注ぎ口
後要推敲
偶然に通りかかった家の門には、ちょうど呼び鈴の辺りに穴があって、上には『注ぎ口』と書かれていた。
「………………」
俺は見たことのない光景に、思わず立ち止まってそれを眺めた。『注ぎ口』は真四角の、一辺が十センチくらいの穴だ。中は真っ暗で、どこに続いているのはわからない。見てわかるのはそれだけだった。俺はこの辺りの風習かと思い、その家の門から離れて他の家の門も見てみたが、どうも『注ぎ口』があるのはこの家だけらしい。
となると、何故この家は、自宅の門などにこんなものを配置しているのだろうか。……いや、そもそもこの『注ぎ口』は、一体何を注ぐものなんだろうか。俺は思わず首を捻って考えてみたが、門に注ぐものなど浮かばない。郵便受けの代わりなのではとも思ったが、しかし郵便受けは郵便受けとして別に存在している。
俺は手がかりを得るために、門から焦点を外して、その奥の家に目を向けた。大きな木造の家だった。広めの庭には名前も知らない木や花が植えられ、瓦屋根の墨色や家の白木色に重なって、古風な武家屋敷を思わせる趣だ。
それはそれで感嘆するべき素敵な住宅だが、俺が望んでいるのはそれではない。俺は門から出来得る限り様々な場所を眺めてみた。しかし、俺が望む一般からの逸脱点はどこにも見られない。
「………………」
俺は、今自分のかばんの中にあるものを思い浮かべた。茶が半分ほど入ったペットボトル。それから、もう一度注ぎ口という文字を見て、注ぐという言葉の意味を思い返し、さらに携帯電話の辞書機能で調べる。……やはり、一般には水を何かに入れる際に使う言葉のようだ。
俺は少しだけ考えて、周りに誰もいないことをこっそり確認する。大通りとはいえない道であったが、それでも住宅街だ。近くで遊んでいる子供たちだっているかもしれない。俺は用心深く眺めて、この家の近くにはだれもいないという事実を、何度も確認した。
「………………」
俺は緊張と興奮を催しながら、ペットボトルをそっと取り出した。それから蓋をこっそり開け、辺りを不審げに見回す。実験。ちょっとした実験だ。何も危険なことはない。そう自分に言い聞かせて、俺は、蓋の完全に開いたペットボトルの内容物を、ほんのちょっとだけ『注ぎ口』に注ぎこんだ。
水の落ちる音はしなかった。すぐに門から体を引き、耳をすませ、辺りに目をやった。けれど、何かが起こった様子はまったくない。俺はもう一度『注ぎ口』を眺めたが、そこにも変化は見られなかった。
「………………」
嘆息する。ただのしょうもない悪戯だったようだ。俺はそれでもなお、恨めしげに辺りを探ってみた。が、見て取れる変化はやはりなかった。それでも諦めきれずに、立ち去ろうとする体で、こっそり家の方も見てみた。
家の下部が茶色く変色していた。
「………………」
俺は目をこすってその変色した様をまじまじと眺めた。それから、そこより上の部分の白木色との完全な色の違いとミスマッチを確認し、再び周囲に気を配ってから、今度は少し勢いよく茶を注いで、家に目をやった。
家は、まるで水に茶を注いだときのように、まず上がゆっくりと茶色くなり、それがだんだん下にいって、先ほど変色した場所の上に積まれるように、茶色の部位が割合を増した。
俺はその様子をはっきり見て、今度こそ認識した。この何とも言えない不思議に興奮し、思わず歓声をあげたくなった。同時に、ここへ来る道すがら、自販機があったことを思い出した。
俺は急いで自販機でジュースを買いこみ、嬉々としてそれらを門に注いだ。
家は忠実に注がれた液の色へと変化した。
コーヒーを注げばコーヒー色になった。
オレンジジュースを注げばオレンジ色になった。
緑茶を注げば緑茶色になった。
水を注げば透明になった。
メロンジュースを注げば、
爆発した。
「………………」
俺は絶句して、家を見た。
家は、ぼこり、ぼこりと、泡立つように爆発していくようだった。部分部分が風船のように膨らんで、残骸が少しだけ飛んで、庭に落ちた。それは上から中、下へとゆっくりと移動して、最後にはほとんど跡形も残らなくなった。
俺はしばらくその場に固まって、ずいぶん時間をかけてようやく事態を認識し、自分の手元を見た。
『メロンソーダジュース 炭酸入り』
手中の缶には、そう書かれていた。
俺は、もう一度家を見返した。
家はもう、家とは呼べない何かになっていた。
俺は慌てて逃げ出した。