報告書14-歩いて旅をするということは
俺たちがこれからやろうとしているのは、油断して死ぬ人間が一番多い時期に峠を越えるという選択だ。
春から初夏の季節。
寒さが去って空は明るくなり、草も伸び始めた季節。
それだけなら旅には最適な季節だが、歴史を紐解くとこのタイミングで旅をするということの危険性がよく分かる。
この時期は、人が一番判断を誤る時期なのだ。
地面は乾いて見えるが、内部にはまだ水が残っている。
踏むと沈み込んで崩れて滑る。
雨が降っているから地面が崩れるのではなく、雨が降る前に下地が壊れ始め、雨や人が踏むことによって最後の崩壊が起こるのだ。
それでも人は『雨の前に』と歩いてしまう。
なぜなら、まだ大丈夫に見えるからだ。
もっとも俺たちも無策で歩き出したわけではない。
その点だけは、はっきりしている。
この街道は主要な街道だ。
国の中の街と街を繋いでおり、人や荷流れがあり関所では税が取られ、税金により街道が管理されている。
つまり獣道ではない管理された道だ。
道幅は一定で要所には目印の石積みがあるし、至る所に避難所や山小屋があり、人が泊まる前提で作られたルートだ。
人が管理するルートということは、最低限人が死にすぎないように設計されているということだ。
食料も足りている。
乾物中心だが数日は持つ。
水場も地図上では複数確認できる。
雨具もある。
今の時期なら装備としては過不足ない。
つまり、条件だけを並べれば「問題ない行程」を進んでいる。
史実的にもこの手の街道は、常に人が通っている前提で成り立ってきた。
だから俺は出発を止めなかったのだが、それでも嫌な予感が消えない理由も、またはっきりしている。
整備された街道というのは予定通り進むことを前提に安全が組まれている。
だが雨季前というのはその前提が静かに壊れ始める時期でもある。
山小屋が満員かもしれない。
山崩れで通れない箇所があるかもしれない。
川が渡れない水位かもしれない。
どれもそれ一つだと致命的ではないが、それが重なると詰む。
だから前に進むか引き返すかその場で待つか、迂回するかという判断をリアルタイムで怠ってはいけない。
整備された道というのは安全を保証するものではなく、判断が遅れても致命傷にならないようにするためのセーフティーなのだ。
その余裕をどう使うかが、旅においては生き残るかどうかの分かれ目になる。
実際『道があったから助かった』という話よりも『道があると思ったから死んだ』という話の方が多い。
今の俺たちはそのどちらにも転びうるタイミングにいるからこそ、歩きながら常に考える。問題ないかどうかは出発時点で決まるものではなく、リアルタイムで更新される情報による判断なのだ。
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街道が上り坂となり道がさらに細くなる。
そして左右が斜面になったところで、エミーナが突然足を止めた。
「あー……その、お兄さん、ここで少し待っててもらえますか」
言い方は穏やかだったが、理由はすぐに分かった。
地図ではこの先はしばらく脇に逸れられる場所がないようだ。
「分かった。俺は周囲を見てる」
俺はそれだけを言って、荷を下ろさずに少しだけ前に出た。
見張りというほど大げさなものじゃなく、人が来ないか、獣の気配がないかを確認するだけだ。
背後で草を踏む音が遠ざかっていった。
斜面の陰に回ったのだろう。
こういう時は不自然に意識しすぎる方が失礼だ。
必要なことを必要な手順でやっているだけだと、頭を切り替えた。
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風が木々を揺らし、鳥が一度だけ鳴いた。
時間にすれば、ほんの数分だ。
「……お待たせしました」
声がかかったので振り返るとエミーナは何事もなかったように、荷を背負い直していた。
「足場はどうだった」
「問題なかったです。ここはまだいい方かと」
淡々とした返答だった。
俺は少し歩いてから、今度は自分が足を止めた。
「じゃあ次は俺が行ってくるから少し待っててくれ」
「わかりました」
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用を足して戻るとエミーナは何事もなかったように荷を整えていたが、布の枚数を確認する仕草が不意に目に入った。
「……随分と量が」
独り言のつもりだったが、聞こえたらしい。
「え?」
「あー、すまん。男は正直、考えなくていいことが多い。水と布……その辺の葉っぱでも何とかなる。エミーナの場合はそうはいかないだろう」
一瞬驚いたような顔をしてから、彼女は小さく笑った。
「ふふっ、そうですね。その代わり慣れています」
エミーナは当然のように言う。
そこに愚痴も誇張もなかった。
「布は多めに……特にこの時期は厄介なので乾かせない前提です」
足元の土を見ながら彼女が続ける。
「乾いているようで乾いていないですし、洗っても完全には乾きません」
なんとなく頭の端では分かっていたが、本来は俺自身がもっと気を使って想定しておく部分であり、実感としては甘かった部分だ。
「……そこまで気が回ってなかった」
「お兄さんは気にする必要はありません。そんなもんですし慣れてます」
責める口調ではなく、事実を言っているだけだ。
「山道だと足場や視線、時間とか全部考えてるんですよ」
「時間?」
「はい、日暮れ前に色々と済ませられなかったら、それだけで危険です」
なるほど、と内心で頷く。
トイレ一つで行程が狂ってしまう。
現代では考えなくていいことだが、ここでは違うのだ。
エミーナは一瞬こちらを見て、すぐ前を向いた。
「それに山小屋に着いてからだと混みますから」
「共同か」
「はい。場所も匂いも……選べないし」
この世界ではトイレも衛生も、行程管理の一部で、それを当然のように受け入れている彼女を横目に、俺はまた一つ異世界を甘く見ていた部分を修正した。
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日が傾き始め、木々の影が長く伸びると山道の輪郭が曖昧になる。
同時についに空が崩れ始めそうな様子を見せ始めた。
「急ごう」
「はい」
俺たちは歩調を少し上げたが、山小屋を視界に捉える頃には雨が本格的に振り始めた。山小屋の屋根を叩く音が荒く、俺は急かされるように扉を押し開けた。
入った瞬間に鼻につく臭い。
酒。
濡れた獣皮。
そして汗。
そこには先客がいた。
人数は四、五人で、全員が男だった。
壁際に陣取って空いた酒袋を放り出し、靴も脱がずに足を投げ出して酒盛りをしていた。
「おい、まーた降ってるぞ」
「ついてねぇなぁ」
「はは、外よりゃマシだろ」
声が大きいし、笑い方が下品だ。
若干呂律が回っていないのを見るとかなり酔っているようだ。
こちらを見る視線が露骨に遅れて動く。
荷を値踏みする目。次に人を見る目。
最後に――女を見る目だ。
「……へえ、今日は当たりじゃねえか」
誰かがわざとらしく声を落とし、エミーナの足がわずかに止まった。
俺は一歩、前に出た。
連中は隠そうともせず肘で突き合い、にやついた笑いを浮かべる。
「山小屋も狭ぇからなぁ」
「分け合いってのは知ってるよなぁ?」
酒袋を振る音に湿った笑い。
だがここで強く出ると拗れるし、弱く出ると舐められる。
俺は何も言わず荷を下ろし、壁際に外套を広げてエミーナを座らせた。
自分の身体で境界線を作ると連中の一人が鼻で笑った。
「はは、守ってるつもりか?」
「大した甲斐性だな」
俺は答えないし反応する価値がない。
エミーナと向かい合うように座り、保存食を腹に詰め込み、水で喉を潤す。
会話は特にしない。相手に不要な情報を与えてしまうだけだからだ。
夜が深まるにつれ、連中はさらに下品になった。
笑い声が割れ、話の内容も汚れる。
「昔なぁ、山越えで――」
「おいそれはやめろ、捕まる」
誰も止めていないし止める気もない。
俺は予備の外套を出すとエミーナの外套と結び合わせて、2人で包まることにした。武器……ナイフも手が届く位置に置いておく。
「すまん、かなり近くなるけれどこれが一番安全だから」
「……はい。ありがとうございます」
エミーナの声は低いがそこに迷いはない。
過剰かもしれないが、エミーナを腕枕で抱き抱えるようにして外套を被った。
相手の気配が分かりづらくなるしいざという時動けなくなるから、頭までは被らない。
しばらくじっとしていると、エミーナが雨音に紛れるほどの声で言った。
「本当なら……こういう時に持っておく魔道具があるんですが」
「人避け……とか?」
「確かにそういうのもありますけど……子供ができないようにするやつです」
一拍置いて、続ける。
「でも……今は持っていません」
生々しい話だがこういう時……恐らくこういう旅そのものを避けるのが普通なのだろう。だが、女性としては最後のセーフティーとして必要なものなのだろう。
「だから……守ってください」
そう言って眠る前の子供のようにぎゅっと体を寄せてくる。
それは甘えじゃなく、行為でもなく、状況判断としての保護要請だ。
「ああ、任せろ」
連中の笑い声がまた一段荒れるが、こちらには近づかない
下品な連中ほど、面倒な相手は避ける。
壁と外套と俺。
それだけで作った簡単な防波堤だが、外套は見るものが見ればわかる冒険者ギルド職員が身につけているものだ。
雨は強くなったが夜を越えられれば十分だ。
そう思っていると、腕の中でエミーナの呼吸が少しずつ落ち着き、眠りに落ちたようだった。
俺はエミーナの柔らかさと背後からの気配に、眠らないまま夜をやり過ごした。
『準備不足は、事故報告書によって共有される
だが共有された時点で、もうなにもかもが遅い』
引用
助からなかったが、案件は完了した2
~手順を省いた分だけ救急車が近づく~
(著:宇佐木九郎)




