第22話「帰路の種、王都の影」
国境の町ロゼットを発ったのは、夜明け前だった。
谷に立つ二つの鍋からはまだ細い煙が上がり、残された兵と医官が交代で火を見守っている。
河の上には、二つの月の名残りが淡く漂い、山の稜線がその光を切り分けていた。
馬車に揺られながら、わたくしは振り返る。
鍋の煙は見えなくなったが、胸の奥に“湯気の匂い”が残っている。
――続けることが、最も強い。
その確信を抱きながら、王都への帰路に着いた。
道中、殿下は珍しく長く眠った。
杖を膝に預け、深い寝息を立てる姿は、国境で見せた緊張の仮面を外したように安らかだった。
わたくしは毛布を掛け、火傷跡の残る自らの指を撫でる。
――殿下の“舌の約束”は、火のように胸を温め続けていた。
だが、火は影を呼ぶ。
王都の城壁が見えたとき、その影はすでに待ち構えていた。
帰還の報告を終えるや否や、評議会の重鎮たちが殿下を取り囲んだ。
「国境で民閲板を立てただと? 数字を晒したなど、愚の骨頂!」
「敵国の目に、自らの弱みを見せたに等しい!」
「盟は外交の方便でよい。実地に徹底する必要などない!」
声が飛び交い、空気が熱を帯びる。
殿下は黙って杖を握り、わたくしを見た。
わたくしは深く礼をし、一歩前へ出る。
「――晒さなければ、影は濃くなります」
声は震えなかった。
「影を濃くすれば、粉は隠れ、数字は歪み、火は布を焼きます。晒せば、影は形を失います。……王都を守るのは、数字の壁です」
重鎮の一人が嘲るように笑った。
「民に数字を与えれば、統治は崩れる!」
「崩れるのは、虚飾です」
わたくしは彼を見据えた。
「虚飾は壁を高く見せますが、跨がれると気づいた瞬間に崩れます。――低く長い壁こそ、越えようとしても歩き続けるしかない。惰性が国を守るのです」
広間は沈黙に包まれた。
殿下は杖を軽く鳴らし、短く告げる。
「盟は、続ける。紙ではなく、湯気で守る」
だが、会議の後、レオンが密やかに報告した。
「殿下。古い商会の一部が、布の流通を止めようとしています。端切れが値上がりし、鍋場へ届く量が減り始めている」
殿下は眉を寄せた。
布は鍋の隣に欠かせぬ“壁”だ。布が滞れば、口覆いも寝床も失われ、病は再び広がる。
「リリアーナ」
殿下が視線を向ける。
「布の道を、どう守る」
わたくしは一瞬考え、答えた。
「道を一つに絞るから、止められます。ならば、布を“畝”にします」
「畝?」
「園の布干しを市に広げます。端切れは札で等価交換し、民が自ら干し、畳み、配る。――布を“育てる”仕組みに」
殿下は目を細め、静かに笑った。
「……君は、すべてを畝にするのだな」
その夜、園に戻ると、セレスティアが待っていた。
彼女は深い礼をして告げた。
「リリアーナ様。――評議会の記録を、一部、写してまいりました」
差し出された羊皮紙には、重鎮たちが署名した密約の写し。
“盟を紙だけに留め、実地を縮小せよ”――。
彼らは表で承認しながら、裏で盟を骨抜きにしようとしていたのだ。
わたくしは羊皮紙を握りしめ、深く息を吐いた。
――影は濃い。だが、晒せば形を失う。
この密約も、晒さねばならない。
翌朝。
広場の民閲板の前に、わたくしはその密約を貼り出した。
人々は驚き、ざわめき、やがて怒りを燃やす。
「盟を潰すのか!」「数字を隠す気か!」
声は一気に広がり、殿下のもとへ届いた。
殿下は広場に現れ、杖を掲げて言った。
「盟は民のもの。数字を隠そうとする者は、鍋の火を吹き消す者だ。――火を守るのは、君たちだ」
民衆の歓声が湧き、密約の署名者たちは沈黙した。
だが、その目はなおも諦めてはいない。
――影は、まだ動いている。
夜更け。
園の畝を見回っていると、月明かりの下で殿下が立っていた。
「リリアーナ。君は影を晒すが、影は君を狙う」
「狙われるのは、鍋の火に近い者の務めです」
殿下は静かに近づき、声を落とした。
「――務め以上に、私は君を守りたい」
胸が高鳴った。
紙でも舌でもなく、ただの囁き。
それは、国の盾を支える火の隣に、確かな温もりがあるのだと告げていた。
月の下、畝の影が長く伸びた。
草はその影を越え、なお芽を伸ばす。
――影は濃い。だが、芽は影を覚えながら、光へ伸びる。




