第3話「王都からの使節、条件交渉の鍋」
夜明けの空気は冷たく、灰を撒いた井戸の縁にはまだ水気が残っていた。わたくしは井戸底を覗き、板がきちんと嵌まり、灰と石灰が均一に沈んでいるのを確認する。
――よし。これで少なくとも“水”の道から病は減るはず。
鍋の中では、黒糖と塩の補水液が静かに湯気を上げている。匙で飲ませた子どもは、昨日よりも目がはっきりしていた。母親の顔に、ようやく「希望」という色が差す。
「リリアーナ様!」
声に振り返ると、レオンが駆け寄ってきた。軍靴に泥が跳ねている。
「王都から、正式な使節が到着しました。数十の兵を従えて」
わたくしは眉を寄せ、鍋の蓋を下ろした。
広場には、旗と外套の列。病に恐れてか、彼らは小屋の前で立ち止まり、馬から降りようとしない。
「……ここが噂の“薬草師の現場”か」
先頭に立つのは、王都から派遣された高官らしい。深緑の外套に金糸の縁取り。声は硬く、威圧で空気を支配しようとしている。
「婚約破棄により追放されたグレイス家令嬢……いや、今は“薬草師”と呼ばれているそうだな。王都は君に協力を求める。王弟殿下の療養を、ただちに王都へ移してもらう」
「――却下ですわ」
わたくしは一歩も引かず、冷ややかに答えた。周囲がざわめく。
「な、何だと……!」
「殿下はまだ熱が高く、移送は命を縮めます。ここで安静と補水、清浄な空気、そして鍋が必要です」
兵たちが顔を見合わせる。彼らも昨夜からのわずかな回復を見ている。殿下の呼吸は浅い波から、川のように落ち着きつつあるのだ。
「……では、条件を提示しますわ」
わたくしは声を張った。
「王都がこの病を封じたいなら、“鍋”を持ちなさい。補水液を作る鍋を、各街区に。井戸を整え、灰と布を常備し、薬草園を保護する。――その約束がなされるなら、わたくしは王都へ同行してもよい」
高官の顔が歪む。
「追放された令嬢風情が、王都に条件をつけると?」
「草は弱い。でも、人を生かす。……今、殿下の脈を支えているのは、金糸の外套でも、王都の命令でもなく、この鍋と草ですわ」
わたくしは補水液の鍋に匙を浸し、兵の一人に差し出した。
「飲んでみなさい。汗で渇いた体に効くでしょう」
兵は戸惑いながらも口に含み、驚いたように顔を上げた。
「……楽になります。喉に沁みて」
兵の声が伝わる。広場の空気が変わった。
高官は一瞬言葉を失い、やがて低く吐き捨てる。
「……いいだろう。殿下の快復を最優先とする。だが、王都へ戻ったとき――その舌がどれだけ持つか、覚悟しておけ」
脅し。だが構わない。
わたくしは静かに頷いた。
「覚悟なら、とっくに済ませています。殿下を救えるなら」
その日の夕刻。
殿下の熱はまだ残っていたが、呼吸は安定し、頬にわずかに色が戻っていた。わたくしは布を取り替え、脈を測りながら呟く。
「婚約破棄は、屈辱ではありませんでした。――これは、薬草園への招待状ですわ」
布越しに、殿下の瞳がわずかに開く。
「……君は、本当に、強いな」
その言葉は、病の空気を破る一筋の風のようだった。




