ただの穴
さらさら練習用。頭の中に浮かんだことを、独りよがりに束ねて散らす、チラシの裏に書くようなことごと。繋がらないし続かない。面白さも求めていないので、読む人は注意してください。
かたん、かたん、という、微細な振動を感じながら、彼と彼女は窓ごしに、大きな大きな穴を見ていた。
本当に大きな穴だった。二人の視界のほとんどは、これが占めていると言ってもいい。底までどころか、その壁面さえ彼方にしか見えないそれは、得も言われぬ恐怖を見る者に与えた。ともすれば、今乗っているこの列車が、穴の上を不思議の力で飛んでいるような錯覚を与える。そしてそのことに気付いてしまったら最後、この魔法は解けてしまうのではないか。そんな馬鹿げた空想さえ浮かぶようだった。
「でかいな……」
思わず口に出た彼の言葉に、
「本当に」
彼女もまた、感想を素直に言った。
「これを降りていくのですよね」
「ああ。下に用事があるからな」
彼が頷くのを見て、彼女は少し不安そうに言った。
「……お言葉ですが、騙されたのではないでしょうか。こんなところに町があること自体、なんだか信じられません」
彼はその言葉を鼻で笑って、
「怖いのか?」
と彼女に言った。
「……別に、そういうわけではありません」
「そうか?」
「そうです」
彼女はすました顔で、じっと穴を眺める。
彼はその横顔を見て静かに笑った。
「……ま、心配するな。町はある」
「本当でしょうか?」
「嘘つくか。それにいい機会だ、どうせ地獄に行くんだから、今のうちに奈落の気分を味わって慣れとけ」
「ご冗談を。貴方なら閻魔でも倒せるでしょう」
「それこそ冗談だ。斉天大聖でもあるまいし」
口では互いに語りながら、二人は依然、穴を眺めている。いや、正確には、その下にあるという町を眺めようとしていると言った方がいいかもしれない。
「しかし、ここは採掘場だというが……」
彼は軽く嘆息する。
「そんなものには見えねえな」
「……採掘場、だったのですか」
彼女は少し驚いた。
「私は、天変地異の類によるものと思っていましたが」
「ま、普通はそう思うよな」
彼は苦笑して、
「けど、この穴は全部、人工のもんなんだよ」
と言った。
驚く彼女をよそに、彼はしばらく探って、懐から一冊の本を取り出した。古めかしい、小さな、革張りの本だった。それを彼女の方へ差し出し、また穴の底と向き直る。
本を渡された彼女は、ぱらぱらとページをめくってみる。消えかけた表紙の題名とは裏腹に、中の文字は濃く強く、感動を一字一句に込めるように書かれていた。
「三十八ページだ」
彼は窓の外を見たまま言う。彼女は従って、該当ページを見た。
そこにはこう書かれていた。
『――穴は採掘場なのだという。そこからは貴重な鉱物がいくつも掘り出され、土地の人間を喜ばせたそうだ。そして土地の人間は、その鉱物を売って、より簡単に掘れる道具を買い、さらに深く、深く掘り進んで行った。彼らは掘れるだけ掘り、採れるだけ採った。幸いにして、後のことなど考える必要もないくらい、埋蔵された分量は多かった。このような、地平線ならぬ穴凹線が生みだされるほどには、多種多様な鉱物が掘り出された。
私は今、穴の端からこれを眺めているが、この穴の広大さが人の欲望を具現化したようで、何だか居た堪れない――』
「……つまり、この穴の中に在った土は、かなりの割合鉱物を含んでいたのですか」
彼女は感心したように言う。
「神秘ですね。原因はわかっていないのでしょう?」
「ああ。なんでこんなに密集してんだか、まったくわからんそうだ。しかも他の土地じゃ滅多に見られない、もしくは知られもしていない希少品ばかり。躍起になって調べている奴もいるそうだが、まあ、解明は難しいだろう。手がかりがなさすぎる。異常なのは出てくるものだけって話だからな」
「そうなのですか。ますます不思議な所です」
彼女は、再び穴を覗き込む。今度は身を軽く乗り出すようにして。
「……改めて、これが人の手で生みだされたものと考えると、恐ろしいですね」
「まったくだ。よくやるよ」
「……ますます、この下に町があるのかどうか怪しくなってきた気がしますが」
「あるって言ってるだろうに……」
穴への興味を失ったのか、彼は視線を窓から外して彼女に向き直った。
「ここの工夫は死ぬほど儲かってる。こいつら相手に商売しないほど、世の商人どもは馬鹿じゃねえよ」
「……工夫、ですか?」
彼女は思わず彼の方を向く。
「ああ」
「………………。……すると、まだ」
「ああ」
彼は鞄から水筒を取り出しながら、言った。
「まだ鉱石は出てくる。掘っても掘っても、昔と同じ量がな」
「……………………」
彼女は少し押し黙って、それからもう一度穴を見る。下の様子はほとんどわからない。わからないが、しかし何か恐ろしいものが渦巻いているようで、彼女はおそるおそる、窓から離れた。
「……どれだけ、出るんでしょう」
「さあな」
「……でも、さすがにいつかは尽きますよね?」
「どうだかな」
彼は薄く笑って言う。
「尽きるときは、掘りすぎて溶岩が溢れ出てくる頃かもな」
奈落体験というよりか、こいつ自体が奈落だったりしてな――
彼は嗤って、水筒の水を飲んだ。