『辻の地蔵の、おすそわけ』
第一話:『番手とアスファルトの屑鉄』
美大をドロップアウトした引きこもりの葛西蓮は、居間の畳の上で、祖母の敏子が倒れているのを見つめていた。
救急車が去ったあとの静まり返った家に取り残され、蓮は祖母が遺した赤い生地を前に床へ座り込んでいた。やがて立ち上がり、真夜中の辻へ向かった。
そこに、伴モータースの伴豪太がくわえタバコで通りかかった。
豪太は道端にウエスを放り投げ、ポケットから工業用の替針を抜き取ると、蓮の足元のアスファルトへ向けて放り捨てる。
「シート縫う用のゴミ針だ。太すぎて普通のミシンにゃ入らねえよ。まあ勝手にしろ」
豪太は「あの石、昔の道標を削ったもんらしいぞ」と呟いて、暗がりへ消えていった。
蓮はその針を拾い上げた。指を刺しながら赤い生地を縫い、出来上がった歪な前掛けを夜の辻に佇むお地蔵様へと括り付ける。
その時、お地蔵様の台座の隙間に、敏子がかつて使っていた錆びついた糸切り鋏が挟まっているのに気づき、蓮はそれをポケットへと滑り込ませた。
*
敏子が救急車で搬送される際、駆けつけた町内会長の安田源次は、ストレッチャーの上で意識を失う敏子の老いた手を握り締めていた。
その掌の冷たさに押されるように、安田の脳裏には、戦後の混乱期にこの街の境界線にあったバラック街の記憶が蘇る。
生きるために毎日お地蔵様を洗い続けるしかなかった自分の父親に、若き日の敏子は「お地蔵様の手入れ」という細かな手仕事を分け与えたのだった。
第二話:『赤いテールランプの破片』
敏子が倒れたことで、街の秩序が音を立てて崩れ去っていくような恐怖に、安田は取り憑かれていた。
かつてこの辻の真下は暗渠化されたドブ川であり、この街の足元はもともと浮ついているのだと、安田は確信を抱いていた。
激しい暴風雨の夜、新興住宅地の閉ざされた窓の向こうから漏れ聞こえる怒号を聞きながら、安田は身構える。そこへ、小学一年生の三浦サクラが、冷たい雨の中を裸足のまま飛び出してきた。
伴モータースの店先に転がっていたバイクのテールランプの破片が泥の中に落ちており、サクラはその赤い破片を拾い上げると、お地蔵様へと走る。
しかし、濡れた台座で足を滑らせて顔面を強く打ち、切れた鼻から鼻血がお地蔵様の足元の石畳に広がっていく。
サクラは傷ついたお地蔵様の石肌を見つめたあと、怯えたように家へと走り戻り、若い母親の足にしがみついた。
安田は辻へ駆けつけ、お地蔵様の足元に残された血痕を目撃し、その場で警察と児童相談所へ連絡を入れた。
*
翌朝、児相の査察車が通りに集まる喧騒の中、サクラの母親はうろたえていた。
彼女は幼少期、ネグレクトに晒されていた記憶の底で、かつて敏子から無言で差し出された煎餅の温もりを思い出す。
娘のサクラが小さな掌で握りしめていた赤いレンズを見つめた瞬間、彼女はただその場に立ち尽くしていた。
第三話:『異邦人のブラシ、夜明けの沈黙』
古びたお地蔵様の胸元に、白いスプレーで「ガイジン帰れ」という文字が描き殴られていた。
通りがかりにそれを見つけたベトナム人のグエン・ヴァン・ハイは、夜を徹してその落書きを爪で削り落とそうとしゃがみ込んでいる。
そこへ、夜回りの途中で通りかかった安田が足音を荒げ、グエンの背中を犯人と決めつけて引きずり倒した。
怒号と修羅場の真っ只中、伴モータースのシャッターが重い音を立てて押し上げられ、豪太が「うわ、うるっせえな」と吐き捨てながら、工業用アルカリ洗剤のポリ容器と硬いブラシを二人の足元へ投げ出した。
「明日までに消しといてくれ」
それだけ言い残すと、豪太は再び店内に引っ込み、内側から鍵を閉めてしまう。
安田はグエンの腕を掴んだまま突き出そうとしたが、冷水と洗剤でひび割れ、血の滲んだグエンの両手を見て動きを止めた。
それはかつて、泥まみれになりながらお地蔵様を洗い続けていた実の父親の荒れた手と重なり合う。
安田の手から力が抜け、彼は無言でアスファルトにしゃがみ込むと、洗剤の泡の中で落書きを擦り始めた。
グエンもまた、目の前の老人の背中を見たまま、再びブラシを握り締める。
冷たい石をブラシが擦る乾いた音だけが、辻に響き渡っていた。
第四話:『シートの革屑と、辻の風』
それから一年。
向かいのコンビニはコインランドリーへと姿を変え、辻の野良猫たちの耳には「さくら耳」が定着していた。
通りを歩いてきた蓮は、お地蔵様の足元にある、あの日の黒いシミと落書きの削り跡をふと見下ろす。
蓮の爪の隙間には、もう簡単に落ちない黒い機械油が深く染み込んでおり、伴モータースの裏庭には、幾重にも張り替えたバイクシートの革屑がうず高く積み上げられていた。
サクラの家にはこの一年間、児相のケースワーカーが通い続け、その小さな机の上には、サクラが拾い集めたドングリの山が静かに並べられている。
サクラはドアを少しだけ開けると、「今日はお母さん、お薬飲んだよ」とケースワーカーに報告した。
安田とグエンは、この狭い辻ですれ違うたび、互いに会釈を交わし続けている。
迎えた地蔵盆の夜。
蓮は車椅子に乗せた敏子をゆっくりと押し、灯りの集まる辻へとやってきた。
サクラも、安田も、グエンも、それぞれの距離を保ったままそこに立っている。
夜風がお地蔵様の胸元を撫で、色褪せた赤い前掛けを揺らした。
車椅子の上の敏子の手がわずかに震え、蓮はその老いた指を自分の手でしっかりと包み込むように握り締める。
祭りの喧騒が遠ざかり、完全に静まり返った深夜の辻。
豪太は伴モータースのシャッターを下ろすと、タバコに火をつけ、お地蔵様に背を向けて煙を吐き出した。
「石ころに縋りやがって。アホくさ」
足元の地面には、あの日の黒いシミと削り跡が残り、風に揺れる前掛けの赤が闇に浮かんでいる。
そこへ、仕事を終えた蓮が歩いてきて、豪太の足元に小さな包みを置いた。
「今月のシート、縫い終わりました」
差し出されたのは、敏子の古びた糸切り鋏を、蓮が砥石で丹念に磨き上げたものだった。
豪太はそれを見下ろした。何も言わず店へ戻る。しばらくして、廃油缶の底を切り抜いて作った不格好な灯籠を手に戻ってきた。
「石ころが暗いと危ねえからな」
ぶっきらぼうに呟きながら、豪太はお地蔵様の足元へと踏み出し、その手製の灯籠をそっと置いた。
小さな炎が、お地蔵様の足元を照らしていた。
灯籠の火が、辻の冷たい風に小さく揺れていた。




