第16話「種箱と風の行方」
夜明けの王都は、まだ薄い靄に包まれていた。鐘楼の音が遠くで鳴り、露を帯びた石畳に、朝市へ急ぐ荷車の軋みが重なる。
薬草園の畝もまた、露に濡れて銀色に光っていた。わたくしは籠を抱えて畝を渡り歩き、一つ一つの芽に目を落とした。芽は小さい。だが根はしっかり張り、昨日よりも確かに強さを増している。
「……よし。これなら配れますわね」
種箱。
それは一つの小箱に、乾燥させた種と簡易な絵入りの手引き、布と灰の袋を詰め合わせたもの。街区ごとの井戸端や小広場に置き、誰でも手を取れるようにする――風に乗せるための工夫だった。
「園丁長!」
声をかけてきたのは、港から戻った商人の娘だ。港の騒動で共に動いた彼女は、今や園の働き手として加わっていた。
「箱の仕分け、終わりました! 五十区分、全部揃いました」
「ありがとう。配布は午前の市に合わせて。民の流れに混ぜれば、自然に手が伸びます」
娘の頬に汗が光る。その笑顔は、かつてわたくしを“草娘”と嘲った顔とは別物だった。
――笑いは消えず、変わっていく。草の芽吹きと同じように。
午前、王弟殿下が視察に訪れた。杖をついてはいたが、歩みはもう確かで、声に力も戻っている。
「これが“種箱”か」
殿下は一つの箱を手に取り、丁寧に蓋を開いた。
中には小袋と絵札、乾燥した葉、灰の包み。
「絵札は、子どもにもわかりやすいな」
「はい。読めぬ者でも、鍋と布の絵を見れば意味が伝わります」
殿下は満足そうに頷き、周囲の兵に目を向けた。
「――この箱は剣ではない。だが国を守る武具の一つだ。配布を支援せよ」
兵たちが胸に手を当て、力強く答えた。その様子を見て、胸の奥が温かくなる。
市へ向かう荷車の列に、わたくしも加わった。
露店が立ち並び、果物や布や香辛料の匂いが入り混じる。人々は最初、怪訝そうに種箱を見た。だが、絵札を手にした子どもが「これ、うちの鍋でもできる!」と叫んだ途端、空気が変わった。
母親たちが次々と手を伸ばし、老人が箱を抱えて頷き、若い男たちが「井戸の横に置こう」と声を掛け合う。
「これで、病のたびに右往左往せずに済む」
「草娘じゃなくて……薬草様だな」
囁きが耳に届き、頬に熱が広がる。
嘲笑を浴びた言葉が、別の意味で返ってきた。
しかし、その陰では別の視線が動いていた。
市の端で、黒い外套を纏った隣国の使者が、種箱を一つ手に取り、目を細めていたのだ。
「……民が自ら鍋を煮る国か。やっかいだな」
彼の呟きは誰にも届かず、群衆のざわめきに紛れた。だが、その眼差しは確かに国境の外からの“影”を孕んでいた。
午後。薬草園の執務室に戻ると、文官たちが山のような帳簿を運び込んできた。
「園丁長! 種箱の費用配分について、商会連合から異議が出ています」
「異議?」
「はい。『王家直轄で種や布を無償配布すれば、既存の商いを圧迫する』と。特に布商会が強く反発を……」
帳簿に押された印影は、赤く滲んでいた。
商会――王都の血管を握る存在。その反発は、病と違う形の“熱”を孕んでいる。
「布は必ず消耗します。買い換えは減りません。むしろ衛生が広まれば、人の往来が増え、商いは活気づきます。……ですが、彼らが目先の損を恐れるのも理解できますわね」
わたくしは筆を取り、短い文をしたためた。
「――布商会に協議の席を。市での“使用実演”を共に行うことを提案」
文官は目を見開いた。
「協議……ですか? 敵に舞台を与えることに……」
「敵に見えるものでも、鍋を一緒にかき回せば、隣に立つ人になりますわ」
夕刻、園の片隅。殿下が再び姿を見せた。
「布商会に協議を提案したと聞いた。賢いが、危うくもある」
「危うさも、鍋の火と同じです。強すぎれば吹きこぼれますが、弱すぎれば生煮えになります」
殿下は静かに笑った。
「君の比喩はいつも鍋だな」
「鍋は嘘をつきませんから」
言葉を交わすうち、殿下の眼差しが柔らかくなった。
「……私は今、王妃に言われている。“王弟の隣に誰を置くか、早く決めよ”と」
胸が小さく跳ねる。
「……それは……」
「まだ答えは出さない。君が選ぶべきことだから。だが、一つだけ確かなことがある」
殿下は杖を支えにしながら、一歩こちらへ近づいた。
「君がいなければ、私はもうここにいなかった。……それは婚姻よりも強い絆だと、私は思っている」
胸の奥に熱が広がり、言葉が詰まる。
返事はまだできない。けれど、その沈黙すら否定ではなく、ひとつの“芽吹き”であることを、わたくしは知っていた。
夜。園の門を閉めると、レオンが駆け寄ってきた。
「リリアーナ。隣国の使者が動いた。種箱を幾つも買い取り、城外へ持ち出そうとしている」
「……盗むのではなく、買った?」
「表向きは“正規の購入”だ。だが、あの眼は――利用する気だ」
風が冷たく頬を撫でる。
草は風に乗る。だが、毒もまた風に乗る。
「……ならばこちらも、風の道を描きます。――隣国に渡る種は、必ず“絵札付き”で。方法を隠さず、公開で広げる。真実を民に先に与えれば、毒は混じりにくくなります」
レオンは口元を上げた。
「やはり光で戦うんだな。……なら俺は、その光に影を落とさせぬ剣になる」
心強い言葉だった。
深夜。
執務室で一人、記録帳を閉じる。
今日一日で配布した種箱の数、民からの反応、商会との軋轢、隣国の動き。
すべてが嵐の兆しのように見える。だが同時に、それは草の根が広がる音でもある。
婚約破棄で捨てられた日、わたくしは“無力な草”だと思わされた。
けれど今、草は国を繋ぎ、種は風を渡り、芽は未来を揺らしている。
「――草は、踏まれてもまた芽吹きます」
窓の外に広がる王都の灯を見つめながら、静かに呟いた。
それは自分への誓いであり、国への宣言でもあった。




