第18話「北門の風、種を渡す手」
夜明け前、王都北門の空はまだ薄暗かった。
霧が低く流れ、松明の灯が橙色に揺れている。
その下に、幾列もの荷車と人影――隣国からの“医術交流団”が姿を現した。
馬車には色鮮やかな布が掛けられ、香の匂いが風に乗る。
先頭に立つのは、昨日評議会で笑みを浮かべた隣国の使者。
彼の目は、霧の奥で獲物を狙う獣のように光っていた。
「王都の皆々よ、我らは学びを携えて参った。鍋と草の知恵を交換し、共に民を救おうではないか」
その声はよく通り、門前に集まった群衆を揺さぶる。
だが、わたくしには甘さの奥に鉄の匂いが混じるのが分かった。
王弟殿下は門の上段に立ち、杖を持つ手を高く掲げる。
「歓迎しよう。ただし――我らの約は“見える取引”だ。鍋場にて、共に手を動かし、民の前で知恵を晒せ」
使者の眉が僅かに動いたが、すぐに笑顔を取り戻す。
「無論。そのために来たのだ」
荷車が城内へ入る。
積み荷の布や木箱の間に、わずかな違和感。
灰袋と同じ重さのはずの箱が、妙に軽い――。
わたくしは目でレオンに合図を送った。彼はすぐに兵を散らし、周囲を囲む。
午前、広場に臨時の鍋場が設けられた。
民衆が円を描き、中央に三つの鍋。
一つは王都側、もう一つは隣国側、残る一つは“混合鍋”――互いの材料を入れ、共に煮るためのものだ。
使者は自らの袋から香草を取り出し、湯へ投じる。
たちまち鮮烈な香りが広がり、民がざわつく。
「いい匂いだ」「向こうの草はこんなに香るのか」
だが、わたくしは注がれた草の根を見逃さなかった。
切り口に黒い斑。煮れば確かに香りは立つが、量を誤れば強い下痢を起こす――“半毒草”。
わたくしは前へ出て、静かに告げた。
「――その草は、量を誤れば命を奪うものです」
民衆が息を呑む。
使者は肩をすくめ、笑った。
「量を誤れば、とは誰にでも言える。塩だって飲み過ぎれば毒になる。問題は“扱い方”だ」
「では、扱い方を示しましょう」
わたくしは灰袋を開き、湯に一匙落とす。
草の煮汁が変色し、苦味が和らぐ。
「灰を加えれば毒は沈み、香りだけが残ります。――知恵は、隠すためでなく、晒すためにあります」
観衆が大きく頷き、隣国の使者の笑みが薄れた。
午後、混合鍋に双方の材料を入れる段となった。
その時、隣国の従者の一人が箱を運び込み、蓋を開ける。
中には白い粉――甘い匂いが広がる。
「これは滋養粉。我が国では子どもに与える」
わたくしは鍋に近づき、指で少し掬って水に溶かした。
瞬時に、底に黒い沈殿。
――昨日、倉で見つけた粗製の粉と同じ。
「これは滋養ではなく、害です」
わたくしの声が響くと、民衆がざわめき立つ。
使者の顔に一瞬、苛立ちが走った。
だが殿下が杖を突き、声を張った。
「王都では、鍋も布も札も、すべて民の目に晒す。――隠し持つ粉は不要だ」
従者たちは狼狽え、箱を抱え直す。
兵が素早く押さえ、民が拍手と怒声を混ぜて叫ぶ。
夕刻。
騒動の後、殿下と共に鍋場を見回る。
民は笑いながら種箱を手にし、子どもは絵札を真似して口覆いを作っていた。
光景は混乱ではなく、確かな“惰性”へと移り始めている。
「リリアーナ」
殿下が声を落とし、隣に立つ。
「今日の風は強かった。だが、君の手が種を守った」
「まだ芽吹く前です。嵐が来れば、容易く吹き飛びます」
「ならば、壁を低く長く築こう。君と共に」
その言葉に、胸の奥で熱が揺れる。
婚約破棄で潰えたはずの誇りが、今は殿下の隣で、静かに芽吹いていた。
夜。
執務室に戻り、記録を綴る。
今日の混合鍋、草の毒、粉の偽り、民の反応。
そのすべてを紙に残す。
レオンが窓辺に立ち、外を見張りながら言った。
「隣国の影はまだ去らない。だが今日の公開で、少なくとも“民”は君を信じた」
「信じられるのは怖いものです。ですが、信を裏切らない手順を作れば――それは鍋の火と同じ、惰性になります」
外では風が強まり、夜空の雲を流していた。
その風に、きっと種は乗る。
わたくしは筆を置き、窓の外を見やった。
「――草は、国境を越えます」
その呟きは、夜の風に溶けて消えた。




