第21話「国境の鍋、二つの月」
王都から東北へ二日の道のり、国境の町ロゼットは薄い霧に沈んでいた。
山脈のふところに抱かれた谷の町は、いつもなら塩と羊の香りが風に乗る。だがこの朝は違った。布で覆った口の内側に、鉄の気配が残る。――咳の音が、石壁に当たって崩れ、足元で粉になる。
丘の上の櫓から見下ろすと、谷底を這う街道に二つの列が見えた。
一つは王都から来た救援小隊――鍋と布と灰袋、そして種箱。
もう一つは隣国側からの医療従事者の列。旗は青と白。
谷の底、浅い河の石橋の上で二つの列が止まり、互いに距離を取って見合った。
「――ここからが、“盟”の試金石ですね」
わたくしは風除けの外套を正し、橋へ向かった。
王弟殿下は、杖で土を軽く突きながら歩を合わせる。体調は良好だ。肌に血色が戻り、視線は深く澄んでいる。
橋の中央で足を止めると、隣国の使者が黒い扇を畳んで一礼した。
「園丁長。王弟殿下。――我々も“開かれた鍋の盟”を携えて来た。紙はここに。だが、紙だけでは子は救えない。鍋をどこに置く?」
「橋のたもとに」
わたくしは迷わず答えた。
「川風がある。煙が流れる。井戸の水を混ぜないように距離を取り、灰を上流側に撒く。――ここなら両国の民が近づけるし、離れもできる」
使者は一瞬だけ目を細め、唇の端をわずかに上げた。
「では、鍋を二つ。――“国境の鍋”だ」
石橋の脇、河畔に鍋を据えつける。片側は王都の鍋、片側は隣国の鍋。
その真ん中に、第三の鍋――“混合鍋”を置き、鍋の縁に盟の紙を結わえ、風でひらひらと揺らした。
煙は風下へ流れ、河の音は低く、絶えない。
最初に運び込まれたのは、谷の羊飼いの少年だった。
頬に赤黒い斑、唇が乾き、喉がひくひくと動く。母親が肩を抱き、視線だけがこちらに縋る。
わたくしは少年の脈に指を当て、舌の色を確かめ、腹を軽く押した。
――下している。水が抜けきる前に、口へ戻す。
鍋へ蜂蜜と塩、少しの香草。火を弱め、匙で冷まして口へ。
「少しずつ。目が潤んだら、もう半匙……はい、上手です」
少年の喉が、やっと“飲むための動き”を思い出したように上下する。
隣では隣国の医師が、同じ手順で少女へ匙を運んでいた。
手つきは粗くない。だが、匙の間隔がわずかに早い。わたくしが目で合図を送ると、彼は微かに顎を引いた。
――この場の力は、敵を作らないこと。鍋の縁を共有すること。
やがて、河畔の広場は臨時の鍋場へと変わった。
両国の兵が縄を張り、布干しの棚を連ね、検見台を橋の上に設け、民閲板を両岸に立てる。
色札が一つ、また一つ貼られ、数字が昼の光の下に晒されていく。
「殿下。――国境の“壁”、低く長く、ですね」
「君が設計し、皆が持った壁だ」
殿下の目が笑い、風が灰を薄く運んだ。
午後。
隣国側の鍋に、香りの強い根が投げ入れられた。
香りはたしかに良い。だが、半毒草。灰が足りなければ、下痢が続く。
わたくしは鍋の縁へ歩み寄り、声の届く距離で低く言った。
「灰を――二匙。根は薄切りに」
鍋を煮る若い医師は、わずかな逡巡のあと、素直に従った。
背後で、黒扇の使者が小さく扇を打つ。
――合図か、拍手か。
いずれにせよ、鍋の上にあるのは命だ。感情を煮立てれば吹きこぼれる。
少し離れたところでは、王都側の若い医官が、布商会から届いた端切れを折って口覆いを配っている。
昨日の評議で敵対した古い商会の姿はない。だが、“等価交換”の札は流れ始め、端切れは民の手で“道具”になっていく。
敵だったものが、隣に立つ。――鍋に近づくほど、人は同じ動きを覚える。
夕陽が山の肩にかかるころ、谷底に不穏なざわめきが走った。
橋の下手、古い倉の影でどよめき。兵が駆け、隣国側の従者が叫ぶ。
わたくしは殿下と目を合わせ、駆け戻った。
倉の扉の前に、粉の袋。甘い匂い。
――粗製粉末。
だがこれは、昨日のものより粒が細かい。水に溶けやすく、沈殿が遅い。見分けが難しいように作ってある。
レオンが短く舌打ちした。「川向こうで“改良”したな」
「なら、検見台の“癖”を増やします」
わたくしは手早く、井戸から清浄な水を汲ませ、三つの椀に注いだ。
一つには正規の砂糖、二つ目に粗製粉、三つ目に蜂蜜を薄めたもの。
民の前で、溶かし、光に透かし、底を静かに揺らして渦の立ち方を見る。
――正しいものは光を“返す”。粗製は光を“抱く”だけで底に濁りが残る。
説明を絵札に描き、検見台に貼った。
黒扇の使者が、苦い笑みを落とす。
「敵ながら、見事だ」
「敵にしないでいてくだされば、もっと見事にできます」
使者は答えず、扇を畳んで倉の影を見た。
影の奥から、ひとりの白衣が引きずり出される。
――王都の中堅医官。昨日、帳簿に“点字”を仕込んでいた男の仲間だ。
彼は汗に濡れ、唇を噛み、地面に膝をついた。
「数字を……良く見せろと言われた。病はすぐ収まる、そう書けと。……商人も、貴族も、皆が」
観衆の何人かが拳を握る。怒りは鍋の縁を溢れようとする。
殿下は杖を突き、わたくしに目で合図した。
――火加減。
「怒りは、火です」
わたくしは民に向けて、ゆっくり、はっきりと言った。
「この火を“鍋の下”に置けば、数は煮えます。上にかざせば、鍋は焦げます」
わたくしは白衣の男を見た。
彼は泣いていた。
赦しは忘却ではない。だが、火を上にかざすのではなく、鍋の下へ移すことはできる。
「――あなたは、今日の鍋を十杯運んでください。数字を正しく数え、民閲板へ貼る。
それが、あなたの罰です。あとで、法の罰を受ける。その前に、人の罰を」
殿下は静かに頷き、兵に命じた。「見張りをつけろ。――だが、運ばせよ」
民はざわめき、やがて頷いた。
火の向きが変わった。湯気が香りを伴い、夕暮れの空へ上っていく。
夜が谷を覆った。
山の稜線の向こうから、薄い月が上り、しばらくして、もう一つの月が雲を割って顔を出した。
――二つの月。
国境に立てられた旗の上で、異なる色の布が同じ風に揺れる。
鍋場の火は小さく落とされ、見張りの兵たちが交代で湯を見守る。
民閲板の前では、子どもが父に数字を読み上げ、母が布を畳み、老人が手を洗う手順を指さす。
それぞれの動きが、国籍を失い、ただ“暮らし”になる瞬間だった。
わたくしは橋の中央で立ち止まり、川の音を聞いた。
殿下が隣に来る。レオンは遠巻きに、人影の動きを見ている。
「――君は今日、“国境の鍋”を置いた」
「置いたのは皆です。わたくしは、鍋の縁を拭いたくらい」
殿下は首を振り、月を見上げる。
「二つの月が出る夜に、私は約束したい。……紙の話ではない。舌で言う、短い約束だ」
胸が小さく鳴った。
鍋の火は穏やかで、風はやさしく、月は二つ。
殿下は、わずかに笑い、しかし目は真剣だった。
「私は、君の鍋の隣で老いる。
君が誰の手を取っても、誰の匙を導いても、私は妬むが、鍋を蹴らない。
嫉妬は火加減だと、君が教えた。――私は、それを守る」
言葉は短く、紙ではない。
紙は、風でめくれる。
舌は、火で温まる。
わたくしは、ゆっくりと頷いた。
「わたくしは、殿下の湯気を守ります。
殿下が火を強めすぎたら布で覆い、弱めすぎたら灰を払う。
――それが、園丁の仕事です」
殿下は笑い、橋の欄干に掌を置いた。
手の甲に走る薄い傷が、月の光で銀に光る。
それは、病の夜に彼が通った道の証。
わたくしの掌にも、鍋の縁でできた小さな火傷が幾つもある。
それらの傷は、国境の上では、ただ“働いた痕”だ。
深夜。
倉の影、川のざわめき、灰の匂い。
黒扇の使者が一人で橋の中央に立っていた。
彼は月に扇を向け、開き、閉じ、やがてわたくしの足音へ顔を向けた。
「園丁長。国境に鍋を置くことは、剣を抜くことより難しい」
「剣は一度抜けば終わります。鍋は毎日火加減を見ます。……長い戦いです」
「我らの王は、“盟”に印を付けた。――だが、印より先に風が動く。君はそれを分かっている」
「風を止めることはできません。なら、香りを乗せます」
使者は小さく笑った。
「いずれ、私の国でも民が板の前に集まる。数字を指でなぞり、絵札を真似る。……それを恐れる者もいる。
だから、君は敵だ。だが――」
彼は一拍置き、扇を下げて低く言った。
「――私は、君の敵でいたくない」
風が橋を渡り、二つの月が薄い雲に滲んだ。
わたくしは短く返した。
「鍋の前では、皆同じです。
“盟”が紙である限り、敵は生まれる。
鍋が湯気を上げている限り、敵は溶けます」
使者は扇で顔の半分を隠し、深く一礼した。
言葉はなく、足音だけが橋に消えた。
明け方、谷の色が青に変わる。
鍋の湯はまだ温く、灰は薄く広がり、布は朝露を吸って重い。
民閲板の色は昨夜より少し薄くなった。発熱者の札が三つ減り、井戸の清浄が一つ増え、鍋の量は同じ――よい惰性だ。
わたくしは板に新しい色札を貼り、子どもに絵札を手渡した。
「今日は、あなたの手で貼ってね」
指先に付いた糊を見て、子どもが笑う。
その笑いの向こうで、殿下の声がした。
「王都へ戻ろう。……壁は立った。あとは続けるだけだ」
「はい。続けましょう。――いつも通りに」
続けることは、最も難しく、最も強い。
草は、根の回り道を覚え、再び伸びる。
種は、今日も風に乗る。
鍋は、今日も火加減を問う。
わたくしは橋の中央で一度振り返り、二つの鍋を見た。
片方の湯気は少し甘く、片方はわずかに香ばしい。
真ん中の鍋は、両方の香りを薄め、川風に混ぜている。
それは、国境の匂いだった。
「――さあ、今日も鍋から始めましょう」
胸の奥で、いつもの合図が小さく灯り、谷がやわらかく受け取った。




