推して知るべし、だ。
アーセンティアにはいくつもの国があるが、たまたま教団の最高神殿がここ――ロンダル王国というらしい――に有った。
爺様は『神様に命じられて』召喚したのだが、なんだかいつの間にかここの王さまの手柄ということになっているようで、先ほどの言葉となったらしい。この辺のあれこれあったであろう高度に政治的な駆け引き等は、ごく普通のJKであったまどかにはわかりづらいし、分かったとしてもそれでどうなる事でもない。
最終的に理解したのは、
1.とりあえず、今は帰れない(帰してもらえない)
2.ほぼ強制だが、世界を救わなければならない
3.時間が惜しいから、今すぐにでもとっとと出かけろ
……以上であった。
「世界を浄化したら、帰してもらえるんですか?」
「無論だ」
そう答えたのは王様で、最高神官のずるずる爺様はなんかもごもごと口ごもっていた。それを見て嫌な予感はしたのだが、ここでごねても話は進まないし、何より、自分への印象が悪くなる。
何しろ身一つで誘拐(と敢えて言う)されたのだ。しかも、ここは右も左もわからない異世界なのだから、周囲の好意が得られるかどうかは非常に重要であった。
故に最低限の言質――浄化を済ませたら家に帰してもらえる――だけを取った後、各国から選ばれたお付きというか護衛というか、ぶっちゃけ監視要員を付けられて、まどかは広い世界へと放り出されたのである。
それが今から六年前の事。
丸五年をかけて、本当に世界中を旅させられた。馬車あり、船あり、徒歩も当然有りの大冒険だった。
神様がいるくらいだから、こちらの世界には魔法があり、魔物もいた。旅の間に何度となく襲われたし、『穢れ』の蔓延により人心が不安定になっていて、それが理由の騒ぎにも巻き込まれた。知らない間にまどかに備わっていた『浄化』の能力で、『穢れ』を払うのは意外にも簡単であったのだけが救いだったろう。
そのおかげで、およそ一年前には浄化の旅も終わりをつげ、出発地点であったこの国に戻り――『旅の疲れをいやす』為に、王宮の端っこにある離宮の一つを与えられて、今に至るのだった。
「一年も経てばいい加減、疲れとか取れてるよねぇ」
翌朝、まだ侍女がやってくる前に目を覚ましたまどかは独り言ちる。静養の為と言えば聞こえはいいが、この一年というもの、ほとんどこの離宮から出ることが許されていない。外部からの接触も同様で、旅の間にそれなりに仲良くなった護衛達ですら、滅多なことでは面会が許されず、日々の会話の相手は数人いる侍女たちだけ。実質的な監禁状態といっていいだろう。
戻って来た当初は、それでもなんだかんだのお祝いの行事に引っ張り出されていたが、それも一月ほどの間だけだった。後はもう、ただひたすらに食っちゃ寝するだけの日々。異世界召喚のおかげで体質も変わったのか、それでも太ったりしないのは有り難いことであったが、暇で暇でしょうがなかった。気晴らしと言えば、読書をするか、後は庭を散歩する位なものだ。緑が豊かな離宮の庭にはたくさんの小鳥や小動物がいて、それにパンや焼き菓子の欠片を与えていたら、すっかりなつかれてしまった。その事が良い癒しになってはいたが、それでも、そろそろストレスが限界に来ていた。
「それに、後一週間で祝祭だし……」
さすがにこちらにも暦くらいはあるし、まどかにもそれが与えられている。もう七日ほどすると、まどか達が旅から戻って、丸一年の祝祭があるはずだ。他の国からも代表者が訪れ、盛大な祝典となる予定である。まどかはこの世界を救った立役者であるから、当然、それにも出席を求められいた。ただ、今のところは『列席を乞う』とのみで、具体的なスケジュールについてはまだ何の連絡もない。いや、もしかすると侍女たちには知らせがきているのかもしれないが、まどか本人にはつたわっていない。
「これも、なんか嫌な予感がするわ」
こちらに来てからめっきり独り言が増えているまどかであった。話し相手と言えば侍女しかおらず、それも下手なことを言えば咎めだてられるし、王宮にも知らせが行くはずだから仕方がない。今のところ、致命的なボロは出ていないはずだが――『良妻賢母』をそだてるという前時代的な中高一貫(ついでに大学もあった)名門女子校で、一通りの礼儀作法を叩き込まれていたおかげだが、猫をかぶり続けるのもやはりそろそろ限界である。
「今まで大人しくしていたけど、これからもそうとは思わないでよね」
一応、一年は待ったのだ。その間、大人しくしていたのは唯一、まどかに対して『申し訳ない』という態度を一貫して現していたずるずる最高神官の爺様に免じてである。戻って来た当初はそれなりの頻度でここを訪れて居ていたのだが、それも最近ではめっきり見かけない。別に実のある話が聞けるわけでもなかったが、それでも『王様』のひも付きではない相手との会話は慰めにはなっていたというのに、だ。
「姫巫女様――お目覚めでしょうか?」
つらつらとそんなことを考えているうちに、ドアの外から声がかかる。
「起きています。どうぞ――おはようございます」
「失礼いたします。おはようございます」
いつもの侍女が入って来て、まどかはしっかりと猫をかぶり直す。最近、過重労働を強いているが、それももうすぐ終わりだから、もうちょっとだけ頑張ってね、とは心の中の声である。
「姫巫女様。本日は、お支度が整いまして後に、お客様にお会いいただきたく存じます」
「お客様? 珍しいのね、何方かしら?」
「王宮よりお越しのお使者と伺っております」
キター! と、顔には出さずに、心の中でガッツポーズをとる。この使者の持ってきた話如何で、この後の自分の行動が決まるとなれば当然だ。
「そう。では、用意が出来たらお通ししてください」
「かしこまりました」
さて、鬼が出るか蛇が出るか……侍女の手を借りて衣装を変え、朝食を済ませたところで対面となる。
「おはようございます。姫巫女様に於かれましては、ご機嫌麗しゅう――」
やってきたのは、王に仕える侍従の肩書を持つ男性だ。まどかとは初対面ではないが、かといってそれほど親しいわけでもない。何事かで、まどかの存在が必要とされる時のための連絡が係とでも思えばいい。
「おはようございます。お忙しい中、わざわざのお越し、痛み入ります」
形式ばっているが中身のない挨拶をひとしきり取り交わした後に、本題へと入る。
「此度の平和記念祝典へのご出席をご快諾いただき、誠にありがとうございました。当日、姫巫女様にはまず、謁見の間にて陛下、並びに各国の方々とお顔を合わせていただきます。尚、陛下より、その席上におきまして、姫巫女様にお喜びいただける発表がある、とのお言葉でございます」
「私に? それはどういった事なのでしょう?」
「申し訳ありませんが、内容については、当日まで秘させていただきとうございます。ただ、姫巫女様にとりましても、必ずや良い結果となる事である、とだけは……」
「そうなのですか? では、当日を楽しみにしていますね」
まどかが喜ぶ事と言えば『家に戻れる』しかないのだが、どうもこの様子では違うらしい。そうであれば当日まで秘密にする意味がないからだ。サプライズで彼女を喜ばせよう、などという気持ちが国王にないのは、まどかもすでに把握している。何しろ、初対面のあの日からこちら、彼女を『自分の手駒』としか見ていないのがありありと分かる対応をされているのだから。
――世界を救ってくれた相手に、いい度胸してるじゃないの。
しかし、そんな気持ちはきれいに押し隠し、一生懸命育てて今では虎並みの巨大さを誇る猫を叱咤し、いかにも『本心から楽しみにしている』という表情を作り返答すれば、使者はあっさりとそれに騙されてくれたようだ。
「当日は、王太子殿下がこちらへお迎えに来られます」
「まぁ、殿下が? わざわざ申し訳ないですわ」
「いえ、姫巫女様の御活躍のおかげで今の平和があるのでございますから、当然のことです。それでは、わたくしはこれにて――当日、またお目にかかれるのを楽しみにいたしております」
「ええ、私も楽しみです。ありがとうございました」
王太子、と聞いた時に、まどかの体がわずかにこわばったが、幸いにもそれにも気が付くことはなく、役目を終えた使者が戻っていく。
それを見送り、もう一度、まどかは決意を新たにした。
式典当日は、朝から見事なまでの晴天だった。
いつもよりも早めに起こされ、念入りに身支度を整えられる。
「まぁ、姫巫女様……何時にもましてお美しゅうございますわ」
「ありがとう。皆さまの前に出るのに、これなら恥ずかしくないわね?」
「勿論でございますわ!」
いつもの侍女だけでは足りず、他にも数人の手を借りて着つけたドレスは、たしかに綺麗だが非常に重たい。これにヒールの高いパンプスを履かせられたら、それなりに体力のあるまどかでもよたよたとしか動けない。しかも、その下には極限まで締め付けられたコルセットまで装着しているのだから、ある意味、拷問のようなものだ。それでも弱ったところは意地でも見せたくなかったために、必死で作り笑いをしつつの会話である。
――白一色のドレスねぇ。裾だけなんでか知らないけど蒼だけどさ。死ぬほどリボンだのフリルだのでデコられてるし、レースのヘッドドレスまで付いてるって、どう考えても花嫁衣装でしょ。
いうまでもない事だが、まどかに結婚の予定はない。将来的には別としても、今現在、そう言う相手は存在しない。
にもかかわらずの、この衣装。そして、今日の『平和記念式典』というイベントで明かされるというサプライズ。
悪い予感しかしない。
そして、その予感を後押しするように、まどかを迎えに来た王太子の態度が、妙になれなれしい。
「おお、見違えたぞ! しばらくぶりだが、ちゃんと女に見えるではないかっ」
侍女の取り次ぎさもすっ飛ばし、ノックすらせずにドアを開けた王太子の第一声がそれであった。
「――お久しゅうございます、王太子殿下。本日は私のような者の為に、わざわざ、ありがとうございます」
――ほぼ一年ぶりに会う相手に、挨拶もなしに、いきなりそれかよ。仮にも王太子って言うなら、マナーはちゃんと習ってるだろうに……それとも何ですか? 私如きには、礼を尽くす必要などない、と?
副音声付きのまどかの台詞だが、無論、王太子にはそれは聞こえていない。じろじろと無遠慮に眺めまわし、ニヤリと嫌な笑いをその顔に浮かべる。
「一年前はがりがりに痩せこけて、貧相な事この上なかったが、それなりに肉もついたようだ。これなら、抱き心地も悪くはあるまい……」
「っ! 殿下っ」
「おっと……まずは父上が会われてからだったな」
お約束の、説明的なセリフをありがとうございます――言葉の途中で侍従に止められはしたが、ラノベ系を山ほど読み込んだまどかには、これだけで充分、状況が見て取れる。後一つ二つ、疑問があるのだが、それはこの後、王本人に訪ねればいいことだ。まどかを舐め切っているあの王ならば、下手に出ればすぐにホイホイと情報を与えてくれるだろう。
我儘一つ言わず、おとなしく一年もこの離宮に閉じ込められたままでいたのは、正に、今日この時の為だ。溜まりに溜まった鬱憤やストレスを、あと少しで、思い切り発散できる。
「どうした、妙に嬉しそうだな?」
それが嬉しくてたまらず、つい笑顔になってしまうのだが、それを見咎められて冷や汗をかく。
「いえ、この離宮を出るのは久しぶりなのです。その上、王太子殿下御自らのお迎えまで頂いて……」
「なるほどな」
王太子がバカで良かったと思うのと同時に、こんなバカが次の王だと考えると、この国の未来が心配になる。尤も、今の王はバカじゃないのかと言えば、そうとも言い切れない。多少なりとも頭が良いのならば、『世界の危機を救った姫巫女』であるまどかに、このような仕打ちをすることはないだろう。
「さて、用意はもう良いのだろう? ならば、行くぞ。父上をお待たせするわけにはいかない」
「はい、殿下」
「王太子殿下、並びに救世の姫巫女様がご到着なさいました」
先ぶれの声に続いて、王太子と共に謁見の間に入ったまどかに、そこに居並ぶ者たちの視線が集中する。王太子はそのまま、王の傍らまで歩を進めるが、まどかは部屋の中ほどで立ち止まる。跪くことは流石にしないが、つつましやかに目を伏せ、言葉をかけられるのを待つその様子に、王が満足げに微笑む気配が感じられた。
「苦しゅうない、面をあげよ」
その言葉で、初めてまどかが顔を上げる。王太子ともそうだったが、まどかが王と対面するのはほぼ一年ぶりであった。
「即答を許す――久しいな、救世の姫巫女よ。息災そうで何よりだ。旅の疲れはすっかり抜けたと見える」
「はい、陛下のおかげをもちまして」
おとなしく受け答えをする間にも、まどかは周囲の様子に目を走らせていた。
本宮殿にある謁見の間は、相変わらずの広さと豪華さ加減だった。まどかがここに来たのは、最初の日と旅から戻った日、それに続いて行われた祝賀行事以来だが、記憶にあるよりも金ぴか度が上がっている気がする。
その中央奥にある王座に座っている王の衣装も、やはり金ぴかだ。
どんだけ金ぴかが好きやねん――と、こっそりと心の中でつぶやきながら、左右に目をやれば、この国のものとは違う衣装を身に着けた人々も眼に入る。
――あー、あれはお隣のヤドラ国の人ね。あっちはルシウス聖国で、その隣がえーと……そうそう、北のガーグ王国か。えー、海の向こうのイェン国の人までいるじゃん。
まどかも、伊達に五年も世界中を旅していたわけではない。アーセンティアには十幾つの国があるのだが、そのすべてを回り切っているのだ。ざっと見た感じだが、それらのほとんどの国から人が来ているようである。このロンダル王国からは、片道二か月以上もかかる場所から来た者すらいる。
帰還直後の祝典では、これほど豪華な顔ぶれではなかったから、今回のこの『記念祝典』に対するロンダル国王の、並々ならぬ熱意が感じられるというものだ。
しかし、その割には列席者たちの表情が――世界が平和になったこの一年を祝う式典には、という意味だが――あまりそれに似つかわしい物ではない。無論、嬉し気な顔をしている者もいるのだが、そのほとんどがこの国の関係者で、他国から来た者の中には少ないようにまどかには感じられた。
なるほど、なるほど……と、顔には出ないように気を付けながら、まどかはその顔を頭に刻みつける。
その間にも、長々と王の言葉は続ていていたのだが、大して中身のない物ばかりであったので、片手間に返事をするだけで事足りていた。
だが、しばらく経った後で発せられた王の言葉に、まどかは初めて注意深くそれに耳を傾けた。
「……さて、姫巫女よ。斯様な次第により、其方が戻ってから今日で一年になる。旅に病み、疲れ果てていた其方もすっかり健康を取り戻したことでもあるし、ここで一つのけじめをつけたいと思う」
「けじめ、でございますか?」
「左様。もっと早くにしておかねばならぬことであったが、其方の体調が優れなかったおかげで、今頃になってしまった」
――えー、私の所為にするの? しちゃうの?
思わず突っ込みそうになったまどかだが、辛うじて堪えて次の王の言葉を待つ。
「其方は、我等が神が使わされた姫巫女だ。それに対して、卑小な存在である我ら人間が『褒美』を取らせるなどというのは烏滸がましい事やもしれぬが、我らの感謝の表れであると神もお許しくださるだろう」
「……恐れながら、陛下」
「なんだ?」
ドヤ顔でまくし立てていた国王に、ここで初めてまどかがそれを阻んだ。その事にわずかに不快そうな表情を浮かべる国王であったが、他国からの列席者の目を憚ったのか、流石に怒鳴りつけるような真似はしなかった。
「私は、浄化の旅に出る前、陛下と一つ約束をしていたはずです。無事に世界を浄化し終えた暁には――と。その約束さえ守って頂けるのであれば、それ以上の褒美など私は望みません」
「……そのことは忘れよ」
「は?」
「忘れよ、と申した!」
折角堪えたはずなのに、あっさりと我慢の限界が来たようだ。たたきつけるように告げられた言葉にも、しかしまどかはひるまなかった。
「重ねてお尋ねいたします。『忘れよ』とはどのような意味でございましょうか?」
旅の途中、幾度も魔物に襲われたまどかだ。ガチで死を意識したこともある。それに比べれば、かんしゃくを起こしただけの国王など、全く怖くない。真っ直ぐに己を射抜くまどかの視線にたじろぐ様子を見せた国王は、遅まきながら列国からの使者たちもこの場にいたことを思い出したのか、辛うじて威厳をかき集め直す。
「其方をここに喚んだ神官が、一月ほど前に死んだ。其方が何処から来たのか、知っている者はあれだけだった。故に、もう其方を元の世界に戻すことは敵わぬ」
――ああ、やっぱりそうだったのね……。
このところ姿を見なかったのはそう言う訳だったのかと、まどかは納得する。尤も、生きていたとしても戻せるのかどうかは、かなり疑問視していたのだが。
ただ、あの最高神官は老齢ではあったが、まどかが最後に会った時にはまだまだ元気そうだった。あれは確か……三か月程前の事だったが、たった二月では死にそうもない様子だった。急な病というのも考えられるが、あの時、妙に何かを言いたげだった彼の様子を思い出すと、いろいろと勘繰りたくなると言うものである。しかし、真実が分かったとしても、それでまどかが帰れるようになるわけでもない。
半ば覚悟していたことでもあり、まどかはあっさりと思考を切り替える。
「それは存じませんでした……神官様には、大変にお世話になりました。謹んで、ご冥福を祈らせていただきます」
「う、うむ。その言葉を聞けば、あの世のアレも感謝することであろう」
悲し気に目を伏せ、死者を悼む言葉を述べたまどかに、王もようやく先ほどの調子を取り戻したようだ。
「そのような事情がある故、あの約束は守ることが出来ぬ。褒美はその代わりと思い、遠慮なく受け取るがよい」
「……ありがとうございます、それで、その褒美というのは……?」
「うむ。其方に夫を与えてやろうと思う」
「夫……」
思いもかけないことを言われた、と言った様子のまどかの表情(もちろん、演技だ)、に満足げに頷きながら王が言う。
「其方もすでに二十三、いや四であったかな。世界を救うという使命のためとはいえ、その年まで嫁き遅れて居れば、この先、妻にと望む者もおらぬであろう。しかし、それではあまりにも其方が哀れだ。故に、王であるワシが直々に、縁をまとめてやろうと思うたのだ」
確かに、まどかは今年で二十三(四ではないので念のため)になった。こちらの世界では、王の言うように『嫁き遅れ』と言われる年齢だが、まどかが本来の生活をしていれば、大学を卒業して社会人一年生になったばかりなはずなので、本人にしてみれば大きなお世話である。しかも、そうさせた張本人である王が、恩着せがましく『褒美』などと言ってそれを押し付けてくるなど、言語道断もいいところだ。どうせ、夫になる相手だってろくな奴ではあるまい。
しかし、これこそがまどかが待ち望んでいたことであった。
「まぁっ――ありがとうございます、陛下! 感謝いたしますっ」
これまでで一番――それこそ、無事に使命をはたして帰還した直後にさえ見せなかった、輝かんばかりの笑顔で感謝され、一瞬、王もそのまどかに見惚れてしまった。
その隙をついて、余計なことを口走られる前にと、急いで居並ぶ各国のお歴々の列に向かって叫ぶ。
「アルジーン!」
その声に応えて、一人が前に進み出た。それがこのロンダルから二つ国を隔てた大国ジーモルト皇国の皇太子アルジーン・ギルベルト・ドゥ・ジーモルトであることを、知らぬものはこの場にはいない。
「ここにいるよ。私の愛しいまどか」
「貴方が私にして下さったプロポーズ、まだ有効かしら?」
「勿論だ。私が死ぬその瞬間まで、私の愛は君のものだ」
まどかの突然の呼びかけから、他国の皇太子の登場、そしてそれに続く会話の中身に、その場に居た大多数の者たちは、茫然として二人を見つめる事しかできないでいた。それを良いことに、まどかたちの会話はさらに続いていく。
「アルジーン……アル。あの時、はっきりと返事が出来なくてごめんなさい。でも、どうしても『家に帰れるかもしれない』って希望を、捨てきれなかったの」
「君がどれほど家族を恋しがっていたか、私は良く知っているよ。もしあの時、強引に君から私が望む答えを引き出しても、きっと後悔が残っただろうと言うことも」
「ありがとう、アル。でも、これで戻れないことがはっきりしたわ――それで、直ぐに貴方にあの事の返事をするなんて、変わり身の早い女だと思われるかもしれないけど……」
「そんなことを言う者は、私が永遠に口がきけないようにしてやるよ。それに、まどか。これ以上待たされたら、私は君に焦がれるあまりに死んでしまいそうだ。国の父上と母上も、早く孫の顔が見たいとおっしゃておられるのだよ……もはや一刻たりとも待ちたくはない。どうか、私が望む言葉をきかせておくれ?」
アルジーン皇太子は、その地位の高さもさることながら、実に見栄えのする美男子であった。その彼が、まどかの前に跪かんばかりにして情熱的にかき口説く様は、まるで一幅の名画のようでさえある。
最初は驚き、次に呆気にとられ、今はうっとりとその光景に周囲が見惚れる中。純白のドレスを身にまとったまどかが、その手を取り、うっすらと頬を染めて彼の言葉に応える。
「アル――アルジーン・ギルベルト・ドゥ・ジーモルト。私は、貴方を――」
「ちょっと待て! 一体何を話しているっ?」
ちっ、と小さく舌打ちをしたのは、アルジーン皇太子だった。まどかも、舌打ちはしないまでも渋い顔になる。周囲が驚いているうちに、さっさと決定的な一言を告げてしまいたかったのだが、その最後の最後で邪魔が入ったのだから無理もない。ちなみに、その邪魔をしたのはこのロンダルの王太子――そう言えば、此奴の名前は何だったか、トンと思い出せないまどかであった。
「その女は、私の妻になるのだぞっ!」
「は? そんな事、聞いた覚えがありませんけど?」
「バカを抜かせ! 先ほど、父上――陛下がおっしゃったであろうがっ。お前に夫をあてがうと」
「ええ。私を結婚させてくださるって聞きました。でも、その相手が何方かに決まっているなどとは、一言も伺っておりません。ですから、前々から約束をしていた人へ、プロポーズのお返事をしようとしてただけです」
正確には、それを王が口に出す前に先手を打ったのである。実のところ、これはまどかにとってもかなり危い賭けだった。こちらが邪魔をする暇もなく、王がその事――つまりは己の息子との結婚を命じてしまう可能性もあったからだ。しかし幸いなことに、ありがたがらせようと勿体を付けているうちに、まどかたちに先んじられてしまった。
「それを父上がおっしゃる前に、お前たちが妙な話を始めてしまったからであろうがっ!」
確かにその通りなのだが、時すでに遅し、である。居並ぶ列国の関係者を前に、最後の一言はまだ口に出してはいないにせよ、どう見てもこの二人は相思相愛の仲。それも、昨日今日の話ではない事は、少しでも物を考えることが出来るのであれば明らかだ。
国王が何を考え、王太子に何を伝えていたのかは知らないが、ここで無理に別の男を宛がったりすれば、非難を浴びる事請け合いだ。しかも相手は、大国ジーモルトの皇太子であり、彼が先程口にした言葉から彼の父、つまり現在のジーモルト皇王およびその妃にもすでに認められている事が察せられる。下手なことを言えば、ジーモルトという国にケンカを売っているとも取られかねない。
実際、王は王太子よりも幾分か知恵がある様で、先ほどまであれほど回っていた舌を封印し、今は身振り手振りで王太子のそれも止めさせようと必死である。が、残念なことに、王太子はとても残念な頭をしているらしかった。自分の背後にいる父親の懸命な制止に気が付く様子もなく、ただひたすらに目の前の二人を睨みつけ、自身の権利を主張するのに忙しい。
「そもそも、その女は、わが国が召喚したのだぞっ! いわば、それは我が国の所有物――それを横からかっさらうような真似をするなど、盗人猛々しいとはこのことだっ」
「やめぬか、ザネーンっ」
友好国の世継ぎの君に対しての、あまりの暴言にとうとう声を出して制止するのだが、こちらも少々遅かった。しっかりとその発言は周囲の者たちの耳にも届いている。
――あ、そうだった、此奴の名前って残念……じゃなくて、ザネーンだったわ
あとちょっとで思い出せそうなのに、思い出せない。そのもやもやが解消して、すっきりしたまどかであるが、周囲の状況はすっきりどころか混沌の極みとなっている。
「……ロンダル国の王太子殿の今のお言葉、もしや私に対してのものでしょうか?」
先ほどまでまどかに向かい、甘くかき口説いていた同一人物とは思えないほど、ジーモルト皇太子アルジーンの声は低かった。ロンダルの国王親子を見る視線も、すでに氷点下だ。
「い、いや、決してそのような事は……お、王太子は本日、いささか、体調が悪い。それを押して、この場に姿を見せたのは、そこにおられる姫巫女殿を始め、列国の方々への礼を尽くさんとしてであったのだが、やはり無理があったようだ。今のは、熱にうなされた妄言……」
「父上、何を弱気なことをおっしゃっておられるのですっ! 私が召し抱えるはずの女を奪うなど、これは我が国への侮辱です」
そして、この場を何とかつくろおうとする父親の努力も、当の王太子本人が無駄にする。
「良いから、お前は黙っておれ! だ、誰か――王太子が高熱で倒れそうだ。今すぐ、部屋で休ませろっ!」
流石にこれ以上は無理だと悟ったのだろう。王の命令一下、近衛と思しい者たちが一斉に王太子へと駆け寄り、その身柄を拘束する。
「離せ、無礼者っ! 私を誰だと……」
「早くっ、早く連れて行けっ!」
それでも尚、見苦しく喚き暴れる王太子がようやく退場し――ほっと一息つく間は、ロンダル国王には与えられなかった。
「ロンダル陛下。私の質問への御答えがまだですが……それに、更に二、三、お尋ねしたいことが増えました」
アルジーンの言葉に、王の体がぎくりとこわばる。
「こちらの王太子殿は、確か既に妃を得ておられましたな? しかし、その上でまどかを娶るつもりで有られたご様子。という事はまさか、神がこの世を救うために使わされた尊い姫巫女を、側女にするつもりだったのでしょうか?」
「そ、そのような事は断じてない! 我が国では王の妃の人数は決められておらぬ故、姫巫女もきちんと妃として遇する予定で……」
「なるほど。しかし、それはあくまでも『王』の妃でございましょう? しかし、あの方は王太子。未だ、王としては立たれておられない――という事はつまり、現時点では認められる妃も一人だけのはずでは?」
「あ……」
語るに落ちるとはこのことだ。真っ青になる王に、更にアルジーンは畳みかける。
「しかも王太子殿は、その尊い姫巫女を『あの女』呼ばわりされ、ロンダルの国の所有物とまでおっしゃられたような……」
「あ、あれは熱に浮かされたうわ言だ! 我が国にはジーモルトの皇太子を侮辱する意図など一切ないし、姫巫女については、敬愛し、大切にいたしておる――そうだ、そこにいる本人に尋ねて見られるがよい。一年もの長きにわたり、離宮にて丁重にお守りいたしていた……そうですな、姫巫女殿っ?」
「……本当かい、まどか?」
いきなり矛先がまどかに向き、アルジーンまでが重ねて問いかけてくる。
しかし、この時の為に、何十回、いや何百回となくイメージトレーニングを重ねていたまどかの返答はよどみないものだった。
「確かに、衣食住に関しては、不自由なく過ごさせていただいていました」
裏を返せば、それ以外は不自由だった、という意味である。それが分からないアルジーンではないし、一国を代表してこの場に臨んでいる者たちも、ほとんどがそれを理解する。
「そうか。しかし、ロンダル陛下は周辺各国から、貴方のためにと度々寄付を募られていたからね。丁重に扱われて当然ではあるな」
「まぁ! そうだったの? 私は全く知らなくて……アルジーン、それに各国の皆さま、私の為にご迷惑をおかけしました」
「まどかの為なら安いものだ――しかし、本当に体調がよくなったようで安心したよ。なんでも、旅の疲れの所為で重病にかかり、大層高価な薬草しかそれを癒せないと聞いた事もあったし……」
「あら? そんな事があったかしら……軽い風邪を引いた覚えはあるのだけど?」
「ア、ア、アルジーン殿っ! ご懸念は解消されましたなっ? ならば、この場は――」
アルジーンとまどかが話をすればするほど、王にとってはマズい事実が明らかになっていく。とっくの昔に取り繕いようもない状況になっているのだが、それでも見苦しく足掻く国王に、最後の止めをさしたのはまどかだった。
「あら、いけない――邪魔が入って、すっかり後回しになっていたけど、私、まだアルへのお返事をしていないわ」
「それをいつ思い出してくれるのかと思っていたよ、まどか」
「ごめんなさいね、アル。あ、でも……私は全く知らなかったのだけど、私の夫になる人については、ロンダルの国王陛下に何やらご予定があったみたいな……?」
「大丈夫だよ、それについては単なる誤解だと陛下もおっしゃっておられただろう?」
そうですよね? とアルジーンに目線で問いかけられ――それが射殺さんばかりの迫力を持っていたのも関係してるのかもしれないが――国王は何度も小刻みに首を縦に振る。
「だから、安心して、先ほどの続きをきかせておくれ」
「そうなの? ならいいのだけど……ねぇ、アル。もう一回だけ、さっきみたいにしてくださる?」
「ああ、まどかが望むのなら何度でも――ほら、これでいいかい?」
先程と同じようにアルジーン皇太子がまどかの前に跪く。
その手を取り、まどかはこの一年の鬱憤を今だけは綺麗に忘れ、目の前の相手への想いをこめて囁いた。
「ありがとう――アルジーン・ギルベルト・ドゥ・ジーモルト様。五年もの長きにわたり、私を守り導いてくださった人。どうか、私、如月まどかをあなたの妻にしてください」
「勿論だ! ああ、愛しい人――私のまどか!」
期せずして、周囲からは拍手と歓声が沸き上がる。
まどかの手に導かれるようにして立ち上がったアルジーンは、親密さをアピールするようにまどかの腰に手を回して抱き寄せた後、片手を上げてそれに応える。
他国の王宮、しかもその謁見の間とは思えないほどに、その場の主役はこの二人だった。
そうして、その後――。
「姫巫女様万歳!」
「平和万歳っ!」
「ロンダル国、万歳っ」
王宮のバルコニーにて、集まった民衆の歓喜の声に最前列で応えているのは、アルジーンとまどかの二人であった。尚、その後ろに控えているのは、ロンダルの国王や王太子ではなく、まどかと共に苦難の旅の末に、世界の浄化を成し遂げた各国からの代表者だ。
「姫巫女様万歳! ――しかし、なんで王様のお姿が見えねぇんだ? 王太子さまもよ?」
「バカだな、お前。旅をしたのは姫巫女様で、世界を清めてくださったのも姫巫女様だろうが。姫巫女様の周りにいらっしゃる方々もだがよ――そこへのこのこと自分が顔を出す道理はない、っつって、王様方はご遠慮なさったらしいぜ」
「へー、そりゃまた……あの王様らしくもない、殊勝なことだなぁ」
そんな会話が、集まった民衆たちのそこここで交わされているが、実はこれもすべてアルジーンやほかの面子の配下による仕込みである。
そして、最初の歓声がやや収まったところで、まどかとアルジーンの結婚が告げられ、再度、怒涛のような祝福の声が湧き上がる。
「おめでとうございます、姫巫女様!」
「お幸せにーっ」
「ジーモルトへ行っても、私達の事、忘れないでくださいねぇっっ」
ぴったりと寄り添い、軽く手を挙げて民衆に応えながら、小さな声でアルジーンがまどかに囁いてくる。
「本当に、まどかは愛されているねぇ。その姫巫女を他国に攫っていってしまう私は、てっきり悪役になるのかと思っていたけど……」
「そうならないように、こっそりと姫巫女と護衛の恋愛話を、民衆に流していたのはアルでしょうに」
「まぁ、その通りなのだけど。しかし、ここまで民に広がっているあの話を、ここの王は全く知らなかったようだね」
「だって、ここの人達って、貴族以外は考える頭を持ってないとか思ってるんだもの。一般庶民が何を考えていようが、全くのお構いなしよ――だからこそ、今回の事も上手くいったんだから、有り難い事ではあるんだけどね」
知らぬは王宮の者たちばかりであった。
「本当に、一年も待たせてごめんなさい、アル……」
「それは気にしなくていいと、何度もいったろう? この一年があったからこそ、私は自分の国での準備を整えることが出来たし、ここの王の所業の証拠も集められた――それにしても、あの王については、ほとんど私が遣り込めてしまった形になったのだけど、本当は自分でやりたかったんじゃないのかい?」
「ううん、それはいいの。アルが代わりに言いたいことは言ってくれたし、それに姫巫女って口では有り難がりながらも、『所詮は平民の出』って思われてた私がやるより、ずっと効き目があったみたいだから」
その二人に、一歩下がった位置で控えていた数名がそっと寄り添う。
「この一年、まどかをダシにして、あっちこっちから金品を巻き上げてやがったんだ。そろそろ、そのツケを払う時期が来たってことだな」
「姫巫女であるまどか殿の身柄がここにある限り、我等も下手な手出しができなかったが、これからはその遠慮もなしだ」
「思いっきりやってやろうぜ!」
「ライモンド、エルヴィス、ヴァレン……」
「私もいますよ、麗しの姫巫女」
「ヘイノルトも……みんなのおかげよ、本当にありがとう」
アルジーンも加えたこの五名が、最初から最後までまどかに付き従い、世界中を旅した仲間だった。当初はこの数倍の人数がいたのだが、あまりにも辛い旅の途中で一人二人と脱落していった。このロンダルからも高位貴族の参加者がいたのだが、旅の序盤もよいところで『魔物との戦いで負傷』し、戦線を離脱していった。ちなみに、その怪我というのは左手の甲のかすり傷だったのは、まどかも含め当時の面子の全員が知っていた。
「離宮に閉じ込められて、碌に連絡も取れなくなった時は、流石に焦ったが……ヘイノルトの鳥が役に立ったな」
「誰にも会わせず、手紙も許さない。浄化の力以外、何の能力も持ってない私だから、それで完全に外部との接触を断ったつもりだったんでしょう。まさか、餌付けした小鳥で連絡を取り合ってたなんて思わなかった――なんにしても、詰めが甘いのよ、この国は」
「小鳥がつなぐ愛の絆ですね。この事ももう秘密にしなくてもよいのですから、ロマンティックな物語として広める事と致しましょう」
アルジーンをはじめとして、彼らは有能な戦士である。特にヘイノルトはテイマーと呼ばれる能力を持っていて、様々な動物――時には魔物さえ使役することが出来る。旅の途中、何度も助けられた力だが、それが終わってからも役立つとは思わなかった。
「その話、是非、ここの貴族たちの間にも流行らせてやれ」
「勿論ですよ」
「その時、あいつらがどんな顔をするか……見られないのがちょっと残念だけど」
「そうだな。まどかは私の国へ来るのだから」
「あんな連中の事なんざ、もう忘れちまえばいい」
「その通りだ。ところで、アル。お前の国ならば、私達はちゃんとまどかに会えるのだろうな?」
「まどかは私の妻、ということを忘れないでくれるなら、いつでも歓迎するよ」
信頼できる仲間たちに囲まれ、久々に心の底からの解放感を味わいながら、まどかはそっと遠くに目を向けた。民衆の集まる広場の先、王宮の建物の間から垣間見える緑に囲まれた――あの離宮。
もう二度と、あそこに戻ることはない。
この後、バルコニーから下がれば、すぐにアルジーンたちと共にジーモルト皇国へと向かう手はずは整っている。そして、到着すればすぐにアルジーンとの結婚式だ。
「ちょうど白いドレスだし、このまま、神殿に駆けこんじゃおうか?」
「とんでもない。この国のドレスなど、胸糞が悪いにも程がある。まどかの結婚衣装は、ちゃんと私の国で用意してあるよ。国一番のデザイナーが腕によりをかけて作ったものだ。楽しみにしておいで?」
「ありがとう、アル。でも、私の為にあまりお金を使わないでね? それでなくともまだ平和になって一年しかたっていないのだもの。まだまだ苦しい生活をしてる人も多いでしょうし……」
「安心しなさい。すべて私の私財から出している――でも、そう言うまどかだからこそ、私は愛したのだよ」
ぎゅうっときつく抱きしめられ、それの事でまた、収まりかけていた歓声が復活する。大勢の人に見られていることを一瞬失念していたまどかは、真っ赤になり――それでも、アルジーンの腕をふりほどこうとはしなかった。
「愛してるわ、アル。そしてみんなも大好き……ありがとう。これからもどうかよろしくね」
そして、さようなら、ロンダル国だ。
ちらりと、アルジーンの体の向こうに、紫色の顔色をしたこの国の王の姿が見えた気がした。それを取り囲み、必死になって宥める宰相や大臣たちとひと塊の団子になっている。
それに向かい、最後の一言をまどかは送った。
「ざまぁ!」