第20話「紙の盟、芽吹く国境」
王都の鐘が正午を告げた時、石畳の広場に新しい板札が立てられた。
――〈民閲板〉。
昨日の盟で定められた数字を、民に晒すための板だ。
板の上には色札が整然と並び、鍋の量、井戸の清浄回数、補水の配布、発熱者の数が一目でわかるように描かれている。字の読めぬ者のために、絵も添えた。鍋の絵は赤、井戸は青、布は白。数が減れば色が薄くなり、増えれば濃くなる。
最初は足を止める者も戸惑っていた。だが、子どもたちが絵札を指でなぞり、「今日は鍋が三つ!」「井戸は二回!」と声を上げると、笑いが広がった。
――数字が、暮らしの遊びに変わる。
それが“惰性”の始まりだと、わたくしは胸の奥で確信した。
その日の午後。
王都北門に、正式な隣国の使節団が到着した。
昨日の“交流団”とは違い、旗も馬も整えられ、外交儀礼を守る行列。だが、その先頭にいるのは、やはりあの黒い扇を持つ使者だった。
「王都に感謝を。我らの王は“開かれた鍋の盟”に賛意を示す。よって、ここに国印を添える」
使者が掲げたのは、隣国の印章が刻まれた青い印板だった。
観衆がざわめき、王弟殿下は静かに頷いた。
そしてわたくしへ視線を送る。
「園丁長。君の言葉を、ここで」
胸が高鳴る。
わたくしは一歩前へ進み、広場の民と、石の階段に並ぶ貴族と、そして隣国の使節団とを一望した。
「……草は、国境を越えます。風に乗って飛び、根を下ろします。
だから、鍋も国境を越えて煮なければなりません。鍋の火加減は、数字で示しましょう。紙に描き、色で示し、誰の目にも晒す。
――それが、“盟”の顔です」
広場に沈黙が落ち、やがて拍手が湧いた。
だが、階段の上の貴族の列には、冷ややかな視線も混じる。
“民に数字を晒す”ことは、彼らにとって権威の揺らぎを意味していた。
その夜。
評議会の小広間で、数名の貴族が殿下に詰め寄っていた。
「民閲板など、権威を損なうだけだ!」
「数字を庶民に渡せば、不安を煽る!」
「隣国の風評に弱くなるぞ!」
殿下は杖を突き、静かに言った。
「権威を守るのは虚飾ではない。真実と行いだ。……園丁長、説明を」
わたくしは深く礼をし、短く答えた。
「数字は、灯です。灯を隠せば影は濃くなります。晒せば、影は形を失う。……王都を守るのは、数字の壁です」
貴族たちは黙り込み、やがて一人が吐き捨てるように言った。
「……ならば、その壁が倒れた時、責任を取れるのか」
わたくしはまっすぐに視線を返した。
「壁は低く、長く作りました。倒れるなら、皆で跨ぎます。――それが惰性です」
沈黙。
殿下が小さく笑い、会議はそれ以上続かなかった。
翌朝。
隣国の使節団は、薬草園を視察に訪れた。
畝に並ぶ草々、鍋場の煙、検見台、民閲板。
彼らの目は鋭く、時に好奇、時に計算の色を帯びていた。
その中で、黒扇の使者がわたくしに近づき、低く囁いた。
「君は外交官ではない。それゆえに手強い。……だが、国境の向こうにも、君と同じように草を摘む者がいる。
――いずれ、その者たちが声を上げる。君の壁は、彼らにどう映るだろうな」
その言葉に、胸の奥で風が鳴った。
壁は低い。誰でも跨げる。
ならば、国境を越えた先で芽吹く草も、きっとこの壁を歩くのだろう。
「……映すのは、壁ではなく、鍋の湯気です」
「湯気?」
「ええ。壁は形を示すだけ。湯気は香りを伝えます。――草の香りは、国境を越えますから」
使者はしばし沈黙し、やがてわずかに笑った。
「……なるほど。草娘ではなく、草の使い手だ」
夕刻。
園の片隅で、セレスティアが子どもたちと一緒に絵札を描いていた。
病に倒れていた彼女が、今は笑いながら絵筆を握っている。
子どもが描いた歪な鍋の絵を見て、彼女は声を上げて笑った。
「リリアーナ様。……わたくしも、ようやく惰性の一部になれそうです」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。
赦しは、形を変えて続く。
草は、昨日の石を覚えたまま、今日の芽を出す。
夜。
殿下と並んで園を見渡す。
鍋場の火は小さくなり、煙は夜空へ溶けていく。
民閲板の前には、まだ数人が残って数字を眺めていた。
「国境の向こうにも、この板を立てる日が来るだろうか」
殿下の問いに、わたくしは答えた。
「草は国境を選びません。芽吹くのは、人が鍋を欲した場所です」
「……その時、君はどこにいる」
「ここに。鍋の火の側に」
殿下は静かに頷き、杖を地に突いた。
「ならば、私はその火を守ろう」
夜風が畝を撫で、芽の先がわずかに揺れた。
その揺れは、不安ではなく希望。
紙に刻まれた盟が、芽吹きの香りを帯びて、国境を越える予感だった。




